- ナノ -


(8)酒なら甘くマイルドなチェリーワイン-1


 なんで、と問うた私に、ダンデさんはとても嬉しそうに笑んだ。
 心あらずで問うた声は、自分でも嫌になるほどに掠れていた。

「待たせてすまない」
「え?いや待ってませんけど」
「こんな時間まで一人待たせてしまって」
「私の声きこえてますか?」

 しまった、そうだ酔っていたんだこの人。遅れて状況を思い出すと体の力が抜けて嘆息した。今ダンデさんの口から飛び出す言葉は全て酔っ払いの戯言なのだ。いちいち真に受けて正面から対処しても無駄な事だった。
 どっと一気に疲れた私を気に留める様子もなく、ダンデさんは赤らんだ顔でからからと笑いながら座る私の目の前まで歩み寄って来た。正面に立った彼の片手にはスマホがあり、そうだ耳に当てたままだったと今更ながら思い出して、いつの間にか通話が切れていた、持ったままのそれを鞄にしまった。

「行こう」
「は?」

 どこに?そう訊ねる間もなくダンデさんはさっと私の手を取るとなんと強く引っ張ったではないか。逞しく鍛え上げた隆々たる肉体を持つ彼には力で当然敵う訳もなく、あっさりと体は引かれるままに立ち上がってしまう。イーブイが慌ててそこから飛び降りてくれはしたが、イーブイもわかりやすく驚いている様子で、ダンデさんのことを戸惑った風に見上げている。
 難なく掴まれた手を、彼の手の中に自然と収められる。私とは色の違う、大きくて熱いちょっと汗ばんだ手に。

「こっちだぞ。でも君に任せた方が早いかな」
「……」

 にっかり。歯を見せて楽しそうに笑っている。さっきから一体何のこと。そう問い質したいのに、酔っ払いの言葉だと一蹴してしまいたいのに、私の目は馬鹿なことに今しがた何の躊躇いもなく繋がれた二人の手に夢中だった。
 あんなに、何度も我に返って踏み止まっていたくせに。
 ダンデさんが歩き出したことで必然的に私も歩き出さねばならなくなった。とことこと、足元をイーブイがついてくる。
 だがしかし、私を引く人は酔っ払いで、そうでなくともガラル一番の迷子男だ。このまま道を任せていればどんな大惨事を引き起こすかわかったものではない。

「どこに、行くんですか」
「ん?俺の家だが」
「なんで?」
「今日はもう遅いから、俺の家で酒でも飲もう。アリシアがいつ来てもいいよう、君が好きなチェリーワインも置いてある」
「意味がわからない」

 軽口の叩き合いが成立しているようで、どうにもそうではない気がした。据わりの悪い感覚が先程からずっと体にまとわりついている。それなのに、ダンデさんは酒のせいだろうがそれはもう周囲に音符でも飛び交いそうな程にご機嫌な様子で。
 ダンデさんの家など言われずとも知るわけがないのでほとんど諦めの境地で手を引かれるまま歩き続けると、突然足元のイーブイが「ブイ!」と大きく鳴いた。それに気付いたダンデさんが「ん?」と小首を傾げながらイーブイへ目をやる。
 何やらてちてちと歩き出したイーブイは、今しがた私達が曲がろうとした道とは反対の道のど真ん中で止まり、振り返ると再び鳴いた。

「……あ!そうだ、そっちだ。危ない」

 全くもって危機感のない声音でダンデさんが平然とそうのたまう。
 さすがだぜイーブイ、とダンデさんがにこにこしながら褒めてやるとイーブイは得意そうに鼻を鳴らして、また私の足元へ寄る。酔っているとはいえよりによって自宅までの道のりも間違えるだろうかと、とんだ迷子癖だなとか、正常だったなら呆れてしまう場面なのかもしれないが、嫌な汗がいつからか止まらない私にはそれすら難しいことだった。
 何かを警告するように心臓のポンプがばくばくと喧しく、更にはずきずきと痛んでいささか呼吸も荒い。

 イーブイ、なんで。


  ◇◇


 連れてこられたダンデさんの家は一等地だとすぐわかった。高層のそれの陽当たりがいい所を陣取っているようで、高給取りの実態をいかんなく見せつけられる。
 だけど、体の大きいポケモンの為だろう縦も横も大きくある中身は、なんだか寂しい風情だった。必要最低限の物しかないような室内は、生活感に乏しい。物でごたつく私の家とはえらい違いだった。
 だけど、物は少ないけれど、ダンデさんの匂いがする。お日様のような、石鹸のような、うまく例えられないがダンデさんだけの匂い。
 ブツッと、どこからか鈍い音がした。小さく頭を振る。多分、私にしかわからない現象。

 入室後一直線に向かったソファに座らされ、床を踏んでいる感覚が薄い足先がじっとしていられずにすりすりとそこを擦ってしまう。細かに揺れる膝の上のイーブイの表情は嬉しいのか何なのかよくわからない。あんまりうまく、情報を目から頭に送って処理することが出来ない。
 本当に、連れてこられてしまった。

「……んぅ」
「ダンデさん、寝るならベッドの上でどうぞ」
「動きたくない」
「私は、貴方の抱き枕じゃない。あと息が臭いです」
「酷いな」

 何故かダンデさんは私を後ろから抱えて首元に顎を乗せて意識をすぐにでも失くしかけていた。拘束されているため言葉で抵抗すると、私への抗議のためか体を挟む膝がぐっと締めてくる。そして、首元で吐かれる息が酒臭くてたまらない。そのせいでムードも何もあったものではなかった。
 まぁ、今ここにこうしてやって来る前からも、そういう意味のドキドキはないのだが。
 重い溜息が知れず零れた。結局酒を振る舞ってもらうどころか意識も覚束ない男にどうしてときめけるというのか。

「……幸せだ」

 そして、これだ。

「……何がですか」
「君が、こうして、俺の腕の中にいる」
「……」
「いつもこうしたかった……人の目なんか気にしないで、いつも……いつも?ああ、そうだな。嫌だ、キバナは」
「まともに話せないなら本当に寝てください」
「温かいなアリシアは。幸せだ」

 先程から何度もループする会話に天を仰いだ。ダンデさんだって温かいどころか熱いし抱き締められて身動きとれないし息は酒臭いし、そろそろいい加減にしてほしい。
 それに、そろそろ握り込んだままの私の両手を解放してほしい。

「……ダンデさん、リザードンは?」
「リザードンなら腰のホルダーだ」
「イーブイ」

 視線だけで訴えると、これまで大人しく私とダンデさんを見ていたイーブイがちょっとだけ躊躇ったが、あまりにも私の悲惨な顔に心が揺れたのか、目で訴えた通りダンデさんの腰元に顔を突っ込んだ。くんくん匂いを嗅いで、一つのボールのボタンを押す。
 眩い光が放たれ、そこからダンデさんと数多の激戦を勝ち抜いてきたパートナーたるリザードンが姿を現す。すぐさまがっつりと目が合ったリザードンは、目を瞬かせてぱちくりし、軽く鳴いた直後に私の背後にいる主人に気付いたのか、ばぎゃ?と目を丸くした。

「初めましてリザードン。さっそくで悪いんだけど貴方のご主人様をベッドに運んであげて」
「……?ばぎゅあ!」

 私とダンデさんを見比べて数回首を左右に傾げながらハテナマークを浮かべていたが、何故か嬉しそうな顔をした後に頼もしく鳴いてくれて、これでやっと自由の身になれると思いきや、次いでリザードンのとった行動に目を丸くしたのは今度は私だった。

「な、何故」

 私の手を引いてここまで歩いてきたダンデさんのように鼻歌でも歌いそうな機嫌のよいリザードン、ダンデさんだけでなく私ごと抱えたではないか。さすがリザードン、大人二人抱き上げるなんて朝飯前なのか。だなどと予想外の事態に一瞬だけ思考が彼方へと逃避した。
 多分、ダンデさんの手が私の両手を捕えていたからこその判断だとは思うのだが、どうして手を放すため手伝うという判断はしてくれなかったの……。
 私の思いなど知ってか知らずか、当たり前ながら勝手知ったる家の中をリザードンは迷いなく進み、寝室へと足を踏み入れた。そのまま優しく、二人をベッドの上に下ろしてくれる。

「ばぎゃ」

 満足そうに目を閉じてにっこりと笑い、リザードンはボールの中へ自ら戻っていった。なんの配慮?

「ぶいっ」

 リザードンと共に寝室に入って来たイーブイも満面の笑みで一つ鳴いた後、私の頭の横で丸くなる。思い切り寝る態勢に入っていた。

「……」

 目の前には微睡むダンデさん。半分は既に夢の中だろう。
 後ろには安らかな呼吸のイーブイ。
 前後を塞がれてしまったぞどうしたものか……、と未だに握られたままの手を引いてなんとか抜け出せないか画策しようとするも、鋭く察知したのかダンデさんが閉じてから数秒は経つ瞼をおもむろに開けた。開けはしたが、とても重たそうでほとんど半目。そのまま眠りたいという欲求と戦っている。

「いやだ、放したくない」
「放してほしいです」
「一緒に寝よう」
「いや無理ですって」
「あ、チェリーワイン……」
「気にするとこそれ?」

 ダンデさんの瞼は今にもくっつきそうで、くっついたなと思えば勢いよく開けたりと、必死に睡魔に抗っているのがとてもよくわかる。だけどアルコールも回っているのだ。彼がどれ程お酒に耐性があるのか、あるいはどれだけの量を私と会うまでに摂取したのかはわからないが、抵抗虚しくそれはもうぱったりと今にも意識を失いそうで。

「……ごめん、今日も待たせて」
「別に待ってなかったですよ」
「いつも、待たせてばかりで……遠くにも行けないし、我慢ばかり、させる」

 ――ああ。
 今にも見えなくなりそうな睫毛の影がかかる金色の瞳が映す光景を、見誤っていなければぼんやりと想像できた。輪郭もはっきりとしない像だけれど、ダンデさんにはくっきりと見えている景色。しかし私の中には存在しないので、妄想の域はまだ出ない。

「ポケモンは何より大事だ。バトルは死ぬまでやりたい。でももっと君といたい、もっと君と話したい……君が好きな物を食べさせてやりたい、本の感想も知りたい……たくさん、君とやりたいこと」
「……」
「たくさん、あった」

 きゅっと、大柄な体格に似つかわしくない弱々しい力で手が握り直される。成人男性には失礼だろうが赤ん坊が母親の指を探し当てて握るような。だけど今にも寝落ちしそうな状態なのだから、それ以上の力は入らない。
 金色の瞳は間近にあるのに、その眼差しが着地する場所はひどく遠いように感じる。幾度となく目の当たりにしてきた、美術館の奥の、こっそりと照らされる絵画を思い描く。

「……ダンデさん」
「ん?」
「私の事、好きですか」

 口を衝いて出たのはきっと今朝までなら突拍子もないと鼻で笑っただろう言葉で、だけど取り消そうとは思わなかった。なんで今そんなことを、と自分を叱咤する気持ちはあれど、ごめんなさい冗談です忘れて私もすぐ忘れるからって言わないのだから、きっと、そういうことなのだろう。
 ダンデさんは一度きょとんとした顔をしたが、ゆっくり、顔を弛緩させとろけさせていく。眉間に皺一筋も作らない穏やかそうに下げた眉と、慈愛そのものを体現するかのような優しく細めた瞳。そこから私へ向けているぬるく柔らかい眼差し。

 自惚れでもなく、あらゆる愛しさを、凝縮したような。

「好きだ」

 砂糖を振りかけてくる人とはまた違う、春の木漏れ日のように暖かく穏やかな声色の返答に喉が詰まった。言葉を使えなくなった私の手を閉じ込めていた片手がそこからそっと外れ、不意に後頭部に回る。きっと無意識だろうけれど、ちょうど、まだ消えない線路が走っている上に。
 そこに当てた掌が、くっと彼へとほんの少し引き寄せた。
 彼もまた、こちらへ顔で近寄ってくる。

 瞼を律儀に閉じたダンデさんの唇が重ねられても、触れるだけの唇が離れて鼻先が触れ合いそうなくらいの至近距離で眦を下げて微笑まれても、そのまま糸が切れたように枕の上でとうとう眠ってしまっても、少しの間身動ぎ一つできずにいた。ただただ、唇にくっついてすぐに消えた柔らかい感触の余韻だけが、残っていた。
 ロマンチストだと馬鹿にされるかもしれないけれど、語られなかった多くの言葉が、あの唇には乗っていたような気がする。

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