夏の煙

かつて流行りの曲だった、昔の曲を聴いていた。あの頃、僕は十八歳で、その他多くの若者と同じように、いつでもどこか傷ついて、世の中の全てを恐れていた。

僕には、京口という友人がいた。天然パーマで、黒縁の眼鏡をした丸顔の出っ歯で、よく笑うやつだった。少し意地が悪く、繊細で優しくて、飄々としていて、一見すると矛盾しているそのどれもが、絶妙に調和して京口の一つの人格を作り上げていた。誰よりもおしゃべりで、その面倒くさい性格にも関わらず、誰からも好かれた。そして、必ず誰かに嫌われていた。京口のように我の強い男にとって、それはもう避けては通れないことなのだろう。僕はそんな京口のことが大好きで、そして時々、憎くてたまらなかった。



「俺、彼女できたわ」

夏の暑い日、下校途中に、バス停のそばの待合室に寄り掛かって、マイルドセブンの煙を吐き出しながら京口は言った。僕は、京口の存外に色素の薄い瞳を見ていた。その日はやけに、目の下のほくろが気になった。

「他校のコ?」
「シュンコーのワケないやろ」

僕たちの通う『シュンコー』は男子校だった。
京口のその言葉が、男が彼女になるわけがないという意味なのか、俺が男と付き合うわけがないという意味なのかは分からなかった。そのどちらもなのかもしれない。それは別にどうでもよかった。

「ハチコーのコや。幼馴染でな、近くに住んどんねん」
「へえ、ハチコーって頭ええやん。どういうコなん?」
「普通のコ」

普通のコ、というのが、どんなのかはよく分からなかった。僕は頭の中で、街を歩く女子高生を想像した。それから、ルーズソックスを想像し、スカートから覗く白い太ももを想像し、投げ出された京口の眼鏡を想像した。女という生き物と京口が重なるさまは、なんとなく恐ろしかった。

「もうエッチしたん?」
「それがな、今日、する予定やねん」

京口は、ニヤつきながらポケットから財布を取り出した。財布の中には、コンドームが入っていた。
胸が縮こまるような心地がした。その気持ちは、性への興味と、それから、裏腹な性嫌悪だったように思う。京口の眼鏡の奥の茶色い瞳は飄々としていた。僕は、その黒いほくろに、女の赤い舌が這うさまを思った。股間だけが、別の生き物のようにざわつくのを感じた。

「予定って何?エッチしようって言うたん?」
「アホやなお前、そんなガキの遊びみたいな誘い方せえへんわ」

京口はやけにニヤつきながら言った。

「俺の家さ、今日、誰もおらんねん」
「へえ」
「ほんで、夜から彼女が泊まりに来んのよ」

そこから導き出される結論は、僕も京口と同じだった。だが、京口の彼女も全く同じことを考えているかは分からない。当時の僕にとって、女とは、男とは全く別の生き物だった。何を考えているかなど知らないし、考えたこともない。
京口は彼女と意思を疎通し合えるのだろうか。肌と肌を重ね合わせれば通じ合えるのだろうか。
それすらも、その頃の僕には理解できないことだった。

そうこうしているうちにバスは来た。京口は靴でタバコの火を消し、吸殻をその辺りに捨てた。倫理観も道徳心も、時代によって移ろいゆく、不安定なものなのだ。

「どんなんやったか聞かせてや」

別れ際に、僕は気持ちと裏腹の言葉を言った。その頃は、性欲に対してなるべく下品になるのがカッコいいと思っていた。他のやつらがみんなそうしていたから、僕も一緒になって、セックスの話で盛り上がった。
京口は、僕とは裏腹に自分に素直に生きていたように思う。それでも周りに順応していた。そんな男だから、僕は尚更京口が憎かった。

「教えられる範囲でな」

京口は笑いながらポケットから定期券を出し、バスに乗った。後ろ姿のまま手を振る京口の背中が、いつもよりも広く見えた。
バスが通り過ぎると、僕の髪を撫ぜるように透明で蒸し暑い夏の風が吹いた。胸に閉じ込めた魔物が、膝を抱えて背中を丸めているような心地だった。
京口が僕に、彼女との性行為をどのように話したか、僕は忘れてしまった。もしかしたら、教えてくれなかったのかもしれない。とにかく、記憶にはない。ただ、京口があの日、バス停でタバコを吸いながら教えてくれた事実だけが、僕の頭の中で、まるで鍋の焦げ跡みたいにこびりついて離れなかった。



京口は、その幼馴染の彼女と長らく交際を続けた。そしてある時、彼女を僕に紹介した。『一真は一番の親友やから、紹介しておきたくて』と、そう、彼女の前で京口は言った。僕はその言葉が嬉しくて、それなのになぜか歯痒くて、もどかしくて、泣きたくなった。
彼女は本当に普通のコだった。茶髪でスカートが短くて、美人ではなく、どこか垢抜けなかった。僕にも良くしてくれたが、僕は彼女とは馴染めなかった。京口はそのことに気付いていなかったと思う。三人で会うとき、京口はたいてい僕と彼女の間に入って、おどけながら喋り、僕らを笑わせた。その時間はとても楽しかったと記憶している。
でも、僕がいなくなったとき、京口と彼女は裸になり、僕といるときにはしないことをするのだと思うと、胸がざわついて、憂鬱になった。
別に僕は、京口の彼女に性的な興味があったわけではなかった。ましてや、京口とセックスがしたいわけでもなかった。ただ、性欲と愛情が融合した感情で行われる、セックスという儀式が、それを行う京口が、憎くて、恐ろしくて、たまらなかった。



僕と京口が最後に会ったのは、卒業式の日だった。
その日京口は、学生服の全ての釦が外れた姿で僕の前に現れた。きっと、皆んながふざけて京口の釦を奪い取ったのだろうと思った。男子校の卒業式に女子が来るわけがない。
モテる男はすごいな、と僕はおどけて言った。すると京口は僕に、手の中に納めていたひとつの釦を手渡した。

「モテる男の貴重な第二釦やで。これだけは、一真にやろう思って、取っといたんや」

京口は笑いながら言った。白い大きな前歯が、光に反射してキラキラと輝いていた。

「彼女にやらんでええんか」

僕の声は震えていた。それは感動や悲しみ、そして喜びのような、美しい感情ではなかった。

「これはシュンコーの思い出やから、一真に持ってて欲しい」
「……そうか」

京口の顔は依然として笑っていたが、その声は真剣だった。冗談を言える雰囲気ではなかった。僕はその釦を、卒業証書が入った筒の中に仕舞った。

「俺が結婚したら」

京口は再び口を開いた。

「結婚式のスピーチは、一真に任せるわ」

その言葉を聞いた途端、僕は、どうしようもなく切なくて、胸が張り裂けそうな心地になった。無邪気で純粋な京口を、心の底から憎んだ。そして、それと同じくらい、愛していた。京口の言葉は、愛の言葉の言い換えに他ならなかった。そしてその『愛』とは、京口と彼女の育んでいたものとは、全く別の形をしていた。それが僕には嬉しかった。

「またな、一真。東京行っても頑張りや」
「うん。……おおきに」

京口は地元で就職することになっていたが、僕は、東京へ進学が決まっていた。
僕と京口は、柄にもなく握手をし、そして別れた。

東京行きの列車に乗りながら僕は、ウォークマンで当時流行っていたあの曲を聴き、京口のことを考えていた。またな、という言葉が、頭の中をぐるぐると回っていた。



僕と京口は、連絡を交換し合うことはなかった。僕は東京の大学で一人の女の子と仲良くなり、いつしか交際を始めた。そして、その子で童貞を捨てた。彼女は大人しい子だった。
ある時、彼女は、僕の昔の話を聞きたがった。それで僕は、なんとなく京口の話をした。
京口といたときの楽しかったこと、嬉しかったこと、それから、時々、憂鬱だったこと。
それを聞いた彼女は、微笑みながらこう言った。

「かずくんは、京口くんに、恋愛感情があったのかもしれないね」

それを聞いて、僕は戸惑った。そんなことは、考えたこともなかった。

「僕は異性愛者だし、男とセックスしたいなんて思ったことはないよ」
「でも、思春期の頃って、同性愛的な感情が湧くことがあるって聞いたことがあるよ。あたしも部活の女の先輩が好きで、話すたびにドキドキしてた」

彼女の言っていることに、嘘はないと思う。彼女は正直な人間だったし、それに、異性愛者であっても思春期に同性愛的な感情を抱くことがあるというのは、聞いたことがあった。

ただ、僕はあの時感じた喜びを、感傷を、憂鬱を、「恋愛感情」という言葉で完結させてしまうことに、どうしようもない切なさを覚えた。

僕は京口とセックスしたいわけではなかった。彼女に嫉妬したわけでもなかった。ただ、京口に言いようのない憎しみを抱いていて、それと同じくらい、愛していただけだったのだ。



考え事をしているうちに、曲はB面に変わっていた。俺はB面のほうが好きやな、と呟いた、京口の白い歯を思い出した。

僕は放り出したままにしていた、結婚式の招待状を見た。京口の名前と、京口の幼馴染だった、あの女の子の名前が書いてあった。京口らしくない堅苦しい言葉で、ちゃんとスピーチの依頼もあった。
憎しみも憂鬱も、今の僕には一切なかった。とにかく嬉しくて、晴れやかな気持ちだった。僕はあの時の、卒業証書を入れた筒を引っ張り出してきた。軽く振ってみると、カラカラと音が立った。

若気の至りだと片付けることはしたくなかった。ましてや、恋愛感情とか、友情とか、そういった簡潔な言葉でまとめたくもなかった。あの頃僕が京口に抱いていた、もう忘れてしまったあの感情のことを、僕は大切にしたかった。その感傷は恐らく、卒業証書の筒の中で、未だにカラカラと音を立てているのだ。




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