もう、何日目だろうか。 室長の気力も体力も、とうに限界を超えている。 ゆっくりとドアのノブを捻って開けた扉の中から聞こえるのは、小さな、規則正しい呼吸。 少しの金属音も立てないように。最後まで手を離さずに閉めた扉の前で、ボクは壁の時計に一目。そのまま黙って立っていた。 ついに、と言うかとうとう、と言うか。ボクは室長に宣戦布告した。『食べません』と。 「ほら、もう夕飯の時間だよ?」 「室長が食べるなら、ボクの分と一緒に買って来ますよ」 「ココは遠慮してないで休めって言ってんの」 「室長が休憩を取る時に休みます」 「えーっと」 「それまでは作業を続けます」 「お腹減らないの?」 「減ってますよ。昼も食べてませんから」 「何で?!」 「室長は食べましたか?」 「ワタシに遠慮しなくても」 「遠慮してません。遠慮せず作業を続けてました」 「・・・・・・」 「・・・・・・」 「・・・分かった!分かったよ!!」 休憩!と言った室長は、立ち上がって打ち合わせ用のテーブルまで進んだ。全く頑固だな、今度からガンココって呼ぼう。・・・変な事を言われつつも、漸く自席から離れた室長にボクはホッとした。 「何か買って来ます。リクエストはありますか?」 「流し込めるもの」 「・・・」 「怖いよココ」 「・・・」 「胃がもつか分からないんだって」 携帯フードとか刺激系のタブレットとか、そんなケースばかりが捨てられているゴミ箱にボクは思わず眉をひそめた。 「・・・向かいにスープ専門店がありましたよね?」 「うん」 「それなら食べられませんか?」 「食べられるかも」 「買って来ます」 「すまんね」 「20分くらいかかると思います。それまで、」 「ん?」 「仕事じゃなくて仮眠を取っていて下さい」 「えっ」 「それともそこに縛った方が良いですか?」 「ちょ、ココ?」 「あぁ、ボディーブローって手もありましたね」 「・・・」 「・・・」 「・・・ココってたまに怖いよな」 ぶつぶつ言いつつも、室長はテーブルに頬杖を着いた。 ボクはその姿を目に留めてから、部屋を後にした。 なかなか変わらない信号に苛立ちつつ、駆け足で我先にと横断した3車線道路の先に、カフェと隣り合ってスープの専門店が在った。 夕刻と言うこともあって、店内は賑わっている。社内で見かける顔もちらほらと目に入る。その喧騒に紛れて、ボクはテイクアウトの列に並んだ。 ボクの顔ばかり見て手元がおろそかになった店員に向けた『急いでいるんだけど』が、思った以上にきつい口調で飛び出して。涙目で渡された紙バッグに罪悪感がほんの少し沸いた。受け取る『ありがとう』に無理に笑顔を乗せて、店員の安堵もそこそこにボクは店を後にした。 渡れると思っていた横断歩道は赤に切り替わっていた。あぁ、運が悪い。ここの信号は長いんだ。 ただ黙って立っているのも馬鹿馬鹿しいから、そのままカフェに入って二人分のカフェモカを買う。黄色に変わりそうな信号と手提げ袋を気にしつつ、ギリギリ渡り終えたボクは、人の少なくなった本社ビルの前で溜め息をついた。 この時間は、上階に上がるより降りてくる方が多い。上階へのエレベーターに乗り込んだのはボクだけだった。 扉が閉まってからふと、人の気配を感じた。驚いて顔を上げたら、エレベータ内の鏡にボクが映っていただけだった。その自分の顔に酷い自己嫌悪に陥った。なんて顔だ。内側からジリジリと、負の感情が滲み出ている。 ボクは鏡に手を当てて、これでもかと大きく深呼吸した。 ボクはもう一度時計を見た。ボクが買い出しに出かけてから、漸く20分が過ぎようとしていた。その時間を確認してから、ボクは室内に歩を進めた。 テーブルに突っ伏した状態で眠っている室長を横目に、買って来た物をテーブルの上に並べる。ガサリ。紙とビニール袋の擦れる音に、ぴくり、と室長の肩が動いた。 「あー・・・おかえりココ」 「すみません。遅くなりました」 「混んでた?」 「ちょっと」 「良い匂いがする」 「一番人気だそうですよ」 『季節の野菜スープ』と名付けられたそれに、ボクはスプーンを添えた。 「冷めないうちにどうぞ」 「さんきゅ」 美味しそうだ、と一口含んで、美味しいと言ってもう一匙口に運んだ室長に、ボクも合わせて食べ始めた。 「あー・・・生きてる感じがする」 「大袈裟に聞こえないのが怖いですよ」 「ココの言うとおりだよ」 「え?」 「食べないともたないって言ってたじゃん」 以前室長に不満を吐き出した時の言葉だった。今のやり方では体がもちません。くたくたじゃないですか、と。 でもその時のボクの言葉は、室長には届かなかった。それ以前に、室長の正論に二の句がつげなかった。ギリ、と歯を軋ませて、作業に戻ったんだ。 「気付くの遅すぎですよ」 「適当につまんでたんだがな」 「ジャンクでなくて、ちゃんとした食事が必要です」 「食堂に行くくらいならシャワーに行きたいんだよな」 「それ間違ってますよ」 「間違ってない」 「登山なんかしたら、普通にニ・三日は入りませんから」 「ワタシはいつも朝晩入ってるって言ったじゃん」 「だからって」 「前は食べなくても平気だったんだけどな。年かなぁ」 「・・・・・・」 「今の否定するとこだぞ?」 スープの香りに混ざった、他愛も無い会話。ほんの少しの仮眠が大きな活力を与えたのか、頬の紅みが戻った気がする。 「さて。エネルギーもチャージできたし、」 食べ終えるや否や立ち上がろうとした室長に、ボクは慌てて待ったをかけた。 「ココはまだ食べてて良いよ」 「そうじゃなくて、もう少しゆっくりして下さい」 「何で?」 「コーヒーも買って来たんです」 ボクは手元の紙袋からカフェモカを出した。 「お?」 「カフェモカです。生クリームたっぷりの」 「珍しいな。どうしたの?」 「たまには甘い飲み物も良いかなって」 「これゲキ甘だぞ?」 「その分エネルギーになりますよね」 「まぁ確かに」 「それからこれは、」 ボクは三つ折りの紙を差し出した。 「スープ屋のメニューです」 「おお」 「今日はこの一番上のでした」 「うん」 「明日は、これにしませんか?」 「ん?」 「明後日はその隣、その次も順に・・・」 ボクはメニューを右から順に指さしていった。そして室長の顔を覗き込む。 「全品制覇のつもりで」 「・・・ごちそうしてほしいって事?」 「負担は交互で考えてます」 「そうか」 「今日と同様に、買い出しはボクで良いです。室長も同様で。」 「・・・仮眠ってか?」 「はい」 「えーっと」 「アイマスクいりますか?それとも細くて長い物ですか?」 「縛る気満々だよね?!」 「必要ならやります」 難しい顔を向けられたけど、気にせずカフェモカに口をつけた。甘い。これは完全に女性の飲み物だな、なんて思いつつももう一口音を立てて飲んだ。 ・・・口だけの、目先の心配なんか、室長には必要ない。されても迷惑なんだと分かったのは、あれから暫く経ってからだった。 今何をすべきか、今必要な物は何なのか。それはその場しのぎで考えては駄目だ。その『先』まで見据えて、『今』を弾き出す。室長が口にしなくとも察しなければ。室長が手にしている負担が大きくて、どうしても零れてしまう物を、ボクまで零しては意味が無いんだ。 だから今日。ボクは一つ、必要な物を弾き出した。そしてもう一つ、よりベストな状態で弾き出す。 「ちなみに今日は走って20分ギリギリでした」 「・・・ホント?」 「本当です」 20分経つのを待っていた事は一生の秘密だ。20分と約束したギリギリまで、室長に眠っていて欲しかった。 ・・・その間、寝息を聞いていた事も、一生涯胸にしまっておく。 「あんまり慌てると転ぶよ?」 「ボクもそう思いました。なので、」 「なので?」 「明日から30分かかると思って下さい」 「それはつまり」 「言い換えれば『ゆっくり休んでいて下さい』です」 「・・・」 「・・・」 「・・・ココって策略家だよね」 「褒められたと受け止めます」 「・・・」 「・・・」 「・・・カフェモカ美味しいよ」 呆れたような、何処か嬉しいような溜息を、ボクは無言で受け止めた。 ← → |