カフェモカを二人で・3








もう、何日目だろうか。

室長は確実に作業を進めている。・・・果てしなく遠い終着点に向かって。




「記録更新だ」

何の脈絡も無しに、室長が呟いた。

「何のですか?」
「シャワー浴びてない日数」
「・・・マジですか」
「マジですヨ」
「ちなみに何日・・・」
「一日半」
「いち・・・」
「・・・・・・何?」
「てっきり3日くらいかと」
「まさかココ・・・」
「昨晩自宅で済ませました」
「何かズルイな」
「ズルくないですよ」

室長が長い溜息をついた。そして、大きく天井を仰ぎ、両手でその眼を覆う。

「・・・駄目だ。」
「え」
「息が出来ない」
「えっ?!」
「倒れる」
「室長っ?!」
「毛穴が詰まって・・・倒れる」
「・・・・・・っ!!」

真面目に受け止めたボクは、その分脱力するのも早かった。勢いよく立ち上がった体を、そのまま椅子に投げ出した。ギシリ。椅子がボクの代わりに声を上げる。まるで今の言葉に抗議するかのように。

「・・・そんな気分にならない?」
「なりません」
「冷たいなココは」
「一年浴びなくても死にません」
「まさかココ・・・」
「理論上の話です」
「そうだよね」
「当然です」
「でもさ、ワタシはいつも朝晩浴びてんだよ」
「・・・・・・」

室長に合わせて、ボクもため息をついた。
そのまま沈黙が訪れる。
ボクは書類を一枚めくった。ぱらり。もう一枚、ぱらり。室長の両手は、まだ顔を覆っている。

・・・シャワーより先に、すべき事があるんじゃないですか。

言いたい気持ちをぐっと押さえた。ボクが必要と思っている物と、室長が今望んでいる答えは違っているんだ。

「・・・仮眠室のシャワー借りたらどうですか」

確認した書類を揃えながら、ボクは独り言のように口を開いた。

「ココぉ・・・」
「はい」
「大好きだよ」
「・・・はいっ?!」
「ワタシとした事が、その存在を忘れてた!」
「ちょっ・・・室長?」
「ちょっと借りてくる!」
「待って下さい!!」

ボクの声は、狭い部屋に似つかわしくないほど大きくて。
部屋を出ようとしていた室長は、咎められた子供のような瞳をボクに向けた。

「・・・ダメとか言う?」
「言いません。言いませんけど、」

ボクは書類を持ち上げた。それぞれの手に。

「こっちはチェックしました」
「そ、そうか。お疲れ様」
「こっちも後30分で仕上げます」
「なんて頼もしい・・・な?」
「それまでに戻って来て頂けますか?」
「・・・」
「次の仕事の指示が欲しいです」
「・・・」
「・・・」
「・・・善処する」

室長が時計を確認しながら答える。珍しく断言しない言い回しに、ボクは小さく息を吸った。

「時間が過ぎたら迎えに行きますからそのつもりで」
「・・・今何て?」
「迎えに、行きますから、その、つもりで。」
「えーっと・・・」
「シャワー中でもです」
「それは・・・」
「開けます、と言ってます」
「マジでか」
「マジです」

ココってたまに意地悪だよな、とブツブツ言いつつも、室長は部屋を後にした。

軽快に閉まった扉とは逆に、ボクは重い足取りで室長のデスクまで進んで、右手に持っていた書類をキーボードの横に置いた。

・・・シャワーより先に、すべき事があるんじゃないですか。
例えば帰宅するとか、例えば眠るとか、例えば、・・・何か食べるとか。
言いたい気持ちをぐっと押さえた。ボクが必要と思っている物と、室長が今望んでいる答えは違っているんだ。
机の上のメモ帳にはただペンで書き殴った跡が有った。ひたすら上下に動かされて、真っ黒になった紙。煮詰まった思考回路がペンの先から飛び出していた。

室長の知識と対等に渡り合える存在があれば。室長にかかる負荷はもっと軽くなっているだろうに。
騒ぎの張本人は、自宅待機から自宅療養に切り替わったそうだ。今朝、常務から通達が有った。そうボクに報告した時の室長の顔は、ひどく穏やかだった。きっと室長はそれで良いと思っているんだろう。ボクにはさっぱり理解できなかった。
もう一人その知識を携えている人物が支社にいた。なのに、何故か室長はその人物に連絡しないままだった。何故かと一度訊いたが、明確な答えは返って来なかった。それも、ボクには理解できなかった。
どうして室長一人が背負わされなければならないのか。否、背負ったのか。療養中?よくものうのうと休んでいられると思った。ボディなんて生易しいものじゃなくて、いっそテンプルに喰らって死にでもしたら良かったんじゃないか。支店にいると言う人物だって、今回の騒動は伝え聞いている筈だ。今何が必要とされているのか、そんなものこちらから連絡しなくとも、誰かしら何らかのアクションを起こしても良いじゃないか。この期に及んで能力を出し惜しみしてるのか。それとも運だけで資格が取れて、実際は無能とか?

・・・ボクの中に、顔も知らない相手への苛立ちばかりが蓄積されていく。

ボクは左手の書類も置いた。さっき室長に伝えた内容は、半分は嘘だった。本当は両方ともチェックを済ませていた。済んでいたのにわざと正直に言わなかった。何かしら理由をつけて、室長に約束してもらいたかったから。戻って来る時間を。もし戻って来なかった時、すぐにでも飛び出せる理由が欲しかったから。だってその時室長は本当に、倒れているかもしれない。

手放した書類は、1枚ぐしゃりと折れてしまっていた。
室長の口が『倒れる』と動いた時。本当に倒れるのだと思った。考えるより先に体が動いていた。手元に書類が有る事など、即座に頭から消えた。
だから重要な書類に傷をつけた。でも、傷をつけると分かっていても、きっとボクの体は動いた。だって今の室長は、それくらい気力も体力も磨耗していて、それを支える存在も無い。睡眠も食事も二の次で何日経ったかくらい、同じ部署にいるボクは痛いくらい分かっている。
ボクは折ってしまった一枚に指を沿わせた。どんなに頑張っても、一度折れた跡は消えない。でもボクはその跡を消したかった。何度も、その筋が薄らぐように指でなぞった。
この一枚を印刷し直して貰うのに、何と断れば良いんだろう。たかが印刷。たかだか一枚だ。今この場でボクができれば、室長の頭も手も煩わせなくて済むのに。
でも、その書類は室長しか印刷できない。特定の者しか電子媒体での操作が禁じられている、重要文書。室長の部下であるのに他の3人は、目を通すことも許されていない。
ボクは、折れたページを破り取った。
簡単に紙屑になる一枚。そんな一枚を、たかが印刷すらできない今の自分。

・・・ボクの中に、苛立ちばかりが蓄積されていく。
そう。この、今のボク自身にボクが、一番苛立っている。












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