5


長い飛行機旅を終え、俺は雪里さんと共に新しい異国の地へと降り立った。


「美郷くんここだよ。ここが僕たちのオフィス兼家だよ」
「えっ!ここがですか!?」

日本ではあり得ないほど眩しくて、輝かしい海が見える景色の中に一つ大きな平家の建物がそこにあった。
全部が白壁で、沢山の草木や花が並び、大きな豪勢な門が待ち構えている。

悠々と歩く雪里さんについて行き、門をくぐって建物へと入ると、そこには大きな大きな窓とどこまで広がっているのかわからないほどの長く続いたリビングが広がっていた。長いリビングの途中にはウェルカムダイニングや家電量販店を超えるような大きさのテレビが壁に飾られていた。このリビングを超えて外へ行けばプールなどもあるのだろう。
俺は真っ先にこの部屋を称する大きな窓へ近づいた。
何十メートルの高さなのだろうか。窓は俺の背の何十倍にも高い天井と、リビングの横幅と同じ広さをしている。部屋の一面の壁が全て窓になったような感じだ。
窓からは太陽の陽で輝く海が庭先の奥から見えた。


大きな窓。
それはあのコーヒーショップ店を思い出す。

俺はあの場所で雪里さんと出会い、コーヒーショップよりも大きな大きな大きな窓越しから広大な海を今、雪里さんと眺めている。

雪里さんはそっと俺のそばに寄ると、いつもの落ち着く声で話しかけてくれる。

「どうかな?気に入ってくれた?」
「雪里さん…っ!あたりまえじゃないですか!!!」

様々な感動と感情の連鎖に思わず雪里さんに飛びついた。
雪里さんも俺を抱き留めては一緒に嬉しそうに笑った。

なんて素晴らしい世界なんだろう。全てが光に満ちている。
俺はスッと息を吸った。



−−−俺の生活はここから再スタートするのだ。

俺と雪里さんは反射したブルーの海面を飽きるまで窓から眺めていた。





○○○○○○○○

「ミサト。今日もアリガトウ」
「こちらこそありがとうございました」

デイロン先生は黒い体と編んだ髪をファサファサと揺らしては、ニコニコと手を振ると、大きな門を越えて帰って行った。


俺はデイロン先生の姿が見えなくなったことを確認し、急いでダイニングに戻る。

「今日もらったコーヒー豆は…」

デイロン先生が言っていた言葉を一生懸命思い出し、思い浮かんだ言葉を全てノートに書き留めて行く。デイロン先生とは英語で話すため、英語が出てきたり思考の過程で日本語になったりするが、構わない。忘れないように覚えていることを全て書き写した。

ノートを書き終えると、美郷はフゥ、とため息をついて身体を脱力させた。


俺は今、『理想的な暮らし』を行えている。
デイロン先生は有名なコーヒーのアンバサダー・アドバイザーで豆の種類から美味しいコーヒーの淹れ方、楽しみ方やどのように飲めばいいかなど熟知している。
デイロン先生はバリバリのアメリカ人だが、この離れた国でコーヒーショップをしながら穏やかに生活しているそうだ。
雪里さんがデイロン先生と繋がりがあって、雪里さんのコネで特別に俺はデイロン先生に講師をお願いしている。デイロン先生もこの広いキッチンと、雪里さんからもらった予算でいい豆を買えると大変喜んで、親身に俺へ教えてくれていた。

「デイロン先生と喋るおかげでかなり英語も聞き取れるようになってきたかも」


雪里さんには他にもフラワーコーディネーターの先生と最近おすすめされて始めた教養マナーの先生も雇ってもらっている。
マナー講座の先生は特に日本人ということで、日本語で教わっている。厳しいところもあるが、日本語や英語の感覚をどちらも交互に味わえるため、大変メリハリがついてよかった。

 

俺はゆっくり背伸びをすると、コーヒー豆を手に取る。

(雪里さん、そろそろ仕事終わる頃だろう。ちょうどコーヒーブレイクの時間だ)

俺はデイロン先生に習ったばかりの淹れ方でコーヒーを作ってみる。


この生活はとても充実していた。
暖かい気候と豊かな自然環境に恵まれ、広い部屋は一日中散歩しても飽きない。
庭は綺麗に整えられていて、寝転がっても肌触りはチクチクしないだろう。
食べ物は専用のデリバリーバイヤーがいて、欲しい内容を伝えると、数日以内に運んできてくれる。
この前は日本産のみかんが食べたいと言って取り寄せてもらった。

家の中では全てが事足りた。自然に触れたければ庭に出てしまえばいいし、観葉植物を育てられる温室の小部屋もある。お風呂も広くて毎日温泉気分だ。
学びたいことが有れば、雪里さんが探して家へ家庭教師に来てくれる。こんなに素晴らしい生活はあっただろうか。

コーヒーが出来上がり、雪里さんの仕事部屋へ向かう。
透明のガラスで仕切られた仕事部屋に雪里さんはノートパソコンを眺めていた。

「雪里さん。休憩の時間です」
「美郷くん。そうか、もうそんな時間か。時間はあっという間だね」

そう笑う雪里さんの隣に俺も座る。
開いていた画面や業務内容を雪里さんは閉じて行く。

「また会議やってたんですか?」
「ああ、つい15分前までね。リモートだからその分きちんと打ち合わせしておかないとね…。そういえば、社員もこっちに来て早く働きたいと言っていたよ。彼らは半分バカンスをするつもりだろうが」

雪里さんはそう冗談めいて、ふふ、と穏やかに笑う。
俺もそれにつられて笑った。

「ふふふ。そりゃあ、こんな素敵な場所職場になったら行きたいですよ!あ、雪里さん。コーヒー淹れてきたんです。よかったら飲みますか…?」
「おお、ありがとう。美郷くんの作ってくれたコーヒーならそれは飲まないと!それじゃあ、ありがたく貰おうかな」

俺は雪里さんの前にそっとコーヒーを差し出した。
雪里さんはそのコーヒーの香りを楽しみながら、カップを手に取った。


「ん、美味しいね。美郷くんの腕前は確実に上がってるよ」
「いや、そんな光栄です。デイロン先生のおかげですね。今日も貴重な豆、もらってきたらしいですよ」
「へえ。デイロンさんもまた楽しんでるみたいだね。もちろん美郷くんの評判も良いって聞いてるよ。真面目で謙虚で頑張り屋だって先生たちみんな褒めてたよ」
「ほ、本当ですか。あ、ありがたいです…」

俺は照れて頬が赤くなった。
褒めてもらえるのは何より嬉しい。もっと期待に応えたいと思うし、さらに自分の高みへいきたいと頑張れる。

雪里さんは俺のその様子に口角のみを更にあげた。



「そういえば、美郷くん。実は君に大事なお話があったんだ。夜だと緊張してしまいそうだから、今ここで伝えるね」
「あ、はい。大丈夫ですよ」

緊張するってなんだろうか?雪里さんが珍しい。
雪里さんはこっちにきて、弱音、というか本音をよく話してくれるようになった。
何もかも優雅なのかと思っていたが、たまにこうやって緊張していたり、自信なさそうに笑っていることがあることがわかった。
ここの生活に慣れてきて、随分と俺にも打ち解けてくれたんだろう。それは、俺は喜ばしいことだと思っている。

雪里さんは立ち上がり、棚の方へ行くと、何かの書類をペラペラとめくりだした。
大きなバインダーを開いて何かをみている。そして、めくっていた手が途中で止まった。

そのまま、雪里さんはこちらへ歩み寄ってくる。

「実はこの封筒の中身のことなんだけどね」

雪里さんは厳重そうな封筒を俺の前に差し出してきた。
俺はただ無言で雪里さんを見上げる。
俺は雪里さんの話を最後まできくことにした。



「美郷くん。君はとても真面目で繊細で気遣いが細かい。そこが君の長所だと思っている。初めてコーヒーショップで見かけた時もどこか和らぐような雰囲気を持っていて、俺はどこか君の『優しさ』や『丁寧さ』に惹かれたのかもしれない。君と知り合っていけばいくほど、君はとても純粋で真っ直ぐな子だった。僕は君と生活していくうちに人間として様々なことに惹かれ学ばされ、大きな気持ちを抱いていった」

雪里さんは思い馳せるように、ゆっくり、まぶたの奥の澄んだ瞳をきらり、きらりと揺らめかせた。

「君のその美しい精神はどこに役に立てるのだろうか。僕はずっと考えていた。細かく、適切に、柔らかさを持った、君の優しさを。僕はもうこの時点で気づいていたんだ」

雪里さんはそっと封筒の中身を開けた。
するりするりと出てくるフォルダと、前に出された一枚の書類に目が行く。





「僕は君を妻にしようと思っている」









………………突然目の前が歪んだ。

白の背景に赤の線のコントラストが目をチカチカとさせる。


雪里さんの顔を恐る恐る見上げれば、あの美しいと、素敵だと、あんな風になりたいと、思ったあの顔が、酷く蕩けて欲情からこちらを渇望したおぞましい男の顔に見えた。



「君は僕の妻になるのに大変相応しい。僕はこの一年ずっと君を見極めてきたが、君は全ての条件・テストをクリアした。一番の悩みどころであった点も君を知れば知るほど解決して行った。『君を性的な対象として抱くことができる』、その条件を唯一美郷くん、きみだけがクリアできたんだ」


雪里の手がするりと顎に触れた。

いや、と拒絶する間もなく唇が触れ合った。雪里はそのまま興奮したように唇の合間へ舌を入れ込み、ベロリベロリと唇の内側や歯筋を舐め上げる。

手が酷く痙攣した。
なに、何が起きている。俺は憧れのこの人に何をされているんだ。

カチカチと歯が震えて、理解ができない。
雪里はそのまま有無を言わさず舌を捻り込んできた。
…気づけば、雪里の唾液を舌にいっぱい絡めさせられていた。


(ちがう、こんなの違う。俺が求めていたことは、『丁寧な暮らし』は、これとは、明らかに、違う…!)

たっぷりと絡めた唾液は一緒に雪里の口の中へ啜られる。舌ごと啜られて全部吐き出させられたかとおもえば、よりたっぷり雪里の味がした唾液を口の中に戻された。


「み、さと、くん、みさとく、ん…」
「雪里さ、や、ゃ、やめ…てよ、雪里さん……っ」


雪里さんはもう片方の手で、首筋を撫で上げた。そのまま、鎖骨を撫で上げ、口内の舌は奥へ奥へからめてくる。
性的な意味を持つ手つきに、胸元がバクバクと心臓が跳ね上がり、強い痛みに襲われた。

雪里は、そっとキスをしていた唇を離した。


「雪里さ、っ…」
「美郷くん、君は綺麗だ。僕によって更に飾られていく君を見るのはとても美しかった。ここで閉じ込めておきたいくらいに君は美しいんだ」

雪里さんはただそう嬉しそうに笑って、俺の髪や頬をいつものような優しい手つきで触った。

大好きだったその触れ合いは今では性的なものを孕んだ気色の悪い感覚でしかない。


「っく、俺は、男です…妻などそんなもの、なれませんっ」
「美郷くん。別に僕は性転換をしてほしいなんて思ってないよ。それに最近は同性愛を認めている国も増えているんだ。この国も、そうさ。国籍を変えてしまえば結婚だって可能だ。お父様お母様にももう話は済ませてあるよ」

美郷は腹の中身が吐き出しそうだった。嗚咽と共に湧き上がってくるのはデイロン先生と作ったコーヒーの苦味だけだ。


俺はこの現実的ではない状況をいまだに信じられなかった。
信じては終わる、とすらいまおもっている。

俺は憧れの雪里さんという有名社長と知り合いになり、様々な経験をさせてもらって、お金に困らないような充実した生活を送り、身辺の服や物も全て与えられ、自分のやりたかった留学や親に否定され続けてきた『美しい暮らし』の実現。
それだけを目指してここまできた。
雪里さんの目が次第に変わっていようとも、俺を絶対裏切ることはないという確証があったことも、全て、全て計画の上で『理想的で丁寧な暮らし』つまり俺の人生を送るための手段。そう、俺は今ただ手段を借りているだけなんだ。彼の事業も俺が手助けできるならもちろん手伝うつもりだった。より華やぐ上級社会民層との繋がりは丁寧な暮らしに欠かせない。素晴らしき芸術性に富んで映える『素敵な暮らし』。


それが、雪里の女となってずっとこの男の妻として働き続ける人生とは俺の求めていた暮らしではない。根本的に性愛は違うのだ。
俺はこの男を信頼していたとしても、身体を差し出して愛するということなどできない。彼の力になってあげたいと思っても、それは1人の人間であって、雪里の伴侶としてではない。





雪里は、静かに机の上に置いた婚姻届を俺の前に差し出した。

親は俺を見捨てたのか、それとも金蔓になるとでも思ったのか。
証人の欄に父親と母親の名前が書かれていた。

ああ、ここまで彼はやったのか。あんな親を説得できてしまったのか。



「美郷。僕と結婚してくれるかい?」

雪里は美しく、微笑んだ。



その反対に、俺の目は明らかに変わっていた。

この生活を手放せるまでに俺の身体は大きく進化し続けたのだ。後退などあり得ない。
あり得ないほど高額な金品を身にまとい、食事やこだわりを施してはていねいなくらしを続けてきた。
俺がこの男のもとを離れる意味は何一つないのだ。

掴まれた左手の薬指が酷く痛んだ。





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clap! bkm


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