小説 | ナノ

 時計は午後九時を回っていた。昼食を後で食べようと思っていたところでこの報告が入ったため、昼飯抜きでこの時間である。周囲の音が聞こえないくらいに集中していたのだが、流石に体調の変化に目が覚める。その瞬間、盛大な腹の音が響いた。
「花京院さん」
「うわっ!あ、主人さん……ご、ごめん」
「こちらこそすみません。驚かすつもりじゃなかったんです。あの、何か大きなお仕事を急に抱えてたみたいで。多分お食事もまだだと思うので、コンビニのもので申し訳ないんですが買ってきました」
 公子がコンビニの袋を机の上に置いた。サンドイッチやおにぎり、インスタントスープにお茶とお菓子まで用意されている。
「あ、ありがとう。今ちょうどお腹が鳴ったところで」
 しかし、それにしても量が多い。成人男性といえどこれを全部平らげるのはなかなかに難しいだろう。まあ、お菓子やインスタント系は保存が利くので置いていても問題はなさそうだが。
「ちょっと待っててね」
 花京院が財布を出そうとした腕を公子が静止させる。手と手が触れあい、花京院は動きだけでなく心臓までもが止まった気がした。
「あの、私にもお手伝いさせてください。今まで花京院さんに手伝っていただいた時間の一パーセントにもならないかもしれませんが、私、絶対にミスしないよう心がけますので、お手伝いさせてほしいんです!」
「あ……いや……その……」
「ここ、過去の資料も全部書き換えればいいんですよね。四ヶ月前からでいいんですか?」
「……主人さん。駄目だ、君は帰りなさい」
「どうして……」
 まただ。花京院の頭はその言葉を全く違う意味に変換して妄想の糧とする。帰りなさいと言う自分の言葉を拒否する。帰りたくない、と上目遣いに言っているように錯覚する。
「これは、僕がやる。駄目だ。君にはやらせることはできな……」
「お願いです!それとも、やっぱり私だと余計な仕事を増やしてしまうでしょうか……?」
 公子の表情は不安に満ちていた。それは花京院に拒否されることが怖いのではなく、自分が仕事が出来ないとはっきり言われるのが怖いのだ。人間誰しもそうであるが、会社にいる以上仕事が出来ないということに恐怖を覚える。
「……じゃあ、お願いするよ」
「はいっ!」
 パァッと明るくなる公子の表情に、花京院は改めて罪悪感を強く持った。この切羽詰った状況を自分は意図的に作り出し、押し付けていたという事実を再認識する。そして同時にこうも思った。
(僕のやってきたことは最低だ。だが、効果的だ)
 今、公子が意中の人ということを除いたとしても、公子が女神のように見える。こんな状況を何度も何度も何度も何度も作り出し、その度に許してきた。
(公子も僕のことを単なる上司以上に見えているはずだ。こんなに効果のあることだとは思ってなかったよ)

 本来の見立てでは午前三時前に終わる予定だったが、食事休憩を挟んでも十二時過ぎに全てが片付いた。
「本当にごめん!でも助かったよ。主人さん、明日仕事だっけ?」
「いえ、休みですので気になさらないでください」
「そっか。あっ、電車は……」
「走れば間に合います。じゃあ、お疲れ様です」
「待って」
「いえ、時間が……」
「終電、逃そうよ」
 その言葉の意味が、ハッキリ公子に伝わったのが分かる。その顔が困惑と照れを含んだ、女の表情をしている。
「これだけ疲れてる君に走って帰れなんて言えない。ねえ、今日は僕の家においで。近くなんだ」
「あの、えっと……」
 今すぐ走り出さねば最終電車は出発してしまう。駅前のオフィスビルといえど、ホームまでの距離はそれなりにある。
「来て」
 今度はカバンを持とうとする公子の手を花京院が止めた。
「まだ帰らないで」
「あっ……はい」

 公子と花京院が努める会社付近は、駅前の開発が近年ようやく着手され、大型タワーマンションの出現により高級住宅街としての顔も持つようになった。その中の一つが花京院の住居だ。もちろんこれほどの資産をこの若さで自分一人の力で築いたわけではなく、過保護な両親からの贈り物である。
 リビングに通されコーヒーを飲みながら二人は今日の仕事を労った。
「主人さん、本当に、ごめんなさい」
「やめてください。こんなの、私のほうこそ何度やらかしたことか……」
「……許 し て く れ る ?」
「許すも何も、私のほうこそご迷惑ばかりかけていて、許してほしいのはこちらの方なんです」
「君が許してほしいって言うのなら、そんなの許すに決まっているよ。だから僕のことも許してほしい」
「?」
 公子はその奇妙な文面に不思議そうな顔をしたが、すぐに話を合わせて笑顔を見せた。
「はい。お互いに許しあいましょう。ね?」
「ありがとう」

 君は許してくれた。僕のしてきたことを、許すと言った。僕のしてきたこと。それは、書類の改ざん、データの消去、報告書の偽装、現地データのウソの報告、そして……君を妄想の中でとはいえ、めちゃくちゃにしたこと。君が泣きながら謝る顔を想像して毎夜自身を慰めていたことを、君は許すと言ってくれた。
(じゃあ何度でも許すよ。何をしても、何をされても、僕は君を許し続ける。だから、今から君にすることも、これから君にすることも、全て許してほしい。妄想を現実にすることを……)

許してほしい


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