小説 | ナノ

 花京院は前の部署で学んだ。追い詰めすぎては逃げてしまう。退職と言う退路を完全に塞ぐことが出来ない以上、慎重に囲い込まねばならないことを。

 午後十時半。社内の電気は殆どが落とされ、共用スペースや廊下にぽつんとした灯りが灯るビルの中で、一室だけPCも電灯もついている部屋があった。人気のないオフィスにはタイプとクリック音がやたらと大きく響くように感じられる。
 メイクもスーツも崩れてしまった公子と、前髪が崩れた花京院が無言でひたすらタイピングしていた。エクセルのボタンを押すと最終確認を促すメッセージボックスが立ち上がり、OKをクリックすればようやく今日のミスのカバーが終わる。
「花京院さん、こちら終わりましたのであとは私が……」
「僕も終わったトコ。じゃあ戸締りの確認をお願いしてもいい?」
「もちろんです。あの……本当にすみません」
「いいよいいよ。でもよかった、これで明日の朝皆が来てもミスには気づかないだろうね」
 転属すれば主任の地位を降りることになるが構わないのかという問いに、花京院は迷うことなく承諾の返事をしていた。主任、と呼ばれることはなくなったが、おかげで苗字で呼んでもらえる。
(出来ればもちろん名前のほうがいいけど)
 花京院はやり方を変えた。ミスが周囲に及ぼす影響こそが公子にとっての一番の懸念材料ということを知ったため、自分たちでリカバリー出来る範囲のミスに仕立てればいいと考える。自分で、ではなく、自分「たち」で、というのがポイントだ。
「やっぱり配属を変えて正解だったね。こっちのほうが合ってるのかな」
「いえ……相変わらずミスばかりで、お恥ずかしい限りです。部署を移っても花京院さんにずっと迷惑かけっぱなしで。毎日のご予定を私が潰してると思うと……謝罪してもし足りないです」
「気にしないで。帰っても一人だし、することもないし。仕事が恋人みたいなもんだから」
 本当は休日にはひたすらゲームに打ち込んでいるのだが、平日は電源を入れることはなくなった。だがそれはもちろん苦痛ではない。むしろ一週間のうち五日しか公子に会えないことがもどかしいとさえ思っている。
「花京院さんはお付き合いされている方はいらっしゃらないのですか?」
「えっ……」
 今、何を聞かれた。幻聴とさえ思った。仕事の話ししかしてこなかった公子が、自分のプライベートに興味を持っている。しかもそれは恋人の有無だ。
「あ、すみません。立ち入ったことを聞いてしまって。ただ、彼女さんにも悪いことをしてるんじゃないかと心配になって」
「い、いや。彼女、ずっといないんだ」
「そうでしたか」
「……主人さんは?彼氏いるの?」
 チャンスだ。普段こんなことを聞けばセクハラでコンプライアンス部門から厳重注意が飛んでくるところだ。だが今この話題は公子のほうから振って来た。それに花京院に対して申し訳ないという気持ちしかない公子に、ここで「セクハラですよ」と返すことは出来ないだろう。
「いえ。私もいないです」
「そっ、か」
 だがこの話題はこれ以上続かなかった。だったら僕と、なんて急に言えるわけがないし、どのくらいいないのかなんて詳細に聞きだすのはさすがに気が引ける。だが、公子がフリーであるという確固たる証拠がなかった花京院にとって、この一言は大きな意味を持った。

(彼氏いないんだ。今の時間はもう家について、一人で食事して、一人で風呂に入って、一人で床に就くんだ。会社にいけば、ミスの修正に追われて、その間は僕しかいない。つまり、公子には僕しかいないんだ。嬉しいな、僕にも公子しかいないから……)

 ある日の午後。ミスの頻度も徐々に調整を覚え、最近は「いじる」ことをしていなかったのだが。
「花京院くん、ちょっと」
 ここの部署の主任に呼ばれ、花京院は別室へと移動した。会議室のサインプレートを使用中に切り替え、二人は椅子にかける。主任の手にある紙束は花京院が提出したものだ。
「えーと、単刀直入に言うとヤバイ。すごいミスがあったみたいでね」
 机の上に並べられた提出資料と報告書を見比べながら説明を聞く。今花京院は副主任の地位にあり、主任が休みの日にはその代理を務めている。提出日は主任が休みの日で、確認印の欄には赤いインクで押された花京院の文字があった。
(しまった……これ!)
「急いで修正にいくから、花京院くんは内部からのサポートと僕の代理をお願いね。じゃあちょっと出てくるからあとよろしく」
「申し訳ございません!!」
「いいよいいよ。君随分根を詰めてたようだしね。気づけなかった僕のせい」
 恰幅のよい主任は大きな口を開けてガハハと笑った。花京院は資料と室内の片づけを引き受けると足早に自分のデスクへ戻り、一心不乱にモニターと格闘し始めた。
 その日は水曜日で、社内のあちこちに貼られた「水曜はノー残業デー」というポスターがなんだか逆に恨めしく見えてきた。徒歩通勤ではあるが、確実に終電がなくなるような時間になるだろう。幸い翌日は花京院が休みの日だったので二時ごろまで残っていればなんとかなるといったところか。それも現地に行ってくれている主任次第だが。
(なんだってこんな凡ミス……いや、僕にそんなことを言う権利はない)
 後ろ暗い気持ちを拭うように、より一層仕事へと打ち込んだ。


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