小説 | ナノ

 話は平行線を辿った。改善策を提案しても、他者に負担を強いるのはこれ以上無理だと公子がひたすら突っぱねる。
 午後五時から始まった二人の世界。五時半くらいまでは花京院はこの状況まで公子を追い込んでしまったことを「まずった」と後悔していた。しかし思った以上に意固地で辞意の固い公子に、それは次第に苛立ちへと変化していく。本当のところ、助けてくださいと自分にすがりつく彼女を期待していた。それと違う反応だからという理由で花京院は更に意地悪を重ねることにした。
「主人さん、本当に迷惑をかけたくないのなら逃げるんじゃなくてもう一度仕事と向き合う方が正しいと思わないかい?」
「身の丈に合った仕事をもう一度探しなおしたいと思っています」
「何でそっちにいくかな……今までのミスを押し付けて逃げるつもり?」
「……すみません」
 花京院の冷淡な物言いに、とうとう公子の瞳から大粒の涙が落ちた。俯いているため涙は頬を伝わずに公子の太ももに落ちていく。
「報告書は提出前に僕がチェックする。対応に関しては複雑化してきたら他の社員に回す。その空いた時間を使ってもう一度僕と勉強しなおそう?」
「……すみません」
「それはどっちの意味かな?」
「手一杯尽くしたつもりです。私にはこれ以上この仕事で必要な能力を伸ばすことが出来ません」
「だから、僕と一緒にやるんだよ。これから時期的にこうやって空く時間もどんどん出るし、君さえいやじゃなければ休みの日にも教えるよ。あぁ、休日も仕事しろって意味じゃないからね」
「……あの、私、そこまで仰っていただくような価値のある人間ではありません。主任のような方からお気にかけてもらうと、余計に自分の非力さを痛感して苦しくなるんです。せめて部署を変えたいです。コールセンター部門とか」
「君は社員だ。アルバイトと同じ立場になることは許されない」
「すみません」
 何度目のすみませんだろうか。その言葉を聞くたびに花京院は更に興奮を膨らませた。自分が声をかけると彼女は苦しいと言う。自分の行動が彼女に影響を与える……それだけのことが花京院にとっては快感の源となった。
「僕はまだ二十代だけど主任の地位を任せられた。僕の主任としての小さなプライドを一緒に守って欲しいんだ。どんな部下でも絶対に見捨てたりしない、前の部署にいた僕の恩人の上司のようになりたいんだ。君が辞めたいと言うのは正直僕に原因がある。君が僕についてきたいと思わないのは僕の指導力不足だからだ。でも僕を責めずに自分の中で問題を完結させようとするそんな君を支えてあげたい。そう思うのは迷惑かい?」
「迷惑だなんて、むしろ私が迷惑をかけている立場ですから」
 公子はまた「すみません」と断って、ポーチからハンカチを取り出して涙を吸わせた。アイメイクを擦らないように目頭にそっと布を当てるだけの仕草が妙に妖艶で、花京院は生唾を飲み込んだ。
「泣かなくてもいい……と言っても無理に涙を止める必要もない。そこまで真剣に仕事のことを考えてくれてるのはとても嬉しいよ。君のような真面目な社員がいてくれるから会社は成り立ってるんだ。そう自分を責めないで」
「はい……私、もう少し頑張ってみようと思います」

 だが頑張るのは別の部署でだ。公子の移動願いは聞き入れられた。人事から通達を受けた花京院は青ざめ、その日は視察を理由に外出し、直帰した。
(公子……どうして。頑張ると言ったはずだ。僕の元が嫌なのか?今の部署が嫌なのか?島崎が特に君に辛く当たってるのは知ってる。だから極力外に出してきたつもりだ。僕の配慮が足りなかったのか?ここのところは君の仕事を『いじって』ないはずだ)
 家に帰っても浮かぶのは公子のことばかりだ。彼女は自分のいない場所で生きていくと決めているのに、我ながら女々しいと思いながらもあの夕暮れのオフィスを思い出す。
(あのときは……すごく興奮した。何でだろう、彼女からアプローチがあったわけでも、服の下が見えるようなこともなかったはずなのに。何であんなに……)
 脳が記憶を呼び起こせば、身体も順応しはじめた。空想だけで耽るなど十代の若者じゃあるまいし。しかし、そういったビデオを見るより、写真集を見るより、記憶の方がはるかに刺激がある。
(忘れよう……最後に、もう一回だけして……)
 部屋の電気を消し、ベルトのバックルに手をかけた。

 ダメだ。
 やはり忘れられない。
 諦められない。
「……っ!」
 公子が目を潤ませて言う謝罪の言葉が好きだ。俯いていたから自然と上目遣いになる、その角度!その嗚咽!そして、それを優しく慰め、許したときのあの笑顔。何度でも許すよ。何をしても許すよ。
 君の鳴き声と涙以上に、僕を執着させるものはこの世にない。ティッシュの中に吐き出された真っ白な欲望が、そう確信させた。

 四ヵ月後。
「またよろしくね、主人さん」
「あ。はい」
 同じ部署に後を追うようにして入ってきた花京院。部署は違うが上下関係は同じである。部内でも正確な仕事と丁寧な対応で評価を上げてきた公子にミスが散見されるようになるのは、わずか数日後のこととなる。


prev / next
[ back to top ]


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -