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* * *



 ただでさえ慌ただしく人々が動く研究所内で、血相を変えたミーティアがヒールの音を鋭く響かせる。涼しい顔立ちに似合わない焦燥が表情を飾り、きつい眼差しがある人物を探して忙しなく動き回っていた。

「ちょっと! モスキート中佐はどちらに!?」

 あれほど目立つ髪色が、どこを探しても見当たらない。手近の職員を捕まえて問い質せば、彼はその剣幕に怯えながらも口を開いた。手元の端末を確認しながら、おどおどと報告する。

「も、モスキート中佐でしたら、六時間ほど前に帰国なさっています……」
「なんですって?」
「で、ですから、祖国より臨時の迎えが、」
「アナタ達、この状況でむざむざ帰したというの!?」

 そうは言っても、六時間前なら集団感染が発生するよりも前だ。ビリジアンからの迎えの空渡艦もまぎれもないビリジアン空軍のものだったと職員は言い、モスキートが正規の手続きを踏んで退艦したことを示す記録を示してきた。
 頭が痛い。気がつけば自室に戻ってきていたミーティアは、整然としたテーブルの上に両手を叩きつけて歯噛みした。つけっぱなしのモニターには、地図上に感染者の存在を示す点がいくつも表示されている。
 少し視線をずらすと、キーボードの端になにかが挟まっていた。小さな紙片に書き記された文字には見覚えがあった。少しだけ癖のある、流れるような筆跡だ。ご丁寧に香水が降りかけられているのか、持ち上げた瞬間にふわりと甘く香る。

「あの男ッ!」

 衝動のまま握り潰した紙片には、「お先に失礼します」の一言だけだ。サインはない。だが、他の誰が分からずともミーティアには分かる。メモを残した人物は、モスキートに間違いない。
 怒りに任せてペン立てを壁に叩きつけ、けたたましい音によって若干の冷静さを取り戻す。深呼吸を繰り返し、ミーティアは再びモニターを睨んだ。
 集団感染という事実に加え、ハインケルから聞かされた仮説ですでに許容量は限界に近い。

「利用されたですって……? アタシが? 冗談じゃないわ」

 なぜ自分がこのプレートに派遣されたのか。
 ハインケルという類稀なる存在を祖国に引き込むためだった。信頼する上司によって託され、女王陛下から直々に言葉を賜った。ビリジアンでのミーティアの立場は確固としたものになっており、揺らぐはずがないと、そう思っていた。
 それが過信だったとでも言うのか。
 積み上げてきたものが揺らぐ。だが、そう容易く膝をついてやる気など微塵もなかった。
 仕事用ではなく、滅多に使わないプライベート用の携帯端末を取り出してある番号にコールする。登録こそしていなかったものの、“彼”の番号は暗記していた。それほど“彼”とは長い付き合いがあるのだ。“彼”には昔から振り回されてきたが、今度という今度は許さない。
 何度コールしても応答しない携帯端末を強く握り締め、ミーティアはらしくもなく毒づいた。

「さっさと出なさい、モスキート! これだから嫌いなのよ、あの男!!」


* * *



「くっそ……、なんで出ぇへんねん!」

 口汚く罵った携帯電話は、虚しくコール音を響かせるだけだった。
 人のごった返した高校の前から少し離れ、奏は駅の近くからナガトに電話をかけ続けていた。何度も鳴り響いた銃声に、爆発音。中でなにかが起きているのは、誰の目にも明らかだ。突入を迫られた警官隊が緊迫した空気を醸し出しているのが傍目にも分かった。
 穂香は無事なのだろうか。
 高校の屋上で謎の爆発があったと騒ぐ報道陣の声を聞いた。まるで「見えないなにかが屋上に突っ込んだような跡」があるとの情報に、それが空渡艦によるものだとすぐにピンときた。
 ナガト達は、ちゃんとここまで辿り着いたのだ。彼らは穂香を助けるためにここまで来てくれた。だが、事件発生から、もう随分と時間が経つ。それどころではないのかもしれないが、何度連絡しても相手が出ないのは不安しか煽らない。
 一言でいい。たった一言でいいから、声を聞かせてほしい。無事でいてくれることさえ分かれば、それでいいから。
 祈るようにリダイヤルして、もう一度耳に押し当てる。途方もなく長く感じたコール音が、ようやっとふつりと途切れた。

「あっ、ナガト!? 大丈夫なん!? ほのは!?」
『――っと、落ち着いて、奏! ほのちゃんなら無事に助けたから。ほら、声聞こえる? ――ほのちゃん、なにか喋って』

 穂香の震えた声が聞こえてきて、奏は膝の力が抜けるのを自覚した。胸に痞えていた大きな塊が少しずつ砕けていく。
 よかった。吐き出した息と共に身体から力が抜け、壁に背を預けてやっとの思いで身体を支える。安堵が押し寄せてじわりと眦に涙が浮かんだのもつかの間、電話口の向こうでなにかが大きく軋む音が聞こえてきた。アカギの舌打ちと穂香の悲鳴が重なる。
 どくりと跳ねる心臓に、ナガトの声が突き刺さった。

「ナガト? ちょっと、どうしたん!?」
『オイっ! なんだよこれ、どうなってる!?』
『くっそ、絡みつかれた!』
『はぁ!? 今の今まで反応なかったんじゃないのかよ!? アカギっ、そっちのレバー引けっ!!』
「なあ、どうしたんよ!」
『言われなくても分かってンだよ!』

 みしみしと軋む音、聞き覚えのある不快な警告音。
 焦りを帯びた二人の声に、怯えきった穂香の悲鳴。――なにが起きているのだろう。もつれる舌が言葉を取り零し、なにを言えばいいのか分からなくなった。駅に電車が滑り込んでくる。踏切の警報も、注意を促すアナウンスも、すぐそこで奏でられているはずなのに、どこか遠くに聞こえた。
 どうしたんよ、なあ。なんとか言葉になっていたらしいそれに、雑音混じりに答えが返ってくる。



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