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 ホーリーで見た美しい海に、夕陽に染まる白い街並み。人魚の泳ぐ青い世界はどこまでも澄み切っていた。美しい思い出は確かにあるが、あの国で起きた出来事はそれだけではない。
 聖職者の血を使った絵師には遭遇したし、第一王子の陰謀に巻き込まれて第二王子には酷い目に遭わされた。ヒューノイルの呪詛で穢されたディルートの海は荒れ狂い、怒りに満ちたルタンシーンに振り回される羽目になった。
 けれどその結果、シエラは海神の加護を身に宿すことができたのだ。目を閉じ、耳を澄ませば、静かに青の世界が身体を包む。じんわりと広がる水の音が聞こえるような気がして、そのたびにどこか懐かしい気持ちになる。
 ホーリーでの出来事を淡々と報告していくエルクディアとライナに、ユーリは穏やかな笑みを浮かべて右の手のひらを天井に向けた。精霊が動く気配を感じる。――これは風霊だろうか。
 ユーリがぱちんと指を鳴らした瞬間、突風が吹き抜け、どこからともなく運ばれてきた無数の花びらがシエラ達の頭上に降り注いだ。

「大変だったね。お疲れ様」
「……あいっかわらずだな、お前」
「数ヶ月でそう簡単に人は変わらないよ、エルク。それより、私からも一つ報告があるんだけれどいいかな」
「なんですか?」

 秀麗な顔立ちに浮かんだのは、少し疲れたような苦笑だった。

「先日、魔導師の二人がこの城から失踪した」
「え……?」

 聖職者の集まるアスラナ城において魔導師と言えば、リース・シャイリーとラヴァリル・ハーネットの二人しかいない。
 ユーリは今、なにを言ったのだろう。言葉の意味を飲み込めず呆然とするシエラの傍らで、エルクディアが表情を変えていた。ライナもまた、信じられないとでも言うように目を大きく瞠っている。
 アスラナ城を取り巻くこの空気は、それが原因だとでも言うのだろうか。しかし、どうしてあの二人が失踪という形で城を出る必要がある。リヴァース学園に戻りたければ、一言言い置けばいいだけの話だ。今まではそうしてきていた。
 なぜ、いまさら。

「リヴァース学園側の裏切りと見ていいだろう。裏切りというより、反乱かな。向こうはある程度の軍を用意しているらしい」
「随分呑気に構えてるな。……ユーリ、お前、最初からこうなることが分かっててあの二人を置いたんじゃないのか」
「まさか。さすがにこうも大胆に動くとは思っていなかったよ」

 そう言ってユーリは笑ったが、その笑顔には疲労が滲んで見えた。
 絶句するライナと目が合い、シエラは逃げるように瞼を閉じた。ホーリーで交わした口論を嫌でも思い出す。
 お互い、理解しあえずとも受け入れたはずだった。聖職者は聖職者の道を。魔導師は魔導師の道を。互いに良き方を目指して進んでいるのだと、そう思っていたのに。これでは、両者の溝をさらに深めるばかりではないか。
 唇を噛み締めたシエラの手を、ライナがそっと握ってきた。顔を上げれば、柔らかな瞳がこちらを覗き込んでいる。

「大丈夫ですよ、シエラ。……きっと。きっと、大丈夫です」

 その「大丈夫」にはどんな言葉が押し込められているのか、シエラには判断がつかなかった。どうして急に空気が変わったのか理解できないでいるルチアは、ユーリの膝の上できょとんと首を傾げている。無垢な表情なだけに、硬く張りつめた自分達の様子がひどく滑稽に思えた。
 大理石のテーブルを前に話を進めていたが、青年王は静かにエルクディアを手招いた。膝から降ろされたルチアは、促されたままにシエラに駆け寄ってくる。
 傍に寄ったエルクディアの耳元に、青年王は声量を落としてなにかを囁いた。シエラやライナには聞こえない。この場で話すくらいだから機密事項ではないのだろうが、面と向かって話すには忍びない内容らしい。
 なんの話だと問う前に扉が叩かれ、使いの者がオリヴィエの帰城を告げにやってきた。ユーリが部屋へ通すように言ったが、堅物の騎士隊長がやってきたのはそれから十分ほど後のことだ。レンガを思わせる赤茶けた髪が僅かに湿っているのを見るに、戻るなり急いで汚れを落としてきたらしい。つまりは、それだけ汚れる羽目になったということか。
 オリヴィエは遅れを詫び、次いでエルクディア――と、取ってつけたようにシエラにも――に無事の帰国に対する喜びを述べて頭を垂れた。

「おかえり、オリヴィエ。よく行ってきてくれたね。リヴァース学園の様子はどうだった?」

 思わず腰を浮かせかけたシエラを、ユーリが視線だけで制する。今は口を挟むなということらしい。

「まるで貝のようにぴたりと口を閉ざし、門前払いを食らいました。バーナー理事長との面談を望みましたが、『一介の騎士に話すことはない』と書面での回答を得たのみです。リース・シャイリー、ラヴァリル・ハーネットの件に関しては、『誰もなにも知らぬ』が向こうの出方のようです」
「へえ?」
「『王都騎士団六番隊の隊長が自ら赴くということは、国王陛下の宣戦布告と受け取るがよろしいか』との言伝も。……不敬罪、侮辱罪で捕らえますか?」
「それで大人しく捕まってくれるのなら話は早いんだろうけれどねぇ。……向こうも、それができないと知っていての発言だ。言ったところで仕方がないよ」

 シエラにはなんの話かこれっぽっちも見えてこない。ただ、リヴァース学園との間柄が、冬の湖も震えるほどの凍てついた仲になっていることだけは予測ができた。
 ホーリーでしばらく過ごし、分かったことがある。アスラナでは王都騎士団の隊長格が直々に使者として各地に派遣されることが多いが、他国からすればそれはありえないことらしい。


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