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 今二人が歩いている場所は、そう広くはない廊下だ。真っ直ぐに伸び、横手にはずらりと棚が並んでいる。盾や像でも飾られていたのか、床にはくすんだ金属片が散らばっていて、時折蹴飛ばしては高い音を立てる。
 通路を塞ぐように左右の棚が横倒しになっているところまで来ると、エルクディアが下がっていろと言ってきた。下がれもなにも、まだ追いつけていやしないのに。息切れする体を引きずるようにしながらなんとか頷いて、ライナは一旦足を止めた。
 ――なにをするのだろう。
 考えた瞬間、彼は体を横に向けて思い切り棚の側面を向こう側へと蹴飛ばした。ず、と重なり合っていた棚がずれ、そしてドゥンと大きな音を立てて床に伏せる。
 もうもうと立ち昇る砂煙に唖然としている間にも、彼は棚の背に乗って歩き始めていた。
 その顔に一切の表情はない。ああもう、と叫びだしたくなった。折れた棚の欠片でも拾って、その後頭部目がけて投げてやろうかと思う。
 これでは、リースと二人きりでお茶会でも開いた方がまだマシだ。きっと苛立ちは募るけれど、こんなもどかしさは感じないに違いない。

 唯一幸いだったことは、これまで一度も魔物と遭遇していないことだ。祓魔が可能でないライナでは、魔物を浄化することが叶わない。倒すだけならエルクディアでも十分可能だ。
 だが、今の彼に剣を振るわせることは、なによりも恐ろしいことのように思える。守るためではなく、奪うために振り下ろされる刃がどれほど冷たいものか、考えただけでぞっとする。
 目が覚めたときのエルクディアは、まだこんな顔をしていなかったように思う。不安定な足場を必死に進み、ライナは大きなため息をついた。



 意識が戻ったのは、ゆっくりと頭を撫でられていることに気がついたときだ。普通に呼吸ができているから、ライナは水流に呑まれたことが夢だったのかと一瞬考えた。
 だがその考えを嘲笑うかのように、じとりと濡れた衣服が肌に纏わりつくのを感じて目を開ける。
 ここはどこだろう。ぼんやりとする頭で辺りを見回すと、顔にかかる影が濃さを増した。

「気がついたか?」
「……エル、ク? ここは……?」
「分からない。流されている途中で、人魚が案内してくれた。――見たところ怪我はないみたいだけど、大丈夫か?」

 何度も何度も頭を撫でられて、ライナはエルクディアの片足に頭を乗せているのだと気づく。
 片胡坐を組んでいた彼は立てた膝に上体を預け、脱力したような笑みを浮かべた。
 大丈夫だと頷いて、慎重に体を起こす。そこはなんの変哲もないただの部屋のようで、周りには古びた寝台や机が並んでいる。
 水の中にいたとは思えない光景に、思考が遅れを見せ始めた。床についた手のひらが、埃のせいでざらざらとしている。そこに水が満ちていた形跡など存在しなかった。
 あったのは、時を失った奇妙な静寂だ。

 ――焦るな、落ち着け。

 ライナは自分にそう言い聞かせ、濡れた前髪を掻き上げる。ずきずきとした頭の痛みは、内側から来るものなのか外側のものなのかさっぱり分からなかった。
 焦りや恐怖は判断力を鈍らせる。だからこそ冷静にならなくてはいけないのに、心はどんどんと波立つばかりだ。
 そんなライナとは反対に、エルクディアは腹立たしいほど冷静だ。
 ――嘘のように。
 ああ、と心中で悲嘆の声を上げる。気づいてしまった。感じ取ってしまった。この部屋をいっぱいにしてもなお、溢れ出る違和感に。彼という器だけでは到底収まりきらない、その苛烈な思いに。
 高鳴る鼓動を押し隠して、ライナはぐっと唇を噛み締める。最も聞きたいこと――聞かなければならないことの代わりに、まったく別の話が口をついて出た。

「……人魚が、いたんですか? このようなところに」
「ん? ああ。こっちに危害を加える気がないと分かってくれて助かったよ。俺も限界が近かったから、あのままだとどうなってたか。遺跡の中にこんな場所があるなんて思いもしなかったけどな」
「そう、ですか……」
「どうした? 顔色悪いぞ。やっぱりどこか怪我して……?」
「――いえ。そういうことでは……」

 どうかしているのは彼の方だ。耐え難い悪寒に襲われて、ライナはぎゅっと己を抱き締めた。珍しい人魚の存在も、空気が存在するこの場所も、今この状況ではどうでもいいようにさえ思える。
 そんなことよりももっとずっと聞きたくて、けれど聞くのは怖いことがある。
 エルクディアはなにも言わなかった。足の折れた寝台にかかっていたぼろぼろの敷布で濡れた剣を丁寧に拭い、火を熾(おこ)せそうなものを探して部屋の中を歩き回る。
 彼が砕け散ったランプの中から蝋燭の欠片を拾い上げたところで、ライナはようやく覚悟を決めた。

「エルク。…………シエラ達は、どこですか」

 本当は「どうなったんですか」と尋ねたかった。けれどそれでは、一番考えたくないことを匂わせてしまいそうでやめた。
 沈黙が満ちる。エルクディアの動きが止まった。彼の顔を見ることができなくて、ライナは俯いたまま己の手をじっと見つめていたのだが、悲鳴が零れそうになるほどの殺気を肌で感じて竦み上がる。
 痛い。そしてなによりも、怖い。
 かちかちと歯の根が震えて音を立てている。それだけで人を屠れそうなこの殺気が、自分に向けられたものではないと分かってはいても本能が恐怖を訴えていた。
 恐れと不安が入り乱れてライナを襲う。



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