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リースはシエラ達を背にしてじりじりと後退していく。迫り来る魔物に短剣をちらつかせ、その先に業火を宿して威嚇するように。
リヴァース学園の制服は海水と埃、そして血にまみれて汚れきっていた。自分の神父服も大差ない状態になっているだろうことは、確かめずとも分かる。
自分がこんな目に遭っているのは、エルクディアとライナを助けたいからだ。あの二人に会いたいから、あの二人を諦めたくはないから、ずたぼろになっている。だが彼がこうなる理由など、微塵もないではないか。
炎に照らされた横顔は、血の気を失っていて紙のように白い。
聖堂に降りそそぐ光によって青く見えているのであれば、どれほどよかったか。
――どくん。
一際強く感じた魔気に、シエラの心臓が大きく跳ね上がる。それと同時に、リースが突然胸を押さえて膝を折った。好機とばかりに魔物が前へ躍り出る。
我慢できず、シルディの静止を振り切ってシエラはリースの傍へほぼ転ぶような足取りで駆け寄った。呼吸が大きく乱れ、苦しげに息を吐き出すことしかできない彼の背をさする。
目が見開かれ、喉がひゅうひゅうと音を立てている。彼が必死に声を押し殺しているのが分かった。
シルディが悲鳴のような声を上げるのが聞こえた。血に飢えた魔物の牙や爪が、すぐ眼前にまで迫っている。
どうすればいい。こんなとき、どうすれば。混乱のさなかにシエラの目に飛び込んできたのは、自分の腕に巻かれた包帯だった。赤い血が滲むそれを見て、はっとする。
――血だ。この血を使えばいい。
ライナの言葉を思い出す。聖職者の血は魔物にとっては好物であり、最大の敵でもあると。聖職者の最強の武器であると同時に、最も危険度(リスク)の高い武器であると。
誤れば死さえ免れない。だが今は、もうこれしか手立てはなかった。
ぐ、と包帯の上から傷口に爪を立てる。激痛に声が漏れ、目尻には涙が浮かんだ。
指先にぬるついた感触が広がる。
「くっ――」
「やめ、ろ……ッ」
傷口を広げていた手をリースに掴まれ、無理やり引き剥がされた。ぎらりと凍てつく双眸で睨まれ、本能的に身が竦む。
折角思いついた最高の手段を阻むだなんて、どうかしている。そう言いたくても声にならなかったのは、恐怖に体を硬直させていたからではない。
一体何匹の苦虫を噛み潰したらそんな顔になるのかと聞きたくなるほど苦い顔をして、リースが血のついたシエラの指先に赤い舌を這わせたからだ。
本当に忌々しい奴だ、と吐息だけで彼が言う。
「……見る、なッ、よ」
言うなり彼は鋭く舌打ちをして、己の手のひらに迷いなく短剣を滑らせた。
+ + +
時は少し遡る。
あまりにも永く、暗い時間だった。静かすぎて、自分の中の時が止まってしまったような錯覚さえ覚えるほどに。
辺りには朽ち果てた家具が転がり、かつては雄々しく剣を掲げていたのであろう騎士の像が横倒れになっている。それを気にかけるわけでもなく跨ぎ、行く手を阻む邪魔なものは乱暴に払い除けて進む青年の背中を、彼女はじいと見つめていた。
肉体的な疲労に加えて、精神的な疲れや痛みが容赦なく体力を削っていく。飲食さえままならないこの状態は、長く続けば最悪の状況さえ招きかねない。
足が上手く上がらず、転がっていた瓦礫に躓いて声を上げると、ずんずんと先に進んでいた彼がやっと振り返った。
「ライナ、大丈夫か?」
「ええ、なんとか」
「そうか」と頷いて再びエルクディアは前を向く。その背中に声を掛けることなどできなくて、ライナはそっと嘆息した。
ライナの体内時計が正しいならば、シエラ達と別々に流されてから二、三日は経過している。二人きりになってから、エルクディアはずっとこの調子だった。
普段はからりと笑って、些細なことにも気遣いを見せるはずの彼はどこか別の場所へ流されてしまったらしい。このまま行き倒れても、置いていかれるのではないだろうか――そんなことを考えてしまうほどに、今の彼は淡々としていた。