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シエラは折れそうになる膝を叱咤して、壁に背をつけた。犬や人型、果ては鳥の頭をした蛇の魔物に取り囲まれている。血のような赤い光を放っているくせに、本来眼球があるべき場所は落ち窪んでいて異質だ。
じりじりとにじり寄ってくる異形の者共を、震える体で迎え撃つ。
――闇の者共に、安寧の夜を。
「<今はただ――、>」
弓を引く気力もなければ、体力もない。聖砂を巻き上げることすら苦痛だ。攻撃的な法術は、威力が高ければ高いほど術者の体力を削る。
疲れきったこの体では、この場にいる魔物を一掃する大技などできそうにもなかった。
切れ切れになりそうな言葉をなんとか繋げて、シエラはきつくロザリオを握り締める。近くで生じた灼熱の炎に喉を焼かれる思いをしながら、彼女はしかと前を見据えた。
魔気に反応し、暗がりでも昼間のような視界を持って見通すことのできる金の双眸が、ほんの一瞬瞳孔を拡張させる。
大きく息を吸った。願いを、祈りを、この胸に満たす。
「<……静かに、眠れ>」
光の下に無理に晒すわけでもなく、身の内から破壊するものでもない。優しく逞しい、母のような慈愛をもった響きはゆっくりと魔物の四肢に寄り添っていく。夜の闇を迷わぬよう照らし導く月明かりのように、きらきらと穏やかな光が異形を包む。
うっすらと発光するブルーダイヤの輝きをはっきりと感じ、シエラは小さく息を吐いた。
けれど気は抜くことなく、まっすぐに彼らを見つめる。
シエラの真正面で唸りを上げていた、魔犬がとさりと膝をついた。前足を折り、そのまま自然な流れで体を伏せて瞼が落ちる。
それに倣うように、周囲の魔物達も次々に床に伏していった。おぞましい血色の眼光がつと消える。
自分でもなにをどうやったのかは分からない。どの精霊達に祈ったのかどうかも定かではないけれど、上手くいったのは確かなようだ。
祓魔しきる力はなかった。もしこれが失敗していたら、おそらくこの体は千々に裂かれていただろう。そう思うと、急激に疲労や恐怖、安心感が押し寄せて全身に圧し掛かってくる。ず、と腰が重力に負けた。
背中に書物のごつごつとした感触を覚えながらその場に座り込み、ほぼ硬直していた指を一本ずつロザリオから離していく。
リースの呪文が鼓膜を震わせる。頭の奥深くにあるずくずくとした痛みが、まだ魔物が消えていないことを示していた。
それでも、もう一度立ち上がるにはしばらく時間が必要だった。両腕を突っ張って体を持ち上げようとしても、足がまったく言うことを聞いてくれない。
シエラの周囲にいる魔物が眠りに落ちていることが、ここでは唯一の救いだ。
乾ききった唇を潤してから首を巡らせ、リースの様子を見た。右腕が痛い。確認するのがなんとなく嫌で、リースから視線を外さないまま左手で押さえ込む。
その瞬間に焼けつく痛みが走ったことから、切れているのだろうなとぼんやり思った。
「シエラちゃん! 大丈夫っ?」
「あ、あ……」
聖堂内にいた魔物の半数が片付いたおかげもあり、シルディは隙をついて祭壇から駆け寄ってきた。
反対側ではテュールの氷の吐息(ブレス)が、ステンドグラスから零れる青の光を受けてきらきらと輝いている。こんな状況下にも関わらず、シエラはそれを美しいと思った。
痛かったらごめんね、と前置きされて右腕に触れられた。なにかと思って目をやれば、シルディが自らの服を裂いて包帯のようにし、きつくシエラの腕に巻きつけている。
じわりと滲む赤を認識した途端、そこの痛みが増したような気がした。
「ごめんね。……僕も戦えたら、いいんだけど。なにもできなくて、本当にごめん」
なにもできない。力になれない。ただ、守られるだけ。
悔しそうに、苦しそうに顔をゆがめてシルディが呟く。なにも言うことが思い浮かばず、黙ったまま荒い呼吸を繰り返した。
この状況で、シルディは確かに戦力にはならない。だが彼は、足手まといにもなっていなかった。
それがシエラにとってはひどく羨ましかった。自分はいつだって、誰かの足を引っ張っている存在だったから。
今だってそうだ。自力でなんとかしたように見えても、実際はリースとテュールに助けられている。シエラの元へ新たな魔物が襲い掛かるのを、彼らが食い止めているのだ。
ほとんどの魔物はリースが倒した。自分は彼が倒しきれなかった僅かな魔物を相手していただけにすぎない。
それに――。それに、守る気などないと言っていたくせに、何度も何度も彼の視線を感じている。戦いながら、傷つきながら、それでもリースはシエラの様子を窺っていた。
シエラの倍以上の魔物を相手にしている彼も、そろそろ限界だろう。
放たれる魔術も小規模なものが多く、動きにも無駄が多くなってきている。両の手に握られた短剣は飛びかかってきた魔物の喉笛を切り裂き、薙ぎ払う役目へと転じていた。