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真正面に見えるのは、真っ青な色ガラスの絵画――ステンドグラスだ。濃淡の青いガラスだけで作られたそれは、花畑に佇む人魚を模している。
部屋は六角柱のようで、天井は鋭く尖っていた。中央に置かれた美しい祭壇は、アスラナ城にあるものよりも簡単な造りをしている。
周りの壁には古ぼけた書物がびっしりと並んでおり、その場にいるものを圧倒する空気を醸し出している。
なにより不思議だったのは、部屋一面が青い光に包まれているということだった。
伸ばした手の先が青く染まる。光の差さないはずの深海で、ステンドグラスを通して部屋に灯りがもたらされている。
窓が割れていないことなど、これまでのことに比べれば大して不思議にも思わなかった。
この場所は一体なんなのだろう。零れたため息は驚きか感動か、よく分からない。
「あ、シエラちゃん。おはよう。よく眠れた?」
シエラが声に反応して目を向けた先では、シルディが同じように青く照らされていた。
両手に抱えた書物は一冊一冊が分厚く、その背表紙を見てもなにが書いてあるのか分からない。どうやらアスラナの文字ではないらしい。
そういえば、今まで当たり前だと思って気がつかなかったが、シルディはなんのよどみも違和感もなくアスラナ語を喋る。
アスラナ語は世界共通の言語だが、国や地方によって雰囲気が変わるものだ。アスラナ国内でも北と南で一瞬理解に苦しむほど変化が生じているのだから、他国の民である彼の言葉に訛りがあってもいいはずなのに。
ライナの出身国であるエルガートでは、アスラナ語とはまったく別のエルガート語が存在する。
それは他の国においても言えることだが、このような場合、教育を受けられる子供達は世界共通語のアスラナ語と、自らの母国語の両方を学ぶのだという。
なぜそんなにも流暢なのかと問えば、シルディは一瞬きょとんとして頬を掻いた。
どこか照れくさそうな、困ったような笑みが顔に浮かぶ。
「うーん、なんでって言われると困るけど……やっぱり、ほら。王族だから、かな。他国と接する機会も多いし、意思の疎通を図るのが最重要とされることって大半でしょ? だから、僕らみたいなのは共通語を優先しなきゃいけないんだ」
「自分の国の言葉を後回しにするのか?」
「ううん、そうじゃなくて。同時進行なんだけど……ええっと、なんて言えばいいかな。咄嗟のとき、出てくるのが共通語になるようにしてるんだけど――参ったな。こんな質問、されるとは思ってなかったから、答えが思いつかないや」
言語は文化そのものだ。ばらばらの言語を統一するということは、統一した地域がそれなりの力を持っているということになる。
だからアスラナ王国はこの世界で最強と謳われるのだ、とエルクディアに読まされた書物のどこかに記されていた気がする。
「シエラちゃん、こんな話を知ってる? もともと、人間が使っていた言葉は一つだったんだ。だけど人々はやがて争いを始めた。罵り合って傷つけあって、武力でもって相手を制圧しようとした」
それは今でも変わらない。戦争とはそういうものだ。
「そこでね、神はお怒りになった。思いを伝え合う術を持っているのに、それを使おうともしない人間達に。だから神は、もう一度分かり合う努力をさせるために、人々の言葉を分けたって言われてるんだ」
言いながらシルディは祭壇の前に立ち、埃を吹き払って満足そうに口元を吊り上げた。現れたくぼみに指を滑らせ、シエラに構わず独り言を漏らし続ける。
それはどこか別の国の言葉なのだろう。別の国の――というよりも、遥か昔の古代語であるようだ。
分かり合う努力、か。すらすらと歌のように紡がれるシルディの声を聞きつつシエラが思い浮かべたのは、金髪の騎士だった。
穏やかに笑い、ときどき怒り、そのあと決まって優しく頭を撫でてくる。あの穏やかな声に名を呼ばれるとふわりと心が軽くなる気がした。
彼はこちらが思っていることを汲み取ってくれている。それは分かってくれている、と言ってもいいだろう。
では、こちらは?
名はエルクディア。王都騎士団の総隊長を統べる男で、竜騎士と呼ばれている。闊達に笑い、力強く支え、優しいけれどほんの一瞬血が凍るような表情さえ見せる。それがなんなのか、さっぱり分からない。
結局のところ、自分は彼のことをなにも知らないのだ。優しい穏やかな顔ばかり見て、血を浴びて戦場を駆ける様を見ようともしなかった。見たくないとすら思う。
つきり。よく分からない痛みが胸に刺さる。
「ぼんやりしてるね」とシルディが声を掛けてきたときにはもう既に痛みは消え、手のひらから砂粒が零れ落ちていくような寂寞だけが残っていた。
こちらに移動してきていたリースが祭壇をじっと見つめているのに気づき、読めるのかと尋ねてみる。返ってきたのは肯定とも否定とも取れる曖昧な一瞥のみで、彼とは分かり合う以前の問題だ。
歌のように続いていたシルディの声がふつりとやんだ。何度も頭を捻っているが、どうにも解読できないらしい。
「うーん、この先はちょっと様式が変わってるから読めないな。アビシュメリナの古代語とはまた別物みたいだ」
「同じ祭壇に彫られているのに?」
「ほら、ここ。継ぎ目があるでしょ? この暗さじゃどっちが新しいのか分からないけど、別の石版を繋ぎ合わせたものなんだよ、これ。なんのためにしたのかは分からないけど……」
「ここまでは読めたんだけど……」と言いつつシルディがなぞった刻み込まれた文字は、シエラからしてみればただの装飾にしか見えない。
へにょりと線が踊り、ところどころに鳥に似た絵さえある。これをどうやって読んだというのか不思議なものだ。
ほえほえ王子と言われつつも、やはり高等教育を受けてきたのだろう。どこか知的に映る横顔を見やり、小さく息をついた。