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 獣の呻り声のような音が聞こえ、男は振り返る。片膝を立てようと足を動かせば、筋肉が固まっているらしくほんの一瞬痛みが走った。しかしそれも彼の長い睫が下ろされるよりも前の話で、彼に痛みとして認識させたかどうかは定かではない。
 冷たい面立ちの男が己の次に映したのは、闇に紛れてしまうのではと懸念するほど浅黒い肌をした男だ。
 ちらと視線を受けたその男が恭しく礼をし、屈強な肉体を覆い隠すローブの裾を翻す。湿った大地に手のひらを押し付けるようにして跪けば、先ほどまで眠っていた男の視線が突き刺さるのを肌に感じた。

「もう、すべては始まっております」
「…………」
「今回こそ、決着を。あの忌々しき虫けら共には、何度煮え湯を飲まされたか分かりませぬ。ですが、此度の――」

 そこまで言ったところで、話を聞かされていた男がもういいと言った風体で手を振った。途端に渋面を作る浅黒い肌の男は、仕方なく頷いて立ち上がり、ゆっくりと踵を返すとその場を去っていく。去り際、「どうかご油断なさいませぬよう」と忠告されたような気もしたが、寝起きの男にとっては鬱陶しいだけの言葉だった。
 生まれてから――生まれたのがいつだったかは、記憶していないが――この方今の台詞を何度聞かされたか分からない。
 今まで静かだったその場に、ぱしゃりと水音が響いた。不振に思って彼が辺りを見渡せば、もう一度ぱしゃりと音がしてそれは大きさを増していく。立ち上がろうとして、彼は合点がいったように頷いた。

 ――今まで水の中に眠っていたのだ、と。
 浅い、それこそ立ち上がれば膝の辺りまでの湖に、自分は沈むようにして眠っていたのだ。道理で体は冷たく、動きが鈍るわけだ。加えて身に着けている衣まで、水を吸って重くなっている。
 漆黒の胴衣は水を含んでさらに濃く染まり、この場の闇に負けぬ黒さになっている。頬に張り付くのは彼自身の髪で、それもまた漆黒だった。
 彼は大きく空を仰いで――けれど、何も見えはしない――息を吐くと、瞼を落として人形のように動かなくなる。

 耳元で風の音が聞こえたその瞬間、彼は拳を水面に思い切り叩き付けた。
 バシャン、と大きな音がして水が辺りに跳ね、当然彼の顔にも飛沫がかかる。波紋は徐々に大きく広がっていき、それはおそらく湖の端まで届いただろう。水底まで辿り着いた拳はざらつく小石を叩いたせいか、僅かに痛みが走った。

 ――痛覚がまだあったのか。

 彼はそう思って自嘲する。ぎりりと噛み締めた唇の隙間から漏れるのはまさに慟哭のようなもので、それを木々の上、茂みの中、地中、水中など様々な場所から聞いていた者達は皆不思議そうに目を丸くさせていた。
 そう、誰も分からない。彼のことは、彼の最も傍にいる「あの方々」だけにしか分からない。――いや、「あの方々」でさえ分からないのかもしれない。
 けれど分かろうと分かるまいと、時は進む。それは決して止まってくれず、無理に操ろうとすればどこかで歪が生じて代償が必要となる。

 きつく噛み締められたそれは、血が出るまで解放を許されはしなかった。ようやっと彼が己の血の匂いに気づいたとき、辺りは既にざわついていて皆が思い思いに主の目覚めを祝っている。
 ひそやかに、それでも確実に、そっと。
 彼は立ち上がると、胴衣から滴る雫を一瞥したのち顎を伝う血を拭う。湿った空気を肺に取り込めば、ざわついていた空気がしぃんと静まり返って彼の言葉を待つ体制に入った。
 鬱陶しいことこの上ない長髪を掻き上げ、彼は喉の奥を震わせる。

 これですべての歯車が、軋むことなく動き始めた。


+ + +



 あの日のことを覚えていますか。
 まばゆい光に満ちた、あの楽園の日々を。
 堕ちた日を、覚えていますか。
 思い出せないのなら、貴女、まだ眠っていて。


+ + +



 アスラナ城は現在、とても緊迫した状況に置かれていた。
 城に住まう貴族や騎士、兵士だけでなく侍女や庭師でさえも気を張り詰めている。

 それはさながら、今から約六十年前の帝国戦争時を髣髴させるものだった。
 当時、アスラナ王国はまだ帝国で、魔物による被害もない時代だった。世界は領土や食料を巡って争いを繰り返し、人々の嘆きと歓声が途絶えることなどない毎日を過ごしていた。
 アスラナ帝国は近隣諸国と同盟を結んでいたが、他国からの侵略に備えて軍事力の強化を図り、またその当時から世界最強と畏怖される力を備えていたのだ。
 騎士や兵士は幾度となく戦に借り出され、帰ってきたのは生きた者ばかりではなくすでに事切れていた者も多くいたという。これが戦争の恐ろしさだ。
 簡単に人の命が奪われ、そしてそれを悲しむ時間もろくに与えられず次の命を戦場に借り出す。
 そんな暗黒時代と呼ばれた時代、このアスラナ城内はとても空気が淀んでいた。もちろんそれは城内だけに限らなかったが、国の中枢であるこの城は毎日が針山の上に立っているかのようだったのだ。
 
 確かに今現在、かつてのような緊張感が城を取り巻いているが、言ってみれば命の危険はない。
 これは城内だけの問題だし、すぐに戦が控えているかと聞かれればそうでもなかった。
 ではなぜ、このような雰囲気に包まれているのか。それは――

「いたか!?」
「いえ、未だ発見できません」
「くそっ、一体どこに……」
「総隊長殿! 第三宝物庫もやられました!」



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