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 ふう、と一息ついた老騎士は抜けるような青空を見上げて、在りし日を思い出していた。
 この空は五十年前も今も、変わっていない。
 それなのに肉体は次第に老い、声はしわがれ、黒々としていた髪も色を失っていった。張りのあった肌は、時代と共にしわを刻んでいる。体力は衰えぬよう鍛えてはいるが、それでも年には抗えない部分も出てくる。
 なにより、周りの者を若いと思うようになった。子供だ子供だと思っていた愛弟子も、今では立派な大人だ。
 王都騎士団総隊長の名に恥じぬ実力を持ち、神の後継者の護衛まで務めるようになった。
 戦場を駆けた友は、もうほとんどいない。
 多くは戦場で花を散らし、生き残った者とて五十幾年の間に若くして死んでいった。
 今この城で大役を担う老骨は、文官ばかりだ。オーギュストのように武勇を極めた者は、もはや彼ぐらいなもの。

「無茶ばかりしおって……」

 かつての友人達に苦笑する。若い頃に無茶をするから、老いたときにどうしようもないガタが生じるのだ。もしそれを聞いていたら、彼らは一様にこう返すだろう。「お前が一番無茶していただろうが!」と。
 簡単にその様子が想像できて、オーギュストはくっと喉を鳴らした。
 前を通るとぴんと背筋を伸ばす兵士らに労いの言葉をかけつつ、剣を打ち合わせる音の響く騎士館を目指す。
 昔の自分と今のあれ。どちらが無茶をしているだろう。
 この国にはどうしてだか、早く大人にならざるをえない子供がたくさんいる。
 若い者達が努力はしても、無茶はしない世の中――そうなってほしいと願いつつ、オーギュストは掠れた咳を二つ零した。


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 渦巻くのは、どうやって言葉にしていいのか分からない不可思議な感情だった。
 ある事象に対しての不安なのか、訳が分からないから不安なのか、まったくもって理解できない。誰かに説明することなど不可能だ。
 とにかく胸がざわついていて、落ち着かない。これはきっと、体験した者でなければ絶対に分からない感覚だ。
 そしてそれは、おそらくシエラにしか感じ取ることのできないものだろう。
 ねっとりとした重たい空気が肺を埋め、喉に絡みついて呼吸を妨げる。重なった視線は、逸らさなければ心の奥底まで読み取られそうな鋭い眼光だった。
 暗く、そしてどこか悲しげなそれが瞼の裏に焼き付き、冷たく胸を貫く。あの瞬間、音がふつりと止んだ。手のひらからすべての砂粒が零れ落ちる、その瞬間のように。
 今思い出してもおぞましい体験に、シエラは苦い顔で冷え切った紅茶をすすった。案の定おいしいと感じるはずもなく、嫌な苦みだけが舌に刺さる。
 オーギュスト・バレーヌ。彼は一体何者なのだろう。
 植えられた疑問の種は、そっと芽を出そうとしている。それに気づかないふりをするか摘み取ってしまうかは、彼女自身に任されていた。
 しばらく悶々となにやら多くのことを考えすぎたせいか、頭が妙に重たくなってきた。やはり自分になにかを考え込むような、面倒なことは向かないらしい。
 そう自己完結させ、彼女は苦みの増した紅茶を一息に飲み干した。
 他の者が聞けば、なんて羨ましい性分なんだと嫌味交じりに呆れたかもしれないが、そんなことは知ったことではない。

 シエラ・ディサイヤにとって大切なのは、誰のために、誰を中心に世界が動いているかではない。
 自分の世界が、自分によって動いている。ただそれだけのことだ。他の誰かによって回される人生なんて、まっぴらごめんだった。――そうは言っても、現状は思い通りにはいかないので、どうしようもないやるせなさが募る。
 子供のように頬を膨らませて拗ねたところで、どうにかなるはずもない。それが分かっているからこそ、相反する思いに胸が圧迫される。

 抗いたい。
 正面から受け入れるより他にない。

 どうすればいいのだろう。その答えは分からない。ひどく面倒だった。出てきそうにない答えを求め続けることは。
 誰か代わりに見つけてくれればいいのにと思う。それが矛盾した考えだと、シエラはぼんやりとしか気がついていなかった。
 自分ではない誰かに回される世界など嫌なはずなのに、自分の思う通りにはいかない。
 ――今だってそうだ。

「一度きりだと言ったはずだ。それで納得したのはお前だろう」

 一月後、再び式典を行うと聞かされて不快に思わないはずがない。
 それも前回のものよりも大規模だという。前のときでさえ、妙にひらひらとしたドレスに動きにくい高い靴、ごてごてと頭を飾りつけられて散々な思いをしたのだ。それに加えて、魔導師達の一件があった。
 あのあとどっと疲れがやってきて大変だったというのに、それをまたやるだなんて冗談じゃない。あのときだって一度きりの約束で出席した。
 ぎろりとエルクディアをねめつけると、彼は申し訳なさそうに目を伏せ、軽く頭を下げた。

「悪かった、シエラ。確かにあのときはそれでいいと思ってたんだ。嘘じゃない。……ただ、よく考えてみれば、神の後継者が参加する式典が一度きりだなんて、ありえない話だったんだ」
「随分と勝手な話だな。式典に出ることが神の後継者の仕事なのか」
「なら、魔物討伐に行ってきてくれるかい? それが君の『本職』だからね」

 笑顔だが、とても冷やかな口調だった。ユーリは法衣の胸元から折り畳まれた羊皮紙を取り出した。小さな文字が踊るそれには、地名らしきものがいくつも書き連ねてある。
 青年王の言わんとするところが少なからず分かり、シエラは口ごもった。

「一番近いところでルイドの町だけれど。ああ、ルイドというのは王都の隣だよ。時間もさほどかからない。数は多いが、『神の後継者』ならば問題ないだろう。さて、どうだい?」
「それは……」

 神の後継者とて聖職者の一人だ。魔物討伐がなによりも主体の仕事であり、こなさなければならない義務でもある。
 そういった話はユーリとしたばかりだ。

「これでも君に与える『仕事』は選んでいるつもりだけどね。それでは不満かな?」
「ユーリ! 棘のある言い方はやめろ」

 悔しかった。なにも言い返すことのできない自分が。つい今しがた責め立てていた相手に守られる自分が。
 なにもできないことが、ただただ悔しかった。
 ゆっくりと息を吐き、徐々に視線を上げてユーリをまっすぐに睨み据える。
 お前の意思など関係ないとでも言い出しそうな青海色の瞳を臆することなく見つめ、シエラは唇を噛み締めて言った。

「……分かった」

 言葉にすることができたのは、それだけだった。まだまだ言いたいことはたくさんあったはずなのに、他の言葉達は喉の奥の方でつっかえて声になりはしない。
 外に出てきたたった一言にユーリは当然とばかりに微笑み、エルクディアは困惑した表情を浮かべた。
 自分から言い出したことなのに、なんて顔をしているんだか。そう言ってやりたくても、声が出ることはなかった。



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