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「蒼の姫君。ちょっといいかい?」

 声を掛けられて振り返れば、ユーリがなにを考えているのか分からない笑みを浮かべて手招きしている。
 つやつやと光沢のある法衣が立てる衣擦れの音を聞きながら、シエラは窓辺から長椅子へと移動した。

「赤と緑、どちらの色がお好みかな?」
「緑」

 座ると同時に問いかけられ、考える時間もなく口が答えを紡いでいた。
 一体なんの質問だろうかと疑問に思ったのは、ユーリがもう一度似たようなそれを投げかけてきたときだ。

「では、緑と黄色は?」
「……緑。それがどうした」
「参考にさせてもらおうと思ってね。ありがとう。それにしても……緑、ねえ」
「悪いか」
「いいや、まったく。ねえ、エルク?」
「え? ああ」

 新緑の双眸が一度ぱちくりと瞬いて、よく分からないといった風体で頷く。一人楽しそうに笑うユーリにオーギュストは呆れまなこを向け、鈍かったり聡かったりと忙しい愛弟子に少しだけ同情した。
 そんなことなど露とも知らないエルクディアは、年にそぐわぬ面持ちで首を傾けている。
 やがて席を立ったオーギュストが、にこりともせずにシエラを見た。空色の瞳と視線が絡み合った瞬間、ぞくりと寒気が背筋を駆ける。
 長い棒を飲み込んでしまったかのように、シエラはぴんと背筋を伸ばして硬直した。
 退室しようとする老騎士に、礼を払って居住まいを正したわけではない。この体が感じたのは恐怖だ。
 一瞬肌を掠めたなにかに怯え、逃げようと仰け反った体が伸びきってしまっただけにすぎない。
 恐怖といっても、なにを恐れる必要があるのだ。相手はエルクディアの師匠で、この国を支える重要人物だ。決して敵ではない。
 もう一度自問する。

 一体なにに、怯えている?

 逃げるように視線を下げたシエラは、このときオーギュストがどのような目で己を見ているのかちっとも気がついていなかった。
 まるで傷ついた子猫を見るような、切なげに歪んだ眼差しを向けられていたことなど、これっぽっちも。

「エルク、陛下にはきちんと尽くすよう。それから無茶をなさらぬよう、お前からもしっかりと申し上げておけ」
「それで大人しくしてくれる王であれば、今頃ここにはいないと思いますけど」
「むう。それをなんとかするのが側近の役目じゃろうが。きりきり働け」

 長い外套の裾を綺麗に捌き、手縫いの革靴で足音も立てずに戸口へ向かう。
 扉を半分まで開いたところでオーギュストは足を止め、首だけで振り返った。

「式までにはその髪、括るなりなんなりしておけ。パルダメントゥムも忘れるでないぞ。騎士館の談話室に置きっぱなしにしておったぞ、馬鹿もんが」
「え? あ、そういえば……」
「なにが『そういえば』じゃ。では陛下と後継者殿に失礼のなきよう。――お二方、御前を失礼致しまする」

 パルダメントゥムとは身分や性別に関わらず用いられる半円形の織物のことで、両肩にかけて襟元で留めたり、左半身を包んで右肩で留めたりするものだ。
 騎士階級の男達には室内でも着用するのが礼儀とされているのだが、エルクディアを代表とする護衛を担う騎士達には動きやすさを重視するため、その着用を免除されている。
 出て行く間際、ほんの一瞬だけ交わった視線にシエラは小さく身震いした。
 それに気がついたユーリが、そっと彼女の肩に腕を回す。だがその感覚さえ分からないほど、意識は温度のないものによって支配されている。
 脳を直接氷付けにしたように、急激に頭から全身が冷えていった。「結局あの人はなにしに来たんだか」師匠の背中を見送りながらそう零すエルクディアの言葉でさえ、今のシエラには雑音と変わらない。

「オーギュスト殿は、キミに用事があったんだろう? ただでさえ色々と異質な若い愛弟子を、さらに奇異や偏見の目で見られるのは我慢ならないそうだ。愛されてるねえ、エルク」

 くるり。
 振り返った先の光景に、エルクディアは絶句する。

「……ああうん、それはいい。それは。よーっく分かった。それよりもなんでお前、シエラにべたべたしてるんだ」
「彼も素直に、エルクが心配だからと言ってくればいいのにねえ。肝心なことは最後に引っ張るだなんて、意外と奥手のようだ。いや、引っ張るどころか伝えきれていない――か。ぜひ奥方との馴れ初めが聞きたいものだ」
「そんな話はどうでもいいっ! 今すぐにその手を離せ、色呆け王が!」
「おやおや、つい今しがた『礼儀を払い敬い讃え崇め奉れ』と言われたばかりだろう?」
「誰が、いつ、どこで、そんなことをのたまった……!?」

 ははは、と笑い飛ばす無駄に整った顔に拳の二、三発ほどを叩き込みたい衝動に駆られるも、なんとか踏みとどまって腕を組む。そうでもしないと、手が柄に伸びそうだった。
 ユーリの女性に対する態度が軟派なものだということは、エルクディアは十分すぎるほど理解している。
 今に始まったことではないにしろ、神の後継者と謳われるシエラに手を出すことは赦しがたい。
 今の時代、昔ほど聖職者に対する規制や規約は多くない。むしろ、ほとんどなくなったといってもいいだろう。
 特に恋愛においては自由そのもので、交際はもとより、聖職者同士の結婚でさえ認められている。人の心は縛ることができないと、時の王が気づいたのかもしれない。
 そうはいっても、周りに女性を侍らしている聖職者というのもなんだか不謹慎な話である。
 ユーリが蒼い髪を指先に絡めてもシエラは身じろぎ一つしない。
 彼女の性格上それを感受するとは到底思えず、エルクディアは膝を屈めて顔を覗き込んだ。

「どうしたシエラ、大丈夫か?」

 不愉快すぎて動けないのか。そう問われた瞬間、急に意識が戻ったようにシエラの肩がびくりと跳ね上がる。
 まっすぐに向けられた眼差しに、ふにゃりと力が抜けた。かちこちに固まっていた体が一気に弛緩し、知らず知らずのうちに大きなため息を吐き出していた。

「なんでもない。気にするな」
「気にするなと言われても、美しい娘が憂う姿を見て気にしない男はいないよ。不安なことがあるのなら、ゆっくりでいいからお話し」

 ちゅ、と小さく音を立てて耳に口づけられ、そこで初めてシエラは己の状況を知った。
 かっと目を見開いて慌ててユーリから身を離し、温かいものが触れた耳朶を乱暴に拭った。残念だと言ってのける青年王からは微塵も言葉通りに思っているような様子は感じ取れず、罵倒のために開いた口からは声にならない吐息が漏れた。
 同時にゆうらり、と殺気じみた不穏な空気が立ち昇る。既に鞘から半分ほど剣を抜いているエルクディアが、満面の笑みで青筋をひくりと動かした。

「喜べユーリ。せめてもの恩情で一撃で終わらせてやる。首を出せ。もしくは即刻腹を切れ」
「腹を切れって……それは遠い東の国の風習だろう? そんな苦しげなものは遠慮しておくよ」

 第一王に腹を切れだの首を出せだの、物騒なことこの上ない。下手をすれば――いや、しなくても――これは十分謀反なんじゃないのか。大罪だよ、エルク。それも文句なしの。
 そうは思ってもユーリとてエルクディアを刑に処する気はさらさらないので、冷静そうに見えて普段は意外と感情的な騎士を適当に遊んで楽しんでいる。
 本人達がどう言おうと、それは互いの間に信頼関係がしっかりと気づかれているからこそ、可能なやり取りだった。
 生半な者ではどちらもが使えないと判断し、一線を引いて接したことだろう。異なる身分でありながら、同じ舞台に立って対等に言葉を交わす二人。
 けれどそこには確固たる主従関係が存在している。
 懲りずに舌戦を繰り広げる二人を見ていると、今まで冷え切っていた心臓がゆっくりと溶けるように温まっていくのが分かった。
 心の奥底にずしんと落ちてきた錘は、いつの間にやら姿を消している。
 わずかばかり残っていた恐怖や不安と言ったものをため息と共に吐き出し、シエラはゆっくりと目を閉じた。



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