1.ルーナ [ 19/22 ]

*腿にキス


 触れられてはいない。
 指一本、髪一筋でさえ。
 ――それでも、私は貴方に恋をした。


 夜の海に月が浮かぶ。
 穏やかな波に身を任せていたルーナは、海面に寝そべったまま夜空を見上げていた。豊かな青緑の髪が波に攫われ、ゆうらりと揺れている。時折からかうように魚がつついてくるけれど、窘める気にはならなかった。
 海神の守護するディルートの海は水気に溢れ、花の香りがして心地がいい。全身を満たす清らかな神気を感じながら、ルーナは尾鰭で水を跳ね上げた。星明かりを受けて雫が瞬く。
 白い肌は、臍の下からが魚のそれによく似ていた。髪と同じ青緑の鱗が並ぶ下半身は生まれたときから親しんでいるものであったし、海の中を自在に泳ぎ回ることのできる身体を不自由に感じたことなど一度もなかった。尾鰭を持たない人間が可哀想だと思うこともあったのに。
 目を閉じれば、胸の内に歌が響く。何度歌っても声は消えない。思いは消えない。薔薇の香りが色濃くなって、そのたびに茨の鎖に胸を締めつけられて涙が溢れた。零れた涙は青い宝石へと変わり、海の底へと沈んでいく。
 せめて、あの人に届けばいいのに。
 人間がこの石を好むことくらい知っている。ホーリーブルーと呼ばれる人魚の涙は、この国の人間が最も愛する石だった。
 ――貴方が望むのなら、いくらでもあげる。
 そんな呟きすら届かない。
 一度ざぶんと深く潜って、ルーナは頬を伝う雫を誤魔化した。結晶化した涙が星屑のように流れていくけれど、それに気がついたのは夜の海を泳ぐ魚達だけだ。夜色の海を泳ぐ。鯨の歌が聞こえた。あぶくの昇る音がした。どこか遠くで、別の人魚が歌っている。
 再び海面に顔を出したルーナは、震える唇で歌を紡いだ。遠くに見えるディルートの明かりが、この歌で揺れればいい。

「貴方、想う」

 この尾鰭が、最初から人間と同じ二本の脚だったなら。
 ――ああ、でも駄目ね。そうしたら、貴方とは出会えなかった。
 打ち上げられた哀れな人魚を助けてくれた薔薇色の男は、最初から人間のルーナになどきっと見向きもしないだろう。それでも、夢を見る。もしもこの足が、あの人の隣を歩めるものだったのなら。
 陸に上がれば、人魚の尾は自然と人間のそれになる。ある程度の神気を宿した人魚にならば可能だ。ルーナもそれは例外ではなく、一度姿を転じてみせたことがあった。二本足で見た人間の世界は、近くて遠くて、どこか歪なように見えた。
 薔薇色の髪が近かった。灰の瞳が近かった。ただそれだけで幸せだった。
 恋を知らない人魚の心は、初めて触れた異性に囚われる。だからむやみに触れることはできなかったし、事実彼はどこにも触れていない。
 どこにも触れられることはなかった。
 指一本、髪一筋でさえ。
 彼が触れたのは、ルーナが零した涙だけだ。

「人魚、歌う、永久に」

 触れられていないのに、恋をした。
 どうして。ねえ、どうして、貴方は私を捕らえることができたの?
 貴方の目が好き。だってその目は、とても綺麗。
 貴方の声が好き。だってその声は、私を呼ぶ。

 貴方が好き。
 だって貴方は、私を見つけてくれた。

 地上に咲く薔薇は、決して海の中では見られない。海を愛し、海に愛された王子の傍で咲き誇る、気高い薔薇の花。ルーナが出会ったのはそんな男だった。
 真珠でも青い宝石でも、なんでもあげる。この声が欲しいなら、この髪が欲しいなら、この鱗が欲しいなら、全部あげる。涙でもなんでも。水の中でも苦しくないように、キスをあげる。海の祝福をあげる。
 なんでもあげるから、だから、――だから。

「……貴方、想う」

 夢を見る。
 もう一度二本の足で彼のもとを訪ねたルーナに、優しく微笑みかけてくれる夢を。
 海の中を飛ぶように泳ぐことはできない足をあの手がゆっくりと撫でて、そして優しくくちづけてくれる。落とされた唇に宿った祝福は、きっと素晴らしい魔法をかけてくれるだろう。足はもう尾鰭に戻ることはなく、そのまま一生、彼の隣を歩む術を与えてくれる。
 不思議な感覚だった。足の裏が砂を踏む感覚は、手のひらで味わうものとはまったく違っていた。走ったらどうなるのだろう。人間が好むあの綺麗な靴を履いたら、灰の瞳にもっと近づくことができるのだろうか。
 美しいドレスだって着られる。酔った船乗りたちが語って聞かせた“舞踏会”にだってきっと行ける。足があれば。足さえあれば。白くすべらかなその腿に、薔薇色の唇が祝福を施してくれたのなら、きっと。

「……夢、見る」

 そんな夢を、見る。
 顔を覆った手のひらの隙間から、いくつもの青い宝石が零れ落ちていく。
 この石が海底を埋め尽くせば、ディルートの海はより青く輝くのだろうか。そうすれば、彼は喜んでくれるだろうか。彼はこの海をとても気に入っていた。どこまでも続く青が好きだと言っていた。――この涙が溶けた海を、好きだと。
 どれほど歌っても、この想いは枯れない。いつまでも消えてはくれない。失った痛みは、絶えることなくルーナを苦しめる。海を埋め尽くすほど泣いたら、彼はもう一度ルーナに目を向けてくれるだろうか。「仕方のない人ですね」と、呆れたように笑ってくれるだろうか。

 もしも私に足があったら、どうかその腿にくちづけて。
 薔薇色の祝福を下さい。
 


 そんな夢が、人魚の心を支配する。



(腿へのキスは、支配のキス)
(2014.0923)

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