1.ツキシロと月乃女 [ 17/22 ]

*腹にキス


 傍らで眠るユキシロの毛並みを、そっと撫でる。夜風にそよぐ純白の被毛は、それこそ雪のように美しい。本来の狐姿で丸まって眠る片割れは、触れられたところで起きそうにもなかった。人型に変化しているツキシロの手に馴染む毛は、滑らかで触り心地がいい。
 静寂の中、風が歌う。虫の声が耳を癒し、時折聞こえる夜鳥の鳴き声が時刻を告げた。浮かぶ月は大きく丸い。一際大きく風が鳴いたと思えば、刺さる神気が濃さを増した。一瞬で目の前に降り立った銀毛四尾の巨大な天狐に、知らず知らずの間に目元が和む。

「帰ったか、母上」

 こびりついた血の気を払うように神気を強め、天狐月乃女は一本一本が野狐の胴体ほどもありそうな四尾をひょんと振った。鳥居の上に降り立つには元の姿よりも人型に変化した方が楽なのか、流れるような銀髪の女人へと姿を変える。その長い爪にこびりついた肉片を弾いて飛ばし、母は眠るユキシロへと金の双眸を向けた。

「我が神気を浴びてもなお、それは眠り続けるか」
「安堵しきっておるのであろう。慣れ親しんだ母上の気ゆえ」
「なれどそれは、力を持たぬか弱き狐よ。不用心にもほどがあろうて」

 すうすうと寝息を立てるユキシロは、それでも目覚める気配がない。腹の辺りを撫でさすっても、小さく身じろぐだけだ。

「お前は母を出迎えたというのに」
「もとより眠っておらなんだ。ゆえ、」

 そこから先の言葉が続かない。だからなんだというのだろう。もともと眠っていなかった。だから出迎えた。それだけだ。わざわざ言葉にすべきことでもない。
 口を噤んだツキシロは、沈黙を誤魔化すように片割れを撫でた。触れ合っていると、重なり合った場所から互いの気が行き来する。血を交わらせることには劣るが、じんわりとした霞のようなやり取りは嫌いではない。
 一つが分かれ、二つになった。けれど二つは一つに戻れない。ツキシロは一匹でツキシロとして存在しているし、ユキシロも同じだ。同じものであったのは、すべてが始まろうとするその瞬間だけだ。
 胡坐を掻く月乃女の薄い腹を見やり、母親譲りの銀の睫毛を震わせる。ふと視線が絡み合った瞬間、すべてを見透かされているような気がしてどくりと心臓が跳ねた。
 絶大なる力を持つ天狐の血。己の中にも確かに流れるそれが、目の前のより強大な力にひれ伏している。ツキシロの意思など関係なく、親子の情など関係なく、ただただ強さに従う。血の湧く音を聞きながら、吸い込まれるようにして月のような双眸を見つめていた。

「――“ツキシロ”」

 その名が、血を縛る。
 一瞬にして変化が解かれた身体は、人の子のそれではなく鮮やかな銀毛の九尾のものになっていた。いずれこの尾も数を減らし、母と同じく四尾になるのだろう。そしてそのとき、自分は天狐族の長となる。
 導かれるままに月乃女のもとへ歩を進めた。足の先に狐火が灯り、支えなどない空を歩く。母の前に脚を折れば、褒美だとでも言うように頭を撫でられた。そこから伝わる、痺れるような強い神気。まだ心地よさよりも痛みの勝るそれは、やがてツキシロが得なければならないものだ。
 前足の付け根に腕を差し込まれ、ひょいと抱き上げられた。まるで犬猫のような扱いだが、相手が母ならば不快にはならない。どうやら今宵は甘やかしたい気分らしい。大変珍しいことなので若干の困惑も覚えつつ、ツキシロは寄せられた頬に舌を這わせた。

「堕ちた狐を狩ってきた」

 ツキシロの顎の下を撫でながら、月乃女は笑った。

「力なき狐よ。そのくせ、人の子に唆されて墜ちよった。いいか、ツキシロ。力持たぬゆえにあれが墜ちれば、狩るはお前の役目ぞ」
「……承知しておる」
「そして、力持つがゆえにお前が墜ちれば、我が狩る。我らが天狐の名を穢す真似は許さん。よう覚えておれ」
「われを狩るは、ユキではないのか」
「あれにはちと荷が重い。月落としに負わせるには酷だろうて」

 ツキシロとユキシロが牙を交えれば、確実にツキシロが相手を食らい尽くす。いつだって屠れる。今この瞬間に、穏やかに眠る片割れの首を掻き切ることも可能だ。しかし、母はそれを許さない。
 生まれ落ちてくる前よりそう定められていた。この腹の中にいる頃から、力の差は歴然だった。月の光を浴びるよりも早く、食ろうていたらどうなっていたのだろう。時には異世にすら渡る天狐といえど、時の流れを遡ることは不可能だ。
 何度も思い、己に問うたが、毎度毎度答えは出ない。銀毛を梳く母の手が心地いい。時折鋭い爪が肌を引っ掻くけれど、血が滲むほどではなかった。

「――母上」
「うん?」

 自ら擦り寄って、真珠を練り込んだように輝く純白の衣の上から、腹に鼻先を寄せた。ぺろりと舐めれば、頭を撫でる手が止まる。見上げた月乃女の顔は、珍しく――本当に珍しいことだが――“母”の顔をしていた。

「われが墜ちた折には、食ろうてくれるか」
「そうさな、それがお前の望みならば」

 ――ああ、それならいい。
 この腹に再び還ることができるのなら。



 たとえこの身墜ちようとも、今一度、溶けあえるのなら。



(腹へのキスは、回帰のキス)
(2014.0524)


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