1.フェリクスとソランジュ [ 15/22 ]

 追うな。見るな。聞くな。もう近寄るな。
 どれほど突き放したところで、一度なついた子犬は頑なに後ろを追いかけてくる。
 突き放し方が甘いのだと、他でもないもう一人の自分が耳元で囁く。うるさい、お前のような大男に耳元で囁かれたところで、なんの得にもなりやしない。幻影を振り払うように腕を振り、絡みつく甘い香りを薙ぎ払った。
 どうしてそこまで追いかけてくるのか、問えば問うだけ後悔することが目に見えている。理由なんて聞きたくもない。聞けば、聞いただけ迷うのだ。
 ひたむきに、愚かなまでにまっすぐに、あの子犬は自分だけを追いかける。やめてくれ。情けなくもそう懇願したくなった。
 この手は血を呼び、命を奪う。あの子犬の細腕は、血にまみれた上で命を救う。
 正反対の手を持っている。自分の手が血で染まることを嘆く日は、もうとうの昔に過ぎ去った。今となってはそれは当然のことで、他者の血を浴びた己の姿を見たところで心はぴくりとも動かない。
 それなのに。――それなのに、あの馬鹿は。

「先生! なっ、その血、どうしたんですか!? どこを怪我したんですか!? 待っててください、今、包帯をっ」
「待て待て待て。よく見ろ、返り血だ。俺は怪我してねーよ」
「返り血……?」
「おーう。なんか城下で通り魔が出たって話でな。ちっとやり合ってきた」

 六人もの老若男女を殺害している凶悪犯ではあったが、所詮は素人だ。フェリクスの手にかかれば一瞬で片はついたが、斬りかかる直前、向こうが中途半端に足を滑らせたせいで目測が誤り、首をすっぱり切り落とすはめになってしまった。大剣が持つ自重にフェリクスの力が加わり、刃はいとも簡単に肉を破り、首の骨を断ち切った。噴き上がる鮮血が目の前を覆った。鉄の臭いが頭から降りそそいだ。熱い血潮は、今の今まで体内を駆け巡っていた証だった。
 本来なら、肩を斬りつけて取り押さえ、役人に引き渡す予定だったのだ。取り調べもなにもなく犯人を斬り殺してしまったフェリクスに、役人達は口を揃えて罵倒した。あまりの小言にうんざりして帰ってきたらこれだ。
 べっとりとした返り血が全身を汚す様は、さぞかし悪夢のような光景だろう。誰にも会わずに騎士館の浴場で汚れを落とすつもりでいたのに、勉強熱心なこの医官見習いは、こんな時間まで医務室で書物と逢引きしていたらしい。廊下でばったり出会ったのが運の尽きだ。今日はことごとくついていない。
 空色の瞳が、じんわりと潤んで見上げてくる。そこには恐怖でも不安でもなく、無事を聞いて安堵の色が覗いて見えた。先ほどちらりと鏡で確認した己の姿は、幽霊の類も裸足で逃げ出すだろう風貌だったというのに、それを見て安堵するとはやはりこの子犬はどこかおかしい。
 おかしいからこそ、こんな目をするのだろう。

「見てのとーり汚れてっから、風呂入ってくるわ。じゃーなー」
「あ、待ってください! 本当に怪我してないんですか!? 先生、すぐに嘘つくから」
「してねェっての。なんなら、一緒に風呂入って確かめっか?」

 聞かん坊に対する意地悪だった。
 熊のようだと揶揄される男臭い顔を近づけて、フェリクスはにっと歯を見せて笑った。右の目尻から顎に至るまで、顔の半分を鉄臭い色が覆っているはずだ。
 そんなおぞましい顔を近づけられても、ソランジュは怯んだ様子などちらとも見せず、ほんのりと目元を赤らめる。彼女の睫毛がふるふると震え、そして、遠ざけるために放った牽制に向かって、好機とばかりに食いつかれた。

「――はい」


* * *



「いや、あのな、確かに俺ァ『一緒に入るか』とは言ったがな、嬢ちゃん。本来の目的忘れてねェか。なあ。それでどうやって確かめんだ」
「き、気合です!」
「アホか。お前アホだろ」
「せっ、先生に言われたくありません!」

 顔を真っ赤にさせながらさりげなくとんでもなく失礼なことを言い放ったソランジュは、フェリクスとは真逆の方向を見ていた。
 栗色のふわふわとした髪は、今はまとめられることなく、背を、胸を、柔らかい曲線を描きながら飾っている。晴れた日の青空を思わせる鮮やかな空色の双眸は、今は見る影もなかった。その目元には、白い包帯がぐるぐると何重にも巻きつけられているからだ。
 湯で身体を洗い清めるフェリクスのすぐ近くに立ってはいるものの、目隠しをしたソランジュは落ち着かない様子でそわそわと両手の指を遊ばせている。
 足元が濡れないようにと、彼女はこの短時間でスカートに履き替えてきたようだった。白いふくらはぎが視界の端に映り込む。
 そんなに居心地悪そうにしているのなら、どうして来たのかと言ってやりたい。それは視線だけにとどめたが、おそらく彼女には伝わっているだろう。だからこそ余計に子犬はその身を震わせる。伺うように、探るように。
 頭から湯を浴びるたび、透明な水は赤く染まって流れていった。水のすべてを染めるのではなく、糸のように赤い渦を巻いて、じわじわと塗り替えていく。流しても流しても、赤は消えない。いったいどれほどの血を浴びたのだろう。
 赤く汚れた水が、ソランジュの足元まで広がっていく。それを見て、フェリクスは桶で掬った湯を彼女の足元へ投げかけた。

「うひゃっ! な、なにするんですか!」
「オーイ、あんま暴れんなよ。こけたらケツ打っちまうぞー」

 一通り汚れが落ちたのを確認して、フェリクスは湯船へと巨躯を沈めた。動いたあとはこうして湯に浸かる方が癒される。ほうっと吐いた息が辺りに反響する。
 その気配を感じ取ったのだろう。一歩一歩、滑るようにゆっくりと湯船に近づいてきたソランジュが、フェリクスの一人分ほど隣に顔を向けて首を傾げた。
 あれほどまっすぐに向けられる視線が、今はこんなにも外れている。見えなければ追えないのだと、こんなときになって初めて気がついた。
 あれだけ追いかけてくるくせにか。それなのに、目隠し一つで見えなくなるのか。

「せんせ、本当に怪我、してませんか?」
「オイオイ嬢ちゃん、自分で確かめるんじゃなかったのか?」
「だから今確かめてますっ!」
「へーへー。言ったろ、してねェよ」

 白い足が、目の前にある。
 湯船に浸かるフェリクスの目線の高さからでは、スカートの中が見えてしまいそうだ。――見えたからといって、どうってことないけれど。
 何度もしつこく怪我の有無を聞かれて、根気よく「してねェって」と答えていくうちに、ソランジュもようやっと納得したようだった。その口元が綻ぶ。目は包帯が隠してしまっているけれど、きっとその目元も緩やかな弓なりにしなっているのだろう。
 もう何度も見たその笑みは、直接見ずとも容易に思い描けた。
 この手が誰かの命を絶つ瞬間の感覚を思い出すのと同じくらい、簡単に。

「私も、足だけあったまろうかな……」
「なら隣の浴場に行ってこい。それ以上こっちくんなよー、落ちっぞー。分かったら、ほれ、回れー右っ」
「お湯沸し直さなきゃいけないじゃないですか、それ。あんな大きなお風呂、私一人じゃできませんよ。目隠ししてるんだから、ちょっとだ、けぇっ!?」
「――オイ!!」

 なにを思ったのか、ソランジュはその場から一歩踏み出した。小さな足は床を踏み締めることなく、揺れる水面を踏んだ。人の身体がそのまま水の上に踏みとどまれるわけもなく、ずぶりと片足を飲まれて身体が傾ぐ。
 すぐさまフェリクスも立ち上がったが、広い湯船の中では水の抵抗によって俊敏には動けない。派手な水音を立てて湯船に尻から沈んだソランジュの腕を引っ掴み、慌てて引き上げた。頭の先から足の先までずぶ濡れだ。ふわふわとしていた髪も、今はべったりと頬や首筋に張りついている。

「ほらみろ、言わんこっちゃねェ!」
「げほっ……、びっくりしたぁ……!」
「あーあー、こんな時間にずぶ濡れになっちまって。どうすんだ、風邪引いてもしらねェぞ。シクレッツァに嫌味言われても俺のせいにすんなよ。俺ァ止めたんだからな」
「わ、分かってます! すぐに着替えてくるから、大丈夫でっ――!」
「だからむやみに動くなつってんだろ! 学習しろ!」

 またしても転びかけたソランジュの腕を掴んで支え、フェリクスは盛大に溜息を吐いた。濡れた包帯が張りつく瞳がこちらを見上げている。この白い布の下がどんな目をしているか、見えるはずもないのに見えてしまって嫌になる。
 勢いのまま怒鳴りつけたというのに、彼女は怯えてなどいなかった。ただ、叱りつけられた子犬のようにしょぼくれているだけだ。
 掴んだ細い手首から肘に向かって、雫が伝う。その細腕に、濡れたシャツが張りついていた。心配になるほど細い身体の曲線が露わになっている。透けた肌の色は、血の色が映えるだろうほど白い。
 ほどよい肉付きの太腿に、スカートが絡んでいた。頭から水を滴らせ、身体の線を浮かび上がらせ、視力を封じた状態で、この子犬は裸の男と一緒の湯船に浸かっている。
 馬鹿だろう。そうでなければ阿呆だ。まったくもってなにを考えているのか分からないし、分かりたくもない。

「せんせ?」

 そんな甘い声で呼ぶな、頼むから。
 いくら風呂場とはいえ、予期せず濡れたせいかソランジュがぶるりと身震いした。「き、着替えてきます」今度は慎重に動かそうとした足を、湯の中で軽く払ってやる。素っ頓狂な悲鳴を上げて傾いたソランジュの身体を難なく受け止めて、フェリクスはその場に胡坐を掻いた。
 水面が揺れる。ソランジュの髪を攫って、ゆらゆらと栗色の波を広げている。鍛え上げた裸の胸に、濡れた衣服の感触が擦れた。

「へっ、あ、あのっ、先生!?」
「きゃんきゃん騒ぐな、響くだろーが。このままじゃ危なっかしくて見てらんねェよ。ちっとあったまってけ」
「え、でもっ、この体勢は、その……」
「どーせ見えてねェだろ、我慢しろ。それとも見えてんのか?」
「見えてません!」
「ならじっとしてろ、また転ばれても困っからな」

 俯いたソランジュの腹に腕を回して、しっかりと膝の上に抱き上げた。素肌が触れ合う。スカートがふわりと漂うのは見ないふりをした。
 どうやら彼女はひどく落ち着かないらしい。腹に回した腕にまで伝わってくる心拍の速さに、どうしようもないと苦笑する。
 小さな後ろ頭に、きつく結んだ包帯の結び目がある。今これをほどいてやったら、彼女はどんな顔をするのだろう。結び目を軽く噛みながら、そんなことを考える。きっときゃんきゃん吠えて、そうしてあの小さな手で目を覆う。それから慌てて逃げ出そうとして、またすっ転ぶに違いない。
 そこまで想像して一人笑っていると、腕の中で身じろぐ気配がした。距離感など把握できていないソランジュの鼻先が、フェリクスの顎にぶつかる。

「あっ……、っ! あの、せんせ、私、そろそろのぼせそうです」
「うそつけ、女の風呂は長ェだろ」
「……誰と比べてますか」
「一般論だ」

 包帯越しに睨まれているのが分かって、小さな頭に顎を乗せた。返ってくるのは文句ばかりだ。そのくせ声はひどく甘い。くぅんと鳴きながら指先を噛んでくる子犬と一緒だ。
 ゆらり揺れる湯の中で、布越しに触れ合う胸と背。それとは対照的に、素肌が触れ合う足と足。膝の上に乗る柔らかい感触は、自分のものとは大きく異なっている。
 ここに空はない。あるのは浴場の端に備え付けられたランプの明かりと、窓から差し込む月明かりだけだ。夜空は闇をもたらすばかりで、青空をすっかり隠してしまっている。薄暗いこの場所で、早鐘を打つ胸はなにを秘めているのだろうか。

「……えと、あの、せんせ、けが、してませんか」
「またそれか。してねェっての」
「だって」

 いつもうそばっかりつくんだもの。
 どうしてそこで急に舌足らずになる。本当にのぼせたのかと思うほど、ソランジュの頬は赤く染まっていた。耳や首まで赤い。
 嘘ばかりつく。ソランジュはそう言って、フェリクスを甘く責め立てる。彼女が引っ掻いた水面が、静かに水音を奏でた。
 それも仕方ないのかもしれない。自分は確かに、彼女にずっと嘘をついてきた。
 大怪我をしているくせに、掠り傷一つないと言って誤魔化したこともある。骨が折れているのにその場で飛んで見せたこともある。ちょっと出かけてくるだけだと言って、何ヶ月も戻らない遠征に出かけたこともある。
 自分は前科がありすぎた。
 だが、今回ばかりは無実だ。

「嘘じゃねェよ。ほれ、ピンピンしてっだろーが」
「口だけならなんとでも言えますっ」

 それなら自分の目で確かめてみればいいだろうに、ソランジュは頑なに目隠しを取ろうとしない。
 まるでそれが、ここにいるための免罪符であるかのように、頑なに。
 小さな手を、湯の中で捕まえた。柔らかい湯が擦り抜ける。薬草を入れているから、ほんのりと香る草の匂いが心地いい。「えっ……」惑う声はそのままに、フェリクスはその小さな手のひらに唇を押しつけた。
 空色の瞳は、見えない。
 見えないのだろう。ソランジュが嘘をついていないのなら、彼女にはなにも見えていないはずだ。
 血にまみれて命を救うその手に、命を奪ったことを「仕方ねェだろ」と吐き捨ててきたばかりの唇を寄せたまま、フェリクスは静かに笑った。

「信じてくれよ、嬢ちゃん。これじゃあのぼせちまう」

 この身に浴びたのは他者の血だ。
 か弱い女子供なら怯えるだろうその事実に、ソランジュは安堵したように笑う。
 そのことが、なによりも恐ろしい。

「……仕方ないから、信じてあげます」

 追うな、見るな、もう聞くな。
 もう、近寄るな、頼むから。
 お前の手は血に濡れてもなお、消えゆく命を掬い上げる手だ。救う手だ。
 彼女が救う傍らで、力に任せて奪うことに、ためらいはない。そこに嘘はない。――けれど、この子犬の感覚が恐ろしい。

「……ああ、そうしてくれ。よし、嬢ちゃん。もちっとしたら出るぞ。こけんなよ」



 どうかお前は、命を救えたことに笑ってくれ。



(掌へのキスは、懇願のキス)

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