1.レティシアとアマーリエ [ 14/22 ]


 人ではないレティシアの耳は、小さな物音も余すことなく拾い上げることができる。滑るような足取りで階段を上ってくる人物が誰か、彼女にはとうの昔に分かっていた。
 頭の高い位置で二つに結われたアプリコット色の髪が先の尖った長い耳を上手く隠していたが、吹き込む強い風に煽られればひとたまりもない。露わになった魔女の証に、扉を開けた人物が小さく笑った。ともすれば掻き消されてしまいそうな小さな笑声だったが、尖った耳がそれを聞き漏らすことはない。
 しゅるり。衣擦れの音が響く。
 塔の最上階、その窓に外に足を投げ出す形で腰かけていたレティシアは、首だけで室内を振り向いてにんまりと唇で弧を描いた。

「アマーリエさま、ゲートさまがおられませんわぁ」

 ベスティアの第六公子ゲルトラウト・バウアーの私室は元より物が少なかったせいでよく分からないが、彼の部屋は現在もぬけの殻になっている。必要最低限の着替えと食料は持って行ったのか、部屋にあった大きな鞄が姿を消していた。机の上には書置き一つない。いつもふらりとどこかへ出かける青年ではあったけれど、今回ばかりは長期の外出になることが雰囲気から予測された。
 その理由は誰も分からない。おそらく彼は、誰にも告げていないだろう。門兵にも「ちょっと出かけてくる」とでも言っているに違いない。重要視されていない公子の外出など、今のベスティアではその程度で済まされる。
 長いドレスの裾を捌きながら、優雅な仕草でアマーリエはレティシアの隣に立った。窓から庭を見下ろす視線に、息子の不在に対する焦りや怒りといった感情はこれっぽっちも見受けられない。
 そんなものがちらとでも映れば、レティシアはきっと腹を抱えて笑い転げていたのだろうけれど。

「そのようね。ルーイ公子もおられないのでしょう?」
「ええ〜。お二人揃って、この宮殿からドロンされましたわ〜。でもぉ、わたくしはてっきり、アマーリエさまのお考えあってのことなのかと〜」
「いいえ。私はなにも。探しに行ったのではないかしら。あの子達なりの真実を」
「それはそれは、大変な旅路になりそうですわ〜」

 ふわりと浮かんだ笑みが嘲笑であると気づける人物は、この国全体を探しても片手で足りるほどだろう。目の前のアマーリエは数少ない一人だ。
 ベスティアの第五妾妃アマーリエは、どこから見ても特に秀でたところのない凡庸な女だった。見目の美しさも中くらい、貴族としての地位の高さも中くらい、王から受ける寵愛も中くらい。突出する個所のない五番目の妾妃は、十人並みの相貌でぞっとするほどの色気を醸し出す。闇に浮かんだ笑みのあでやかさに、気がつけばレティシアは喉の奥で笑っていた。
 あの二人の公子は、王位をめぐって日々繰り返される陰惨な謀略から逃げ出すべく、この宮を出たのだろうか。――いいや、逃げられるとは思ってもいないだろう。だからこそ、彼らは二人で行動している。
 哀れな公子。あまりの愛おしさに、胸の奥が引き絞られるように痛んだ。特にゲルトラウトなどは赤子の頃から知っているから、余計に感慨深い。
 この腕の中で泣き、笑い、常に最善の道を歩むように刷り込まれ、豪華絢爛な光り輝く世界の裏で血と泥にまみれた真実を見、そうして黙ることを美徳とした――そうせざるを得なかった――可哀想なゲルトラウトは、あの瞳に絶望を切り取るべく外に出たのだろうか。

「ゲートさまが目指されたのは、アスラナでしょうか〜?」
「どうかしら」

 アマーリエは壁に掛けていたタペストリーの歪みを直し、静かに微笑んだ。

「ねえ、レティシア。アスラナは本当に不思議な国ね」
「と、言いますと〜?」
「あの国の“神”とはなにかしら? あの国は神に愛された国として聖なるかなと謳っておられるけれど、本当にそうなのかしら」

 吹き込む風にアマーリエが目を細めたのを見て、レティシアは窓枠から飛び降り、窓を閉めた。途端に室内がしんと静まり返る。

「聖職者という存在は、とても美しいわ。皆が皆アスラナに集まり、魔物と戦うことを至上の使命とする。銀の聖なる輝きが、闇を祓う。――まるでおとぎ話ね」
「聖職者の出生率は、アスラナが世界一ですもの〜。自然と教育にも特化しますわ〜」
「そうね。ふふっ、どうしてアスラナなのかしら」
「まあ〜、アマーリエさまは聖職者事情にもご興味がおありなんですの〜? なんだか意外ですわぁ〜」
「ええ、とても興味深いわ。だってそうでしょう? あの国の王様は聖職者なんですもの。大いなる力で民を守り、導く者。常人では太刀打ちできない魔物を屠る力を持つ者。素晴らしい国ね。神の後継者も、あの国に生まれた」

 音もなく椅子に腰かけたアマーリエは、読みかけの本を膝に置いて燭台を引き寄せた。炎が揺れる。壁に浮かんだ影が一度大きく揺れ、すぐに小さくなった。

「ねえ、レティシア。あの国は本当に、神に愛されているのかしらね」

 神に愛された国、アスラナ。
 清廉な銀の輝きが魔を祓い、蒼の光が清浄をもたらす。人々に希望を与え、悲しみから救う。
 神の後継者は救済そのものだ。
 誰もがそう信じている。

「魔女の身としては、あまり大きなことは言えませんけれどもぉ〜」

 神の愛した幻獣と人との間に生まれた存在は、清らかな血を引いていても人々から異端として遠ざけられる。
 エルフを祖に持つ人間とユニコーンの間に生まれたレティシアは、もう数十年この姿を保ち続けていた。今の自分が何歳なのかを数えなくなったのも、随分と昔の話だ。
 ここは魔女であるレティシアにとって、とても過ごしやすい場所だった。
 ここには、人でありながら人の道を外そうとする獣が溢れている。

「“神”の寵愛なんて、わたくしは欲しいとは思いませんわぁ」
「もらえるものはもらっておけばいいじゃない。そうではなくて?」
「重たい鎖に手足を縛られるのはごめんですもの〜。アマーリエさまも、そうでございましょう〜?」
「あら、いやだわ、レティシア」

 窓辺に立つレティシアに向かって、アマーリエはたおやかな腕をすっと伸ばした。肌荒れを知らない指先が、まっすぐにレティシアを指さす。
 とくりとくりと脈打つ胸の上を。人とは異なる血を吐き出す心臓を、はっきりと。
 掴まれたのかと思った。触れられてもいない華奢なその指に、きつく掴まれたような錯覚を確かに覚えた。詰まった息を誤魔化すように、細く長く息を吐く。
 誘われるようにレティシアは歩を進め、自然とアマーリエの傍らに片膝をついていた。ひんやりとした手に頬を撫でられる。猫でも撫でるような手つきでレティシアを撫でたアマーリエは、目元を和ませて言った。

「私なら、相手が神であろうと鎖をかけてみせるわ。――それがそのときの最善の道ならば」

 この女は、本当に人の子か。
 顎を掬われて見上げる形で、レティシアはその瞳の奥をじっと見つめた。胸を満たすのは歓喜だ。どこまでも先の見えない深い闇の中を歩むのは、本当に心地がいい。
 冷えた手を取り、年相応のしわが刻まれた手の甲にそっと唇を押し当てた。頭上でアマーリエの笑声が漏れる。小さなそれは、燭台の炎すら揺らさない。

「その際は、このレティシアがお傍に」

 ――人の世は、本当に興味深い。
 ベスティアの地で、魔女が笑った。



(手の甲へのキスは、尊敬のキス)


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