1.ソランジュとフェリクス [ 12/22 ]

 風が嗤った。
 泥が跳ね、蔦を引きちぎり、肉を削ぐ。どこかで首の落ちる音がする。血が沸く。眼前が赤黒く染まり、獣の咆哮が噛み締めた唇の隙間から漏れ出ていく。あちこちで湧き立つ男達の薄汚れた奇声、悲鳴、歓声。
 腰を捻り、勢いのままに振り回した剣先が猪のような風貌の男の腹を抉った。斬るというよりは叩きつける剣戟に、男はぐおっと鳴いて抉れた腹から臓物をはみ出させ、どうと倒れ込んだ。絶命するまでの僅かな間、恨みがましげに睨み上げてくる視線とかち合う。頭蓋を踏み砕き、狂ったように雄叫びを上げる第二陣に剣を構えた。
 唇に浮かんだ笑みは、とてもじゃないがか弱い女子供には見せられないと思う。しかしそんなことを考えていられるのは戦いの前後くらいで、最中は女子供のことなど頭の片隅にも残らない。
 頭を、そして身体を支配するのは、ただ一つ。
 剣を取り、命を奪い合うこの戦いに、正義などない。勝てば正義。生き残れば正義。正義を振りかざし、相手を屠る。その感覚に酔い痴れたら最後、正義を騙るだけの獣に堕ちる。だが、正気のままではいられない。どこまで理性を残し、どこまで狂気に染まるか。一歩でもどちら側かへ踏み込めば己が保てなくなる境界線を歩む感覚に、胃がぞわぞわと喚き立てる。
 獣道を駆け、大木の裏に回り込んで勢いのまま腰をかがめた。案の定、立っていた胸の位置に矢が放たれる。矢は頬を掠めたが、傷口の痺れはない。今度の敵は毒矢を用いなかったようだ。
 山中ならば自分達に地の利があると踏んだのだろうか。討伐対象となっている山賊達は、仲間を散らす騎士達の姿に怯えながらも白旗を上げる気配は見せない。高台を利用し、矢を放ち、石を放つ。木々の上ならば剣は届かないとでも思っているのだろうか。

「サイラァアアアアアス!!」

 腹の底から叫んだ。
 地を揺るがすそれは、まさに獣の雄叫びだ。
 それを受けて風が嗤う。茂みから飛び出してきた影に、フェリクスはためらいなく己の背を貸した。軍服の背を泥が汚す。重みは感じない。あまりにも軽やかに駆け上がったサイラスは、しなやかに跳躍し、枝を掴んで枝の上へ降り立った。
 ほんの一瞬の悲鳴。肉を斬った独特の音に遅れて、血の雨が降る。

「サイラス! 弓は忘れてねェだろォな!」
「もちろんっすよたいちょー。上は任せてくださいなーっと」
「味方に当てやがったら頭カチ割るから覚悟しとけよ」
「ははっ、やだなーたいちょー。そんなヘマするわけないっしょ? わざとじゃない限り、ね!!」

 軽口を叩く合間にも矢は放たれ、あちこちで射手が落ちていく。
 力自慢の斬り込み隊で知られる十番隊アスクレピオスには、たった一人異質な男が籍を置いている。目立つことこの上ない金髪を染めた紫色の髪に、十番隊の中では細身の体躯。弓を巧みに操る男は、血にまみれたフェリクスを見下ろして余裕の笑みを浮かべてみせた。

「たいっちょー、まぁた怪我してんじゃないっすか。腕、うーで。帰ったら医務室行かないとっすねー?」
「――るっせェ、キリキリ働け」
「はいはいっとー。俺も怪我してソラちゃんのお世話になろっかなー」
「サイラス!!」
「うわっ! ちょ、蹴らないでくださいよ、落ちる、落ちるー!!」

 枝にしがみついて喚くサイラスにいい気味だと牙を剥き、フェリクスは大剣を構え直した。肉を裂く感覚は身体が記憶している。鼻先を掠める鉄の臭いも、降りかかる液体の熱さも、すべて。
 咆哮と共に、地を蹴った。
 ――正気と狂気の狭間で、彼は獣と成り果てる。


+ + +



 どれだけ大丈夫だと主張しても、サイラスを代表とする他の隊員達がにやにやと笑いながらフェリクスを医務室まで押しやった。日頃は医務室になど近寄りたくもないと吐き捨てる奴らばかりのくせに、こういうときだけ素知らぬふりだ。
 フェリクスよりもよほど重傷の者もいるくせに、そいつは医務室の前で回れ右を決め込むのだから腹が立つ。そもそも、ここまで来る間に傷口を容赦なく握り込んでくる者もいた。あとで見つけ出してぶっ飛ばしてやると心に決め、フェリクスは目の前で言葉を失う少女を見下ろした。
 ふわふわの栗色の髪は顔の横で団子状に纏められている。それが仕事中の彼女の髪型だ。小さな頭に乗った白衣帽。パンツスタイルの白衣は、膨張色のくせに彼女の華奢さばかりを強調させている。袖から覗いた手首は、折れそうなほどに細い。
 しばらく彼女は絶句していたが、弾かれたように顔を上げ、唇を引き結んでフェリクスに治療台を勧めてきた。さすがに寝て治療されるほどの傷ではない。丸椅子に腰かけて腕を出す。こんな傷など見慣れているだろうに、華奢な医官見習い――ソランジュ・アルオンは、自分が傷ついたような顔をして、一瞬傷口から目を背けた。

「消毒します。少し沁みるかもしれませんが、我慢してください」

 口調だけは立派に業務用だったが、声は笑いそうになるくらい震えていた。呆れてなにも言えない。
 消毒液をたっぷりと染み込ませた脱脂綿が、傷口をそっとなぞっていく。切れ味の悪いナイフで抉られた腕の傷は、肉の色が見えるほどに深かったらしい。それほど痛みを感じていなかったのだが、ソランジュからすれば青褪めるほどの傷なようだ。
 彼女の宣言通り、消毒液は傷口に沁みた。焼かれたような感覚に、こちらの方が痛いと言いたくなる。傷口を縫い合わせる手つきは一人前だが、女の傷でもあるまいし、そんなに細かく縫わなくてもいいだろうと思うほど丁寧だ。
 震える手がガーゼを当て、包帯を巻いていく。丸太のような二の腕がそっと持ち上げられて、するすると巻かれていく白いそれに思わず笑ってしまった。それまで黙りこくっていたソランジュが、どうしたことかと視線を上げる。

「あ、いや。上手くなったモンだなーと」
「……あれから何年経ったと思ってるんですか。私だって成長します」

 拗ねたような物言いに、余計に笑みが零れた。
 騎士館の庭先で枝を相手に包帯を巻きつける練習をしていた少年――実際は少女だったが――は、いつの間にか医官見習いになれるまで成長していた。綺麗に巻かれた包帯に緩みはない。文句の付けどころがない処置だ。

「おーおー、キレーにできたな。ごくろーさん。んじゃ、そろそろ戻るわ」
「待って! ……待って、ください。あの、ええっと、――痛み止め! 今、痛み止め用意してきますから!」
「痛み止め? いらねーよそんなん。薬飲んだら感覚鈍っちまうからな。そんじゃ」
「え、でもっ……! あ、じゃあ、じゃあ……、熱が出るかもしれないので、せめて夜のお薬だけでも」
「だから、薬はいらねェって。ありがとよ」
「――だったら!」

 必死すぎだ。
 顔を真っ赤にさせて泣きそうな目で見つめてくるソランジュは、滑稽なまでに必死に言葉を紡いだが、ついに言葉が見つからずに唇を噛んだ。
 そんな顔をするな。
 この傷はフェリクスのものであって、ソランジュのものではない。そのフェリクス本人が、痛みだってあまり感じていない。だからソランジュが苦しむ必要はまったくないのだ。他人から痛みを吸い取って傷つくその優しさが、フェリクスには少しだけ怖い。
 大したことないと言ってしまえば、彼女は今にも泣いてしまいそうだった。心配されるのはむず痒くて苦手だ。どうにも座りが悪くなる。だからさっさとここから逃げ出したいのに、ソランジュがあまりにも必死に呼び止めるものだから、立ち上がるタイミングを逃してしまった。
 濡れた空色の瞳が、恐る恐る見上げてくる。

「あー……。あんな、嬢ちゃん。これくれェの傷、なんでもないんだわ。な? うん。だから心配すんな」

 心配くらいさせてください。いつだったかそう言われた気もしたが、心配されるのはどうしたって苦手なのだから仕方がない。フェリクスにはフェリクスの主張がある。
 ソランジュは唇を噛み締めて、なにかを飲み込んだようだった。以前と同じ台詞だろうか。
 癒しの手が、包帯によって白く染められた腕に触れてきた。気遣ってか、触れられている感覚はない。彼女の力程度なら、たとえ全力で掴まれたとしても痛みは感じないだろうに。
 なにも言わない彼女をぼんやりと見ていたら、ふいに少しだけ背を丸めた彼女が包帯の上から腕に口づけた。突然のことに対応できず、あんぐりと口が開く。添えられた腕の感覚すらないのに、柔らかな唇の感覚など伝わってくるはずもない。見ていなければきっと分からなかった。
 そっと離れたソランジュが、目尻を赤くして、どこか恨みがましげに睨みつけてきた。微塵も恐ろしくないのに、首の後ろに鳥肌が立つ。

「……どうして、もう少しだけ一緒にいたいって、分かってくれないんですか」
「は?」
「心配は、してるけど! もちろん心配だけど! ただっ……、ただ、少しでも長くいたいんだって、どうして分かってくれないの!」

 敬語の外れた言葉はソランジュの本心そのもので、フェリクスはますます困惑した。
 この若い医官見習いがどういうわけか自分を慕っているのは知っている。知っていても、戸惑うものは戸惑うのだ。
 小さな手が、鎖骨の辺りをぎゅっと握ったのを見た。白衣の下に、華奢な鎖が覗いている。――やめろ。思わず呻いた。銀の鎖の先には、同じく銀色の小さな羽飾りがあるはずだ。フェリクスの小指の先よりも小さな羽のモチーフには、小粒の赤い石がついていた。くれてやった首飾りをお守りかなにかのように握り、ソランジュは懸命に息を整えている。
 卑屈になったわけでもなんでもなく、ただ純粋に疑問に思う。どうして自分なのだろうか。年齢は一回り以上離れているし、見た目も性格もお上品からはほど遠い。それなのに、頑ななまでに自分だけを追い続ける彼女の思考が理解できない。
 口づけられた腕のあたりに、フェリクスはそっと視線を滑らせた。口紅でもつけていれば跡が残っていたのだろうが、白いそこにはなんの痕跡もない。まるで羽根が触れたようだった。

「なァ、嬢ちゃん」
「……なんですか」
「話してェなら、庭にでも行こうや。ここじゃあちっと息が詰まる」

 消毒液のにおいがする医務室より、花が咲き乱れる城の庭の方がよほどいい。それだけだ。他意はない。
 他意はないのだ。
 目の前で満面の笑みを浮かべるソランジュを見て、やはりこちら方が落ち着くだなんて、――そんなことは思っていないのだから。



(腕へのキスは、恋慕のキス)

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