1.ベラリオとカンパネラ兄妹 [ 11/22 ]

 狂気にまみれた空間は、ひどく居心地がよかった。
 ヴォーツ城の地下に造られた円形の闘技場は、今やむせ返るような血と汗の臭いで満ちている。天井は高く、それだけ地を掘り進めたかつての労働者達に、嘲りと労いの言葉をかけたくなった。ぐるりと囲む石造りの壁は赤茶けていて、それがもとの石の色のせいだけでないことは、すぐに見て取れた。
 闘技場は二階建てとなっており、一階部分には計五つの門がある。そのどれもに鉄格子が填められていて、牢獄のような造りになっていた。二階部分にもいくつか扉はあるものの、どれを見ても鉄格子など填められていない。見るからに頑健な鉄門扉は、簡素ながらも流れるような水の意匠が彫り刻まれている。
 一階を最もよく見通せる上座はややせり出したような形になっており、そこには豪奢な長椅子が据えられていた。鍛え上げられた肉体を甲冑に身を包んだ男がその中央に腰を据えて、傍らに立つ少女の腰を引き寄せた。硬い甲冑の膝に座らされた少女はたちまち唇を尖らせたが、宥めるように口づければ不満は嬌声に代わる。
 しがみついてくる小さな身体を抱いたまま、男――ベラリオは、今まさに剣と槍を交わらせている男達に野次を飛ばした。

「おいファウスト! 手ぇ抜いてんじゃねぇぞ! 本気でヤれ、でないとつまんねぇ」

 戦場でもよく通る声は、この地下闘技場においてはラッパよりも大きく響き渡った。
 それまで静かに槍を構えていた少年が、ちらと二階のベラリオを見上げる。頭の高い位置で一つに纏められた赤紫の髪。とろりとした夜色の瞳。生気が欠けたように見える相貌は整っており、その頬をべっとりと汚す血がなければ、天女と謳われてもおかしくないほどだ。
 身の丈以上の長槍には、すでに血の汚れが染み込んでいる。身に着けているのは白の軍服だが、ヴォーツ兵団のそれとは装いが違っていた。ファウストのためだけにあつらえた、彼のみが袖を通す戦闘服だ。胸には金糸で鮫が縫われている。上着の裾は背面が長く、派手に動くたびにドレスのように翻った。同じく白いズボンに覆われた足は細く、高らかに地を打つ軍靴も小さく頼りない。
 赤黒く染まった軍服に、ベラリオは言い知れない興奮を覚えて舌なめずりをした。人形のような顔にも、純潔を示すような白い軍服にも、汚れた赤が散っている。日頃は素肌を見慣れている分、こうしてきっちりと肌を覆い隠したファウストを見るのは新鮮だった。とはいえ、彼とて常に裸体でいるわけではない。よく見かけるのは、布を幾重にも巻きつけた民族衣装のような服装だ。それでも肩や足は剥き出しになっているので、今のような姿は珍しいと言える。
 それは彼の妹にとっても同じなのだろう。膝の上できゃっきゃとはしゃぐルチアは、槍を握る兄に穏やかでない声援を送った。

「にーさま、はやくころしちゃってよぉ! でないと、ルチアがやっちゃうよぉ?」

 首を巡らせたその動きは、了承の意であったのか、それとも呆れであったのか。
 ともかく、僅かに見せたファウストの隙を、相手が見逃すはずもなかった。ファウストとは違い、胸当てを着けているにも関わらず、相手の男は必死の形相で剣を振りかぶった。ヴォーツ兵団の兵士だ。それなりに腕も立つ。
 それだけで女子供が泣きだしそうな雄叫びを上げ、男は長剣を上段から振り下ろす。大きくも素早い動作に、少年の頭を剣先は確実に捉えていた。
 ざっと地を蹴る音がする。土を押し固めた闘技場で、砂煙が舞い上がった。ほんの一瞬掻き消えた白い軍服。
 槍の柄を地に突き立てて飛び上がったファウストは、剣先を避けると同時に槍を軸に身体を躍らせ、男の後ろ首に蹴りを叩き込む。まだ未発達の子供の一撃だ。骨が折れるほどの衝撃はない。軽くよろめいた男は、怒りに耳まで赤く染めて何事かをがなり立てた。
 ファウストは答えない。動じる様子すらない。憐憫も怒りも、なに一つ見せず、少年は今一度地を蹴った。ふわり。軍服の裾が羽のように広がる。彼らカンパネラ兄妹を化け物と嘲る者は、その一方で、天使か妖精かと零すこともある。地上の者とは思えない姿に、ぞくりとしたものが血と共に全身を駆け巡る。
 飛び上がったファウストは、素早く槍先を手繰り寄せて短く構えた。華奢な身体が、男の背後に舞い降りる。切っ先が首を貫くかと思ったが、彼はそうしなかった。槍の柄で男の首をきつく絞め上げたのだ。
 男がもがく。だが、身長差も相まって、ファウストはそのまま背にぶら下がるようにして全体重をかけて首を絞め続けた。――違う。これでは面白くない。薄汚い色に変わっていく男の顔など見て、どこが楽しいものか。
 ベラリオの怒気を感じ取ったのか、ルチアがするりと膝の上から降りていった。まるで猫のような身のこなしだ。ほぼ下着姿同然の装いに半透明の肩掛け(ショール)を纏った少女は、手摺りに足を駆けるとためらいなく空中に身を投げ出した。そう高くはないが、飛び降りるには戸惑う高さだ。
 兄と同様に、天使の翼のように肩掛けを躍らせた少女は、危なげなく闘技場に降り立った。血と汗が染み込んだ土が、小さな裸足の足を汚していく。

「もー、にーさまなにやってるの? それじゃあぜーんぜん楽しくない!」
「――ルチア、下がれ」
「やぁだ。ね、ね、あなたもルチアと遊びたいよねぇ? あはっ、ね、苦しい? 痛い? にーさまったらひどいよねぇ、かっわいそーぉ」
「う、ぐう、ぁ、……ぐっ!」

 ファウストの拘束から逃れようともがく男に身を寄せ、ルチアは足元に落とされていた剣を抱き上げた。さすがに重い。思わずよろけたところに、暴れていた男の足が腹を捉える。

「きゃあっ」

 腹に蹴りを喰らって地面を滑ったルチアの悲鳴が、すべての合図だった。一瞬で、この場に狂気が満ちた。ベラリオには分かる。肌を刺すこの空気。狂ったような叫びも、笑いも、なにもない。ひたすらに、無。それでも満たされていく狂気に、全身の毛穴が開くのを自覚した。
 ルチアの悲鳴を受けて、ファウストは瞬時に男を解放した。呼吸困難に陥っていた者の当然の反応で、男は大きく噎せ、その両の目から涙を零した。そこに感情はない。恐怖で泣き出すような男は、ヴォーツ兵団にはいない。
 ――その瞬間までは。
 夜を流し込んだ、生気に欠けた人形のような双眸が、静かに男を見据えた。血が沸く。それはファウストが見つめる男か、それともベラリオか。分からないし、それでよかった。全身を包み込む興奮は確かなものだ。昂りは確かにここにある。

「ひぃいっ!」

 年は遥かに下。身長も、経験も、なにもかもが下のファウスト相手に、男は情けない悲鳴を漏らした。
 その背後では、膝を擦り剥いて不機嫌になったルチアが頬を膨らませている。それでも彼女が飛び出していかないのは、ファウストが醸し出す空気を理解しているからだ。

「死ね」

 槍先が男の喉を貫いたそのとき、ファウストの唇が釣り上がったのをベラリオはしかと目に焼き付けた。


+ + +



「にしても、今回は随分遊びすぎたんじゃねーの、お前ら。ファウストはともかく、戦ってねぇお前がなんで怪我してんだよ」
「ちょっところんだだけだもん! それに、最後のはルチアがやっつけたんだからねぇ!」
「あ? そうだったか?」
「そぉだよう!」

 熱気の逃げ切らぬ闘技場の二階席で、ベラリオは膝にルチアを抱いてげらげらと笑った。
 あれから追加で三人、全部で八人の元兵士とファウストを引き合わせた。なんてことはない。彼らは規律を犯した。だから処分した。それだけだ。ただ裁くのも味気ないから、こうしてチャンスをくれてやっているだけのこと。もしもファウストを倒すことができれば、無罪放免としてやろうというわけだ。
 それでも、未だかつてファウストの槍から逃れた者はいない。今まで何度かファウストを追いつめた猛者もいるが、結局はルチアの毒煙にやられて息絶える。怪我を負わせることはできても、人間が「化け物兄妹」を相手に逃げ切ることは不可能に近いらしかった。
 擦り傷を負ったルチアは流水で傷口を洗ってきたのか、白くもっちりとした肌に水滴を浮かべていた。汚れてしまった肩掛けはどこかに捨ててきたらしい。所々血の滲んだ四肢を剥き出しにして、ルチアは甘えるように擦り寄ってくる。

「つぅかファウスト、もっとこっち来いよ。なんで離れてんだ」
「ベラリオさまのお召し物が汚れますので」
「いいから来い」
「ですが」
「口答えすんな。お前は誰のモンだ?」
「――はい」

 それは問いの答えとは言えなかったが、大人しく傍に来たファウストに満足して、どうでもよくなった。白い軍服は見事なまでに血と土埃で汚れ、靴跡をつけられていたり、切り裂かれたりしていてみすぼらしくなっている。細い腰を抱き寄せれば、つんとした汗の匂いと鉄臭さが鼻についた。
 それを厭うように身を捩るファウストが面白く、ベラリオは背中に回した腕を持ち上げて纏められていた髪を乱暴に梳いた。汗で湿った髪は癖を残したまま、ゆっくりと背に落ちていく。

「上出来だ、ファウスト。褒美はなにがいい?」
「褒美など不要です。ただお傍に置いてくだされば、それで」
「あ? 毎回それじゃねーか。なんか考えとけっつってんだろ」
「ベラリオさま、ルチアにも! ルチアにも聞いてよぉ!」
「お前はなンもしてねーだろ。強欲女は嫌われんぞ」
「いーから! だってルチアもがんばったもん!」
「あーハイハイ。で、なにが欲しいんだ。言ってみろ」

 買ってやるかわかんねぇぞ。そう嘲るように笑った唇に、柔らかい唇が触れた。頬を擦り合わせ、甘く耳朶を食みながらルチアは大人顔負けの色香を放って言った。

「ルチアね、ベラリオさまのちゅーが欲しいなぁ」

 くっと喉の奥で笑う。望み通りくれてやろうと顎を掴めば、大人びた笑みのまま、ルチアは人差し指をベラリオの唇に押し当てて首を振った。自分からねだっておいて拒否するとは、どういう了見だ。舌を打つベラリオの目の前で、ルチアの手がファウストに伸ばされる。そうして彼女は兄の首に腕を絡めて、整った顔を自分へと近づけた。
 まさに目と鼻の先で、小さな舌が頬を汚す血を舐め取っていく。独特の味に眉を顰めつつも微笑むルチアに、幼子の純白さはない。娼婦のような妖艶さを持ちながら、誘う舌は子供のそれだ。
 立ち込める狂気。やがてそれは、狂喜に変わる。

「あっ……」
「ひゃぁっ!」

 目の前で絡み合わんとする兄妹の身体を抱き寄せ、瞬時に身を反転させて長椅子に押し付けた。したたかに背を打ったファウストは傷が痛むのか、かすかに瞳を潤ませている。膝を擦り合わせるルチアも同じらしい。「もぉ、なぁにぃ?」不満を訴える声に、先ほどまでの色香はなくなっていた。
 腰に佩いていた二振りの剣のうち、短剣を引き抜いて二人の眼前に曝した。きらめく銀に怯えを見せる様子はない。
 ベラリオはそれを、ファウストの胸に滑らせた。兵士の攻撃を受けたのか、胸の部分が僅かに裂けていたのだ。化け物じみた強さがあると言っても、まだ経験の浅い子供だ。こうも容易く、致命傷になりかねない場所に傷を負う。
 布の裂け目に刃先を突き入れ、びりっと音を立てて軍服を引き裂く。悲鳴も抗議の声もない。露わになった己の胸元に走った赤い一線を見て、ファウストは小さく息を吐いただけだった。

「イイコにしてりゃ、どんな褒美だってくれてやる。傍に置いてほしい? 上等だ、死ぬまで俺の傍にいろ。この薄っぺらい胸が裂かれて、きたねぇ内臓ぶちまけるまで。なぁルチア。お前にだって、キスが欲しいならいくらだってくれてやる。どうだ? 嬉しいか?」
「うんっ! とーっても嬉しいよ!」
「お前は」
「――無論。感謝の言葉もございませ、んっ……」

 平たい胸に走った一線を舌先でなぞり、吐息を漏らすファウストを上目に見上げる。潤んだ瞳とかち合った。
 胸の中央に口づけて、傷口の上から強く吸い上げた。痛みに声を漏らすファウストを見て、ルチアがたまらずといった風体で「ルチアにも!」と吠える。
 それに応えてやりながら、ベラリオは己の唇を幼い血で染め上げる背徳に酔いしれていた。頭を支配するのはなんだ。階下には死体が転がるこの空間で年端もいかぬ子供を組み敷くこの享楽を見て、神はなんと言うのだろう。罪と言うか。罰をと言うか。望むところだ。どんな罰でも下すがいい。どうせこの身には、清らかな天上など似合わない。
 ならば、昏く淀んだ地の底で、血と汚濁にまみれて過ごす方がよほど性に合っている。さあ、下せ。もしも本当に、神とやらがいるのなら。

「答えろ。――お前達は、誰のモンだ?」

 何度だって問う。
 世の中には「人は、身も心も神のものだ」と答える者がいるそうだが、そんな人種とは相容れない。清らかな銀を纏った人種は、特に。
 齧るように胸に口づけて、答えを促した。何度目か分からぬ問いに、幼い声が答える。

「あなたさまのものです」
「ベラリオさまのだよぉ」

 二人同時に発せられた答えに、唇が歪む。
 ああ、どうせなら、もう一人自分がいればいいのに。そうすれば、二人同時に口づけることができるのに。そこまで考えて、ベラリオは首を振った。駄目だ。自分がもしも二人いたら、きっと殺し合うだろう。
 自分は一人だけで十分だ。そうでなければ意味がない。

 ――何度だって、問う。


 俺のものだと、答える限り。


(胸へのキスは、所有のキス)

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