1.ルードヴィッヒとゲルトラウト [ 10/22 ]
レティシアが魔女だと聞かされたのは、もう随分前の話のように思う。二つくくりにされたふわふわとしたピンク色の髪から覗く耳は、確かに人とは違って、先がつんと尖っていた。
ルードヴィッヒとそう変わらぬ年頃に見える彼女は、ゲルトラウトが赤子のときから姿を変えていないらしい。実際の年齢は聞かない方がいいとゲルトラウトに言われたので、ルードヴィッヒは未だに彼女の本当の年齢を知らなかった。
人畜無害を絵に描いたような、砂糖菓子のような女の子。
初めて見たときは、そんな風に思った。おっとりとした喋り方も彼女にとてもよく似合っている。賢くは見えない喋り方は好きではなかったが、似合っているのだからそれはそれで問題ない。黒を基調としたフリルたっぷりのワンピースも、それはもう、とてもよく似合っている。
「うふふ〜、そぉれぇっ」
そんな愛らしさの塊のようなレティシアは、花が咲くように笑って、手のひらから火球を高速で放った。
+ + +「なんなんですかあの女! 僕たちを殺す気ですか!? 火の玉って、火の玉ってどういうことなんですか!!」
「うん、言いたいことはよぉっく分かる。分かるけど、風呂場で叫ぶなルーイ。響くから」
「あっ、申し訳ございません、兄上……。とんだお耳汚しを」
天使のような風貌でぎゃんぎゃん騒ぎ立てる弟の姿に、ゲルトラウトはなんとも言えずに嘆息した。美しい白金の髪は、前髪の一部が焦げて縮れてしまっている。白い頬についた煤を湯で拭い、ルードヴィッヒは不機嫌のまま浴槽の壁に背を預けた。
離宮に設けられた大浴場は、華美な装飾はないものの、洗練された美しさがあった。兵舎のものとは大違いだ。
ゲルトラウトも、ルードヴィッヒに続くようにして浴槽に足をつけた。ほどよい温度の湯が爪先をそっと飲み込んでいく。
ゆっくり腰まで浸かったところで、なんとなく嫌な予感がして動きを止めた。すぐさま弟が首を傾げて見上げてくる。
「兄上? どうなさいましたか?」
「あ、いや……。別に、なんも。……ッ!」
「兄上!?」
無理に腰を沈めれば、背中にぴりりとした痛みが走って息を飲む。反射的に腰を浮かせたゲルトラウトに、ルードヴィッヒは大げさなまでに慌てて「どうなさったんですか」と涙目になっている。
ああくそ。肩越しに背を覗いてみるが、どうなっているのか分からない。
今にも泣きそうな弟を宥め、ゲルトラウトは濡れた前髪を掻き上げた。
「レティシアの魔法。あれ、背中掠ったろ。火傷かなんかしてねぇ?」
「え? ――あっ、ま、真っ赤になってます……」
「やっぱりなぁ。くっそ、あいつほんっと容赦しろよ……」
「おのれ魔女め……! 許せません、兄上の肌にこんな傷を残すなんて! あの女、僕が八つ裂きにしてやります!!」
「うん、しなくていいから。つか絶対無理だし」
レティシアの力は幼い頃から目の当たりにしている。魔法の威力を試す実験に強制的に付き合わされ、死にかけたことも一度や二度ではない。殺す気がないから死んでいないだけで、彼女が本気になったらどうなるのだろうとも思う。
尖った耳。なにもないところから生み出される火球、水、雷や氷のつぶて。ふわりと飛んで、いつの間にか後ろにいて。
人ではない不思議な存在だと分かっていても、未だに頭が追いつかない。
湯に浸かれば痛み出す背中をどうしようかと思っていたら、背後に回っていたルードヴィッヒがそっと背に触れてきた。火傷は避けているのだろう。痛みはない。
「ルーイ? どした?」
「……兄上、僕ね、昔は、痛みがあるととても不安だったんです」
「は? 誰だってそうだろ」
「いいえ。たぶん、違います。僕が感じていた不安は、他の人とはきっと違うんです」
自嘲を滲ませた言い方が気になって、ゲルトラウトは続きを促した。
「痛いと、思うんです。――ああまだ生きてる、って。まだ、生きてしまっているんだって。あの頃は、ずっとそう思っていました」
あの頃。
それは、まだルードヴィッヒが幼く、他の兄公子達に陰湿な嫌がらせを受けていた頃のことだろう。彼の母は体が弱く、身分もなにもない妾妃だった。王宮に渦巻く暗さをぶつける相手には、ルードヴィッヒはちょうどよかったのだろう。
偶然、植え込みの中で彼を見つけたときのことを思い出す。なにもしていないのに姿を見るなり怯え、「ゆるして」と懇願してきた痩せこけた子供。鋭利な刃物で傷つけられた痕が痛ましく、見捨てることができずに助けてしまい、懐かれて今に至っている。
それが最善の道だったのか、まだよく分からない。
ルードヴィッヒの女性のように華奢な指先が、濡れた背中をそうっと滑っていく。
「……早く死んでしまいたかった。どうして生きているんだろうって、ずっと思っていました。でも、でもね、兄上。今は違うんです」
「そりゃよかった」
「はい! 兄上にお会いできたから。……兄上が、いてくれたから。だから、生きててよかったって思うんですよ」
きっと背後で、ルードヴィッヒが幸せそうに笑っている。それを悟れることがくすぐったくて、ゲルトラウトは身を捩った。
「兄上? やはり、痛むんですか? あのクソ女、どうにかして処罰を――」
「いや、いーって。そーゆーんじゃねーから。うん。それにほら、痛いのは生きてる証拠なんだろ? だったら少しくらい、いーんじゃねーの」
痛いのも苦しいのも大嫌いだけれど、そんなことを言ってみた。
それまで指先だけだった背中の感触が、手のひら全体に変わる。ぺたりとつけられた小さなそれに、堅い剣だこが出来始めたのはいつ頃からだったろうか。
弟は、もう泣いてばかりの小さな子供ではなくなっていた。
ぴくりともしないルードヴィッヒが気になって、傷を確かめようとしたときのように、肩越しに振り返ってみた。ほぼ同時に濡れた毛先が肌の上を滑り、柔らかなものに触れられる感触が落ちてくる。
「え……」
思わず漏れた声につられるように、もう一度。
ぴりっとした痛みが走ったのは、火傷の痕に触れられたからだと知る。
天使が愛した果実のような薄桃色の唇が、ゲルトラウトの背中に触れていた。
「ルーイ? お前、なにしてんの?」
「兄上はちゃんと、生きておられますよね」
「はぁ? 当たり前だろ」
答えると同時に、ちゅっと音を立ててまたしても口づけられる。
これが美女ならよかったのにと、そんなことをひっそりと零した。
「やっぱり僕の兄上は、兄上だけです」
満足げに笑うルードヴィッヒに背後から抱きつかれ、ゲルトラウトはますます訳が分からなくなって言葉を失った。
ああもう、まったく。
沈み込んで湯に浸かった背中が痛い。
耳に頬にと口づけてくる甘ったれの弟の頭を撫でて、彼は小さく、笑みを浮かべた。
(背中へのキスは、確認のキス)