1.ハルカと茉莉花 [ 7/22 ]

(ジャスミンシリーズ既読推奨)



「だからっ! 知らないって言ってるでしょ、お姉ちゃんが勝手になくしたんじゃないの!?」
「最後に見たのはアンタに貸したときなの! そのあと返してもらってないってば!」
「返した!」
「いつ!」
「貸してもらった日の夜! お風呂入る前に、テーブルの上に置いておくからって言ったでしょ!? そしたらお姉ちゃん、分かったーって返事してたじゃない!」
「覚えてないわよ!」
「そんなのそっちが悪いんじゃない!!」

 かれこれ三十分以上、このやりとりが繰り広げられている。
 リビングの扉を開けようかどうか迷っていると、擦りガラスに影が映って乱暴に扉が開いた。鬼のような形相のリィが飛び出してきて、低い声で「どいて」と言って玄関に直行する。化粧もせずに着の身着のまま出ていった様子から、すぐに帰ってくるのは明白だ。少し頭を冷やしに行っただけだろう。
 急にしんとした家の中に、どうしたものかと頬を掻いた。そっと扉を開けてリビングに入れば、ソファに膝を抱えて座るマリカちゃんがいた。髪から覗く耳は赤い。抱えた膝に顔をうずめているから分からないけれど、おそらく泣いているのだろう。この姉妹はどちらかが泣くまでケンカをするのだということを、最近知った。大抵はマリカちゃんだけれど、たまにリィが悔し泣きすることもある。するとその時点で一旦休戦。泣いていない方がその場を去るのが、彼女達の暗黙のルールらしい。
 ソファの背もたれ越しに、そっと頭を撫でてみた。

「大丈夫?」

 返事はない。代わりに、マリカちゃんは小さく頷いた。
 ケンカの原因は、俺が知る限り、いつだって些細なことだ。「どうしたの?」できうる最大の優しい声で訊ねる。つっかえながらも話してくれた内容を要約するに、リィがマリカちゃんに貸したネックレスがなくなったらしい。マリカちゃんはきちんとそれを返したらしいが、リィは受け取っていないとの認識だ。一緒に探せばいいだけの話だと思うのだが、それを言ったら彼女達の怒りの矛先が自分に向かうことは目に見えている。
 ゆっくりゆっくり髪を撫でてやりながら、俺はマリカちゃんの言葉に耳を傾け続けた。
 「自分がなくしたくせに」「あたしはちゃんと返したのに」「探しもしないで」ぐずぐずとそう零す愚痴は、以前ならば聞けなかったものだろう。うん、そうだね。そう相槌を打ってやれば、そのたびにしゃくりあげる声が大きくなる。
 頃合いかと思ってティッシュを差し出せば、マリカちゃんは控えめに洟をかんだ。ここはまだ大胆になれないらしい。

「……うるさくしちゃって、ごめんなさい」
「いいよ。もう慣れたしね」
「……ごめんなさい」

 リィとマリカちゃんはとっても仲がいいくせに、頻繁にケンカをする。前はそう目立たなかったのにと言えば、リィが「そりゃアンタの前で猫かぶってたからよ、茉莉花が」と笑っていた。
 俺がいても怒鳴りあう姉妹。気弱そうなマリカちゃんが声を張り上げる姿は最初こそ物珍しかったけれど、最近ではそう珍しいものでもなくなってきている。俺はまだ怒鳴られたことがないけれど、そのうち怒鳴られるんだろうか。そうなればいいのにと考えて、そういう趣味じゃないんだと誰に対するわけでもないのに弁解する。

「どんなネックレスだったの?」
「蝶の。青い石がついてて、シルバーの。テーブルの上に、ちゃんと置いたんです」
「蝶のって……ああ、あのときの」

 それは、この前、マリカちゃんの首元を飾っていたネックレスではないだろうか。鼻の頭を赤くして頷いた彼女は、「覚えてたんですか」と蚊の鳴くような声で言った。

「うん。あれ、とっても似合ってたから。でも、そっか。リィのだったんだね」

 見覚えがある分探しやすいだろうと思って、マリカちゃんが置いたというテーブルの上をざっと見回してみた。新聞を避けたり、リモコンを避けたりしてみるが、記憶にある蝶は出てこない。ついでにテーブルの下のラグも捲ってみたけれど、そこにも蝶は落ちていなかった。
 ひとまずソファまで戻ってマリカちゃんの隣に座る。一瞬だけ硬くなった体は、すぐに力が抜けて肩に頭を預けてきた。ここまで来るのに数ヶ月。地道な変化に幸せを噛み締める。

「……あたし、ちゃんと返しましたもん」
「うん、そうだね。じゃあ、あとで一緒に探そうよ。もしかしたらリィが部屋に戻すときに、落としちゃったのかもしれないし」

 しばらく間があったが、それでもマリカちゃんは頷いた。いい子だね。くしゃくしゃと頭を撫でれば、猫が甘えるように目が細められる。腫れぼったい目はすぐにでも冷やした方がいいんだろうけど、もう少しだけ、この距離を保っていたかった。
 マリカちゃんの手が、自分の膝からするりとほどけた。どこへ行くのかと思えば、またしても膝の上へと伸びていく。けど今度はマリカちゃんの膝じゃなくて、俺の膝の上だった。カーゴパンツの余った生地をきゅっと握った彼女は、なにも言わない。なにも言わないから、――ああ、もう。せめてなにか言ってほしい。

「マリカちゃん」

 呼べば視線はすぐに上を向く。頭を撫でていた手を首の後ろに回して、緊張で固まった体を手のひらでじかに感じながら、柔らかい唇にキスをした。触れるだけ。すぐに離して自分の唇を舐めると、少しだけ塩辛い。
 困ったように、恥ずかしそうに揺れる瞳が、恐る恐る俺を見る。
 手のひらに触れる首筋が一気に熱くなった気がした。すぐ近くで脈打つ太い血管が、その速さを増す。

「はるかさん、あの……」
「ん?」
「きゅ、急に、そんな、あの……」

 困り切って震える声に、たまらなくなってもう一度。
 はるかさん。そう呼ばれるのは嫌いじゃないし、むしろもっと呼んでほしいけれど、飲み込むように唇を塞いだ。震える手が俺の腕を掴む。この瞬間がたまらなく好きだ。
 唇を離して間近で覗き込んだ瞳はさっきとは違う濡れ方をしていて、その中に自分しか映っていないことにどうしようもない満足感を覚える。
 愛しくてたまらない。欲しくて欲しくて、やっと手に入れた女の子。もっと俺を欲しがってくれたらいいのに。
 鼻先を触れ合わせて、揺れる瞳を覗き込んだまま口づける。マナー違反だろうか。目尻まで真っ赤にさせたマリカちゃんが、言葉にならない声を漏らす。そのまま唇を頬へ滑らせ、そうっとソファに横たえた。――押し倒す、なんて表現をするには物足りないくらい、そうっと。
 愛おしい。どうしたらこの気持ちを伝えきることができるのだろう。飽きることなく口づけて、後から後から溢れ出る感情に身を任せた。

「は、悠さん、ネックレス……!」
「うん、あとで」
「でも」
「あとで探そう」

 力の抜けた体を抱き締めて耳元で囁けば、マリカちゃんは分かりやすく首を竦ませた。

「――今探しなさいよ」
「だからあとで、って……、え?」

 強く放たれた声に、背筋が凍る。

「おっ、お姉ちゃん!?」
「家の中でいちゃついてんじゃないわよ。人が頭冷やして戻ってきたらなにこれ。なんなの? 邪魔者が出ていって清々してたってわけ、あっそう、ふーん。いいけどね、別にいいけど?」
「そういうんじゃないってば!」
「べーつーに? アンタ達が付き合うのはいいわよ、好きになさいよ。でも、言ったわよねぇ、ハルカ。マリカが高校卒業する前に喰ったら殺すって」
「喰っ!? 違う違う、食べてない、食べてない!」
「嘘おっしゃい!! 今確実に襲いかけてたでしょうが! この状況でどう言い逃れすんのよ、え!? ふざけんじゃないわよ、アンタね、この家で、それもリビングで! アタシの妹に手ぇ出そうなんざ百年早いのよっ!」
「ちょっ、リィ、落ち着いて!」
「うるさいっ!」

 バシンッと容赦なく頭を叩かれて、目の前に星が散った。
 なにこの暴君。さっきまで大ゲンカして家を飛び出していたというのに、帰って来るなり妹の心配をして人を殴るのか。そもそもこうなる前はさっさと襲えだのぺろっと食えだの好き勝手言っていたくせに、付き合ってからというもの、手を出すなの一点張りだ。
 いつの間にか俺から離れていたマリカちゃんも、ぼかすかと叩かれる俺を見て小さく吹き出した。
 ああひどい。
 ――この姉妹は、仲が良すぎるんだ。

 ああそうそう、その後、銀の蝶はソファの下からひょっこり出てきたよ。
 これにて一件落着――。

「大体アンタがよく探さなかったから!!」
「お姉ちゃんが落としたんでしょう!?」


 ――とは、いかないようで。


(唇へのキスは、愛情のキス)

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