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 荒い呼吸はその証だ。ハインケルの身体は、もうすでに悲鳴を上げている。
 彼が握ったガラス片の切っ先をドルニエに向けた瞬間、傍らにいた防衛員が引き金を引いた。凄まじい破裂音と共に、ハインケルの足元で弾が跳ねる。短い悲鳴が上がったが、それを掻き消したのは他でもないドルニエの怒声だった。

「バカっ、撃つな!」

 反射的に怒鳴りつけてしまい、慌てて口を覆ったがもう遅い。驚く防衛員とは対照的に、ハインケルは苦痛を乗せた顔に僅かな余裕を浮かべてみせた。
 ――駄目だ、落ち着け、冷静になれ。どくどくと脈打つ心臓を落ち着けようにも、深呼吸をすれば熱気が喉を焼くのでままならない。早くここから出て行きたい衝動に駆られるが、それすら叶わない。
 とにかく冷静な思考を。頭を冷やせ。言い聞かせるそばから心臓は急いていく。

「よかった、ちゃんと分かってるんだね」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れっ! なに知った風な口聞いてんのよ。アンタなんか別にっ」
「じゃあ、なんで今、止めたの?」

 ともすれば感情などないような瞳でドルニエを見据え、ハインケルは手にしたガラス片を己の首に宛がった。
 焦燥は判断力を容赦なくこそぎ落としていく。――止めなくていい。動きかけた口を理性で戒め、ドルニエは唇の端を吊り上げた。どうせ彼にはできない。死ぬのが怖いと嘆く人間が、自らの命を絶つことなどできるはずもない。

「アンタがどうやって抜け出したのか、話が聞きたかったからよ。それだけよ!」
「空軍兵士が助けに来た。ねえ、ドルニエ。これがどういうことか、分かるかい? ――僕の勝ちだ」
「はあ!? バカ言わないでよ、データさえあればどうにでもなんのよ!」
「そのデータが、きみにはない」

 ざわついたのは、ドルニエを守るように囲んだ防衛員達だ。どういうことかと訝る眼差しでドルニエを見る者もいれば、馬鹿げたことをとハインケルに嘲笑を向ける者もいる。そのどれもが今は煩わしい。今この場にいる全員を、一斉に焼き払ってしまいたかった。
 そんなことはないと言い切れば、ドルニエはこの世の誰よりも憎い相手に心底嘲笑されるだろう。あの男に無能の烙印を押されることだけは耐えられない。だが、そう容易く認められる発言でもなかった。
 葛藤するドルニエに、ハインケルは一歩分だけ近づいてきた。小さな爆発が、鼓膜を殴る。

「スツーカの中にあるデータだけじゃ足りない。よく見れば分かるはずだ。きみはそこまで馬鹿じゃない。同じ薬を作るにしても、……この身体から、血清を作るにしても。すべてのデータは、この中にある」

 そう言って、ハインケルは己の胸に手を当てた。ガラス片が白衣を撫でる。あの切っ先の奥に、核を呑み込んだ心臓が蠢いているのだろうか。

「……アンタを殺してからでも、十分奪えるわ」
「言ったでしょう。殺されないためなら、僕は手段を択ばない」

 そこまで聞いて、疑いは確信へと変わる。今ばかりは優秀な頭が憎い。
 鳩の内部から取り出したデータは、完璧ではなかった。さらりと流し見た程度では分からなかったが、よく見れば中核となる肝心な部分が抜けていた。まるで未完成のパズルのようにぽつりぽつりと欠けたそれに気がついたのは、計画を実行に移してからだ。
 残るデータはハインケルが握っている。自分のペットの体内にデータを隠しておくような男が、簡単に奪える場所に保管しているはずもない。だとしたら、考えられるのは「体内」だ。
 殺すわけにはいかない。今、彼を殺せば、すべてがあぶくとなって消えていく。
 ただ体内に収めるだけなら、それこそ殺せば終わる。ハインケルをどうにかするなど、少し腕に覚えのある人間にかかればいともたやすい。
 そんなことくらい、彼も計算済みだろう。彼が最も恐れる展開を避けるには、「殺されないように」するに違いなかった。

「アンタ、ほんっと頭おかしいんじゃない? 自分の心臓に埋め込んだの、ソレ。わざわざ同期して? ヒトから外れる一歩手前ね!」
「それでも、これで僕は、このデータを理由に殺されることはない。僕の心臓が止まれば、データは消える。たとえ生きたまま胸を裂かれても、同期を解除しない限りは同じことだ。解除せずにそのまま外した場合、その瞬間にデータとはサヨナラだよ。研究記録はこのチップだけ。あとは、僕の頭の中に全部ある」
「脅して吐かせることもできんのよ。知らないの? 拷問ってね、心臓止めなくたってできるんだから!」
「そんな時間、あるの?」

 もうすでに計画は実行されている。ジグダ燃料爆弾はあと一、二時間で爆発することだろう。そうなればこの国は焦土に変わる。
 ハインケルは、ここで始末しなければならない。連れ帰ることは許されない。データを得て、ドルニエが新薬を開発せねばならないのだ。

「アンタがっ、アンタがいなくたって、アタシにはできる! 完璧じゃなくたって問題ないわ! 実験なんていくらでもすればいいのよ、もうデータは十分にある!」
「本当に? 本当に、できるの? ――知ってるよ。カクタスでいろいろやってたみたいだけど、未だに使える薬はできてないみたいだね。いい加減、見限られそうだからここにいるんじゃないの?」

 ――やめろ、そんな目でアタシを見るな。
 自分と揃いの目も、突き刺さる周囲の目も、全部。全部、消えろ。
 擦り合わせた奥歯が鈍い痛みを訴える。爆ぜる火の粉がハインケルを飾った。なにか言わなければならないのに、言葉が痞えて出てこない。
 ――違う、アタシは無能なんかじゃない。違う、違う、違う。

「きみ個人の裏切りか、それとも緑花院がカクタスと手を組んでビリジアンを裏切るつもりだったのかは、分からないけど。どちらにせよ、無謀な人体実験なんてカクタスじゃないとできっこない。きみの飼い主は、あの国でしょう?」
「アタシは誰にも飼われてないッ!!」

 誰かの下につくなどまっぴらごめんだ。顎で使って、使えなくなれば捨てて、別のものに取り換える。今までずっとそうしてきた。誰かに飼われるなんて、そんなことがあるはずがない。
 ハインケルは濡れた前髪を掻き上げ、瞳を露わにして優しく微笑んだ。整った顔立ちが笑みを作る様は、かつて天使のようだと絶賛されていた。


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