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「なあ、スズヤ。あの博士がどういうつもりでこいつら逃がせって言ったか、分かるか」
「へ? そりゃ、向こうに流して混乱させるためですよね? ドルニエ博士を呼び出すためでしょ?」
「その先だ」
「先? 爆弾解除って意味ですか?」

 「いや、」静かに零し、ソウヤは最後のボタンを押した。ビィー、ビィー、とひび割れたような警報が鳴り響き、各部屋の扉が開く。
 解放を知り、感染者達が次々に廊下へ歩み始めた。ある者はがむしゃらに駆け、ある者は生まれたばかりの子鹿のような足取りで。それは異様な光景だった。目の前の廊下を、白に侵された「ヒトだった者達」が通り過ぎていく。薬銃を構える必要はなく、たとえ彼らが逃げ遅れた人々を襲ったとしても、自分達に手出しすることは許されていない。
 青い瞳がその歪んだ流れを見つめ、薄く笑った。

「その先だ、スズヤ。あいつは全部終わらせる気でいる。映画みてぇに、あっさり爆弾解除してみせるだろうよ。自分にはそれができると信じてる。……俺も、それに異論はない」

 目玉をギョロギョロと動かす男が、スズヤと彼らを隔てる強化ガラスに張りつき、拳を打ちつけてきた。ガチガチと鳴らされる歯は、粘ついた唾液の糸に飾られている。
 気持ち悪い。それがスズヤの感想だった。自然と嫌悪に顔が歪む。

「混乱させて、爆弾解除して、その先? テールベルトに帰ったらの話ですか?」
「その前に片付けることあんだろ。お前も案外見えてねぇのな」

 先だの前だの、ピンとこない。頭の作りは悪くないと思っていた分、これには少しカチンときた。
 威嚇をしてくる感染者に、八つ当たり気味に手で作った銃口を向けるそぶりをし、――そこで気づく。

「こいつらの処理ですか」

 ソウヤはスズヤを見ないまま喉の奥で笑い、「ああ」と頷いた。
 当たり前のことをすっかり失念していた。解き放った感染者は駆除しなければならない。そこまで考えて、スズヤは当然のように「駆除」という言葉を選んでいたことに気がついた。
 軽度感染者であれば治療可能だ。駆除という言葉を使えば、たちまち世間に叩かれる。言葉一つになんの意味があるのかと言いたくなるが、そこは重要らしい。だが、ここにいる感染者を見れば、誰も治療などという言葉は浮かんでこないだろう。どう見ても治療不可能な重度感染者ばかりだ。

「仮に、軽度感染者が混ざってても……」
「これだけ重度感染者に揉みくちゃにされてりゃ、あっという間にレベルは跳ね上がるだろうな。そうなりゃ、こいつら全員殺処分対象だ。つか、選り分けてる暇もねぇだろうしなぁ。最初から全員殺す気だったんだろうよ」

 解き放った感染者の駆除は自分達の仕事だと認識していた。だからこそ、面倒なことを頼まれたと思ったのだ。
 違和感などなく、それが当然であるかのように。それが、スズヤ達の仕事だからだ。
 けれどそれを見越した上で動いたのは、上官でもなければ軍人でもない。いつも震えて怯えてばかりの、お勉強が大好きな科学者だ。

「あいつにとって、感染者は人じゃない。もう道具でしかねぇんだろうなぁ。……ま、分かってて協力した俺達に言う資格はねぇのかもしんねぇが、それでもこれだけは言えんだろ」

 そこでようやく、ソウヤがこちらに目を向けた。

「あいつは間違いなく、テールベルトの鬼門だ」


* * *



 アロマキャンドルのほのかに甘い香りが室内に立ち込める。
 ジジ、と音を立てて揺れた炎に、小さな羽虫が飛び込んで爆ぜた。途端に焦げ臭さが漂い、安らぎの空間を台無しにする。とはいえ、最初からこの部屋には、安らげるような雰囲気など存在していないのだけれど。
 ムサシはキャンドルの炎から視線を移動させ、難しい表情で息を殺している男を見た。まだ五十を越えたばかりだろうに、刻まれた皺や白髪交じりの髪はそれ以上の貫録を思わせる。――苦労してますもんねぇ。呟きを笑みに変えて零せば、鷲のような鋭い双眸がちらとこちらを見た。
 そういえば、猛禽類は蛇を食うのだったか。自然界の仕組みをぼんやりと思い出して、今度は破裂音が響くほどの笑みが飛び出した。これには、さすがの彼も訝ったらしい。
 鷲のような鋭い目を持つ男――イセは、静かに佇まいを正して「どうなさいましたか」と問うてきた。

「いいえ、なんでもありません。少し思い出し笑いを」

 昼間でもカーテンをきっちりと閉めきっているせいで、室内は常に薄暗い。電気もつけずにいるのは、キャンドルの淡い明かりを楽しんでいたからだ。いくつか灯せば、目を合わせるのに不自由しない程度の光は得られる。
 揺らめく炎に、淡い香り。植物由来の天然の精油だ。当然安全管理が徹底された温室育ちの一級品で、一般に出回っているような粗悪品とは訳が違う。こんなもの一つでも高級品だ。学者の中には、「白」の成分を取り込むことに繋がるかもしれないと、精油の存在に苦言を呈する者も多くいる。
 柔らかいオレンジ色のキャンドルは、ムサシはともかく、イセには到底似合っていなかった。もう一人、影のように静かにソファに腰を落ち着けているヤマトにも、それは同様だ。
 昨夜の騒動ののち、明け方近くまで議員達に拘束されて罵倒され続けたムサシは、結局ほとんど眠ることができなかった。それはヤマトも同じだろうに、彼はいつもと変わらずそこにいる。
 議員達はヴェルデ基地内に宿泊し、今も会議室でひたすら額を突き合わせているのだろう。ここからどう話を持っていくのか見ものだが、その話し合いに参加する資格はムサシには与えられなかった。それを惜しいとは微塵も思わない。
 くあ、と欠伸を噛み殺し、ムサシもようやっと彼らの前に腰を下ろした。真正面から受け止めたイセの眼差しは、睨んでいるわけではないのにやはり鋭い。

「よく耐えてくれましたね、イセ艦長。先ほど、カガ隊から連絡がきました。無事にヒュウガ隊と合流できたそうですよ。さすがの仕事ぶりですねぇ」

 苦い顔をしたイセは、数秒間を置いて「そうですか」と絞り出すように答えた。
 イセとカガ、そしてヒュウガの三人の艦長の仲がとりわけ良好なことは、ムサシも知っている。友人でもある二人が他プレートにいる中で、たった一人こちらに残されて不動を貫いたイセの胸の内はいかばかりか。
 ――それも、すべてを知った上で。


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