歯磨き

 あの御幸先輩に「もーちょっとゴロゴロしよーぜ」なんて抱きつかれながら甘えられてしまっては、わたしみたいな凡人女子大生は到底抗えるはずがない。だけど寝起きからとんでもない下ネタをぶっ込んできたり、それに反応してムキになるわたしをからかったり、こちらとしては心臓が保ちそうにない。勘弁してくれ。
 それから、やっとのことで身体を解放してくれたのはコタツで爆睡していた沢村と倉持先輩が目を覚ました頃。恐らく30分ほどは甘い声で囁かれながら抱きしめられていたと思う。わたしがガチの御幸選手ファンだったら失神していただろう。

「はぁ……もう、心臓に悪い」

 朝からどっと疲れた。先程までの甘すぎる空気とは裏腹に重い溜息を吐きながら洗面所に移動。軽く洗顔した後に昨日コンビニで買ったばかりの歯ブラシへ歯磨き粉をつけて口に含むと爽やかなミントの味が広がった。うーん、目が覚めるなぁ。

「ちょっとそっち寄ってー」
「ん、ふぁい」

 鏡を見ながら歯を磨いているとメガネを装着した御幸先輩がいつの間にか隣に立っていた。歯ブラシを咥えたまま間抜けな返事を返しスペースを空けると、御幸先輩もわたしと同じように歯磨きを始める。当たり前だけど、この人も歯磨きとかするんだな。なんてバカみたいな感想を抱きつつ、バレないように隣へそっと視線を向けてみる。寝起きで歯磨きをする御幸先輩、もとい御幸選手。レアだな。ちょっとだけピョコンと跳ねている後頭部の寝癖が可愛い。そんなことを考えながら視線を正面に戻すと、鏡の中で目が合った。

「こーやって並んで歯磨きしてっとさぁ」
「はい?」
「どーせーしてるカップルみたいだな?」
「………」

 何を言ってるんだこの人は。最早つっこむ気力も湧かず、かといって照れて慌てふためく気にもなれず。ここは素直に同意した方が賢明だと判断し、無表情で肯定を示すことにした。

「……ソウデスネ」
「ふっ、くく……」

 わたしの顔が余程ツボだったのか、御幸先輩は腹を抱えて小刻みに笑い始めた。この人ホント朝から元気だな。だけどこんな小さなやりとりでさえわたしは心を乱されるらしい。あぁ、ダメだ。これ以上二人きりでいると先輩のペースにやられてしまう。
 さっさと退散しよう。急いで口をゆすぎ、指で口元を拭って部屋に戻ろうとした──のだが、ここでまたしても御幸先輩に捕まってしまった。

「ん、歯磨き粉ついてる」
「どうも……」

 口元に伸びてきた御幸先輩の親指、それはわたしの下唇をなぞるように優しく触れて離れていった。咄嗟のことに頭がついていかなくて思わず固まってしまう、そんなわたしを現実に引き戻してくれたのは倉持先輩の呆れ声だった。

「……お前らもう付き合えば?」

 朝から何やってんだ。そんな文字が書いてあるような顔でこちらを眺めている倉持先輩……の後ろには、相変わらずニヤニヤしている沢村。またこのパターンだ。いつから見てた?ホントに間が悪い。

「だってさ、どーする?」
「知りません!」

 口をゆすぎ、濡れた口元を手で拭いながらそう問いかけてくる御幸先輩も相変わらず悪い顔をして笑っている。本当に勘弁してくれ!そうは思いながらも、自分が咄嗟に返した言葉は拒否を示すものではなかった。それは、つまり。その理由を考えるのが嫌で、わたしは一目散に部屋へと逃げるのだった。


(20210623/#1週間で2個書き隊「歯磨き」より)

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