ポプラの噂
青道高校野球部の三年生が引退し、新たなキャプテンが就任して2ヶ月が経った。それに伴い、一年生からは御幸に続き倉持も一軍入りを果たしたらしい。秋大も終わり、ひと段落したところで今日は軽いミーティングだけやって放課後練習は休み。確か御幸はそう言っていたはずなのに、帰り道の土手を歩いていると野球部専用のグラウンドでトスバッティングを行う御幸と倉持の姿を発見した。しかも何故か二人とも制服姿のままだ。
以前倉持が御幸のことをアイツは一日中野球のことしか考えてないバカだとか何とかぼやいていたが倉持も人のことは言えないと思う。そしてきっとこの二人だけじゃない、青道の野球部全員がそうなんだろう。
あーあ、寮に住んでんだからせめてTシャツにでも着替えればいいものを…そう呆れながら二人の練習風景を見つめていると、わたしに気付いたらしい御幸が声を上げた。
「苗字ー覗きなんて趣味悪いぞー」
「覗きじゃありませーん。帰り道にたまたま見かけただけでーす」
御幸の声につられて倉持の視線もこちらに向けられる。お疲れ様ーと声をかけると今帰りか?と質問が返ってくるもんだから一つ頷いて肯定を示した。どうせわたしは帰宅部の暇人ですよ。まっすぐ家に帰っておとなしく明日の授業に備えますよ。
咎められたわけでもないのに一人勝手にネガティブ思考に陥ってると倉持がバットを放り投げ、地面にしゃがみ込んでいた御幸の肩を引き寄せて何やら密談を始め出した。いきなり何イチャついてんだ、気持ち悪いな。
「あーなんか汗かいたらアイス食いたくなってきた。お前苗字送るついでにコンビニ行ってきて」
「ハァ?今10月だぞ、つーか自分で行けよ」
「まーまー!俺の奢りでお前も好きなモン買っていいから、な、頼むよ」
「…ホントにアイスが目的か?」
「ヒャハハ!分かってんなら早く行けっつーの!」
苗字ー!御幸が今からコンビニ行くっつーから一緒に行ってやって!
しゃがみ込んでいた倉持が急に立ち上がったかと思えばいきなりそんなことを言うもんだから、訳が分からず声を上げて聞き返した。
「え?練習はー?」
「一旦休憩すっから気にすんな!ついでに家まで送って貰え!」
なるほど、コンビニ云々は建前でわたしを家まで送るのが本音か。心配しなくてもわたしなんかに声をかける不審者なんていやしないのに。こんな顔して倉持はなかなかにフェミニストらしい。自分が送ろうとはしてくれないけどね。だが「最近暗くなんのはえーからな、御幸に襲われんなよ!ヒャハハ!」は余計だと思う。あんたが送れって言ったんでしょ。矛盾にも程がある。
わたしのもとへ駆け寄ってくる御幸にどんな顔を向ければいいのか、そんなことを考えていると隣に並んだ彼の顔はどこか引き攣っていた。うん、とても気まずい。
「バカはほっといて行くぞ」
「…はーい」
*
倉持から千円を受けとった御幸の背中を追って学校近くの並木道を歩くと、風が吹く度にポプラの葉がざわざわと音を立てた。顔を上げれば葉の隙間から柔らかい西日が顔に当たる。もうすっかり秋なんだな、そう感じた。
あの暑い夏の日がつい昨日のことのように思い出せるのに、光陰矢の如しと言うべきか時間が経つのはあまりにも速い。準決勝敗退という過去を引きずる間もなく前に進む御幸の姿勢は、春と比べてますます逞しく見えた。
「一年のクセに生意気」
校内にいるだけでそのフレーズを何回聞いただろう。普段の学校生活でも気分が悪くなるくらいだ、グラウンドや寮ではそれ以上に先輩や同級生から陰口を叩かれたに違いない。なのに御幸は顔色一つ変えず飄々とした態度で笑っていた。それが周りの人間の神経を逆撫ですると分かっていながら。
強いなぁ。それが率直な感想だった。だけど、どれだけ強い人間にも必ず一つは気の休まる場所があるはずだ。例えばわたしの場合、自宅のベッドがそれだ。外の世界でどれだけ嫌なことがあったとしても、自室へ戻りふかふかのベッドにダイブしてしまえば一晩で気持ちをリセットできるから。だけど御幸はそれができない。自由のきかない寮での生活を強いられている彼は四六時中野球に囲まれて生活してるようなもんだ。グラウンドを離れて自分の部屋に帰ったからとはいえ、チームメイト三人で一室の空間。そこで一日の疲れを取り、気を休めるなんて到底無理だと思った。なら――御幸は、一体どこで気を休めているというのだろう。
「東京でも秋の匂いってするんだね」
「は?あー、金木犀?」
「それもあるけど何て言うか…枯れ葉の匂いが冷たい風に乗って鼻の奥がツンとする感じ?」
「はっはっは!犬かよ」
苗字は鼻が利くなーなんて腹を抱えて笑い出す彼にどうせわたしは田舎育ちですよ、と口をへの字に曲げた。グラウンドでも、御幸は今みたいにこうして腹の底から笑うことがあるんだろうか。
( そりゃあるだろうけど、さ )
誰に何を言われても笑顔を絶やさない彼を見てるとどうにも心配の念が拭えないのだ。わたしはコイツの母親か。母性本能なんてものが芽生えるには10年早いと全国のお母さん達から喝を入れて欲しい。
「んなトコで何突っ立ってんだよ、置いてくぞー」
「…あぁ、うん」
紅く色付き始める秋の景色に、顔だけはいい御幸の制服姿はよく映える。だけど、記憶の中にある、2番を背負った夏空の下のユニフォーム姿のほうが眩しく見えた。夏が終わってまだ二ヶ月余りだってのに、夏が待ち遠しいなんておかしいだろうか。
母性本能なんかじゃない。そんなんじゃない。そんなものじゃ、ない。
女心と秋の空とはよく言うけど、とうとうわたしもおかしくなったかな。弱音を吐かないことが強さだとは思わない。御幸だって、たまには弱音吐いたっていいんだよ。それが言えたらどれだけ楽になれるだろう。
「…なんてね」
中途半端な想いでそんな言葉を口にできる程、わたしはまだ自分を見失っちゃいない。
…だけど、いつか御幸にも。喜びも哀しみも、強がりも弱音も、全てを打ち明けられる、ひだまりみたいに暖かい場所ができるといい。そう願わずにはいられなかった。
(20111017)