背徳の標

「チッ、またこんなとこに逃げやがって」
「どしたの倉持」

 まだ暑さ冷めやらぬ9月の風を感じながら休憩時間を中庭で過ごしてると、突如目の前に現れたのはまるで一人二人殺してきたような殺気を放つ倉持だった。
 いつぞやと同じように私の隣に腰を下ろして不機嫌そうに溜息を吐くあたり、もしかしなくてもわたしに文句があるらしい。もっとも、何を言われるかなんて概ね予想はついていたけど。

「なんか最近御幸のこと避けてねーか?」
「そう言うわけじゃないけど…なんか忙しそうだしピリピリしてるから、そっとしといた方がいいのかなーと思って」
「弱音を吐き出せる場所ってやつになるんじゃなかったのかよ」
「まぁ、そう思ってたんだけどね…いざキャプテンになられると怖気付いちゃってさ」
「ハァ?」
「わたしなんかが御幸の支えになれるのかなって」

 今更何言ってんだコイツ、そんな目を向けられて思わず視線を逸らしてしまう。そうだよね、うん、分かる分かる。わたしだって夏大前まではそのつもりだったんだよ。
 だけどここへ来て御幸一也という人間の格の違いを改めて気付かされてしまったんだから仕方ないじゃないか。

 主将というポジションを任されてから急に手の届かない存在に思えてきて、隣に並ぶことすら烏滸がましいと感じるまでになってしまった。ただの一般人であるわたしが何を一人で意気込んでいたんだろう。自分なんかが彼の支えになろうだなんてとんだ身の程知らずだ。穴があったら入りたいとはこのことで、ついでに滝があったら打たれたい。

 そんなわたしの心情を察してか、倉持はまた一つ深い溜息を吐いて口を開いた。

「キャプテンになったからって御幸は御幸だろ、それにあいつがお前のことどう思ってるかなんてとっくに気付いてんだろ?」
「…それ今関係ある?」
「なんでそうやって逃げんだよ!」

 いきなり声を荒げる倉持に驚くも、責められている事に対してカチンときたのもまた事実。なんであんたにそんなこと言われなきゃなんないの?

「御幸はチームの要で主将なんだよ?上に立って後輩に示しをつけなきゃいけないでしょ」
「だからどーしたんだよ、キャプテンが彼女作っちゃいけねぇなんて誰も言ってないだろ。うちは恋愛禁止令なんてハナからねーんだよ」
「甲子園行くのがどれだけ大変なことかわたしにだって分かってるよ!強豪校だらけの西東京地区のてっぺんに立たなきゃなんないんだよ?あの先輩たちがいたって届かなかったんだから、浮かれてる場合じゃないじゃん!」

 堰を切ったように溢れ出すのはわたしの中に湧いていた焦りと不安の塊。
 支えてあげられるものなら支えてあげたいし、弱音を吐きたいならいくらでも聞いてあげたい。ずっと傍で見てきたんだから、御幸の何もかもを受け止める自信だってある。

 だけどわたしが傍にいることを良く思わない人が出てくるかもしれない。それだけは絶対に嫌だ。ここへ来て、足を引っ張る存在にはなりたくない。

「何ムキになってんだよ…」
「あんたが変な言いがかりつけてくるから!」

 思わず感情的になってしまったが、もうどうにも止められない。通りすがりの生徒の視線が痛いけど、そんなもの知ったこっちゃなかった。

「そこまで分かってんなら言うけどよ、そのクソ重いプレッシャー背負ってバカみたいに練習してるあのメガネを生かすも殺すもお前次第なんだぞ」
「…それはさすがに買い被り過ぎでしょ」
「誰のせいであいつが腑抜けたツラになってると思ってんだ、お前以外に誰がいんだよ!」

 珍しく真面目な顔してそんなこと言われたら嫌でも自惚れるに決まってる。倉持がそこまで言うならきっとそうなんだろう。だけど、どれだけ頭で理解してても怖くてここから動けない。

「なら、どうしろって言うの…」
「御幸がキャプテンになったぐらいで今更ビビってんじゃねーぞ」
「…っ、」

 弱気な発言にトドメの一発をくらってさすがのわたしも心が折れた。そんなのとっくに気付いてた。わたしが逃げてるのは自分に自信がないから。
 御幸の隣に立つことが怖くて、ただ臆病になってるだけだ。

「そうやってウジウジしてる間に御幸に彼女ができてもいいのかよ」
「それは………嫌だ」
「分かってんじゃねーか」

 情けなく俯いたわたしの頭をぺしんと叩いて、倉持はその場に立ち上がる。痛くもないのに痛いと呟くと、「うるせぇ」とぶっきらぼうな声が返ってきた。愛の鞭ってやつかな。見上げた先にはふんぞり返ってる彼がいて、この男には敵わないと思った。

「…なんでそこまで必死になってくれんの?」
「お前らがいつまで経っても煮え切らねぇツラしてっからイライラすんだよ!鏡見てみろ!」

 捨て台詞を吐いて立ち去る様子を呆然と見つめながら思う。千葉の元ヤン、見た目は怖いけどちょっとお節介で、本当に人のことをよく見てるな。
 ポケットに入れていたケータイを開き、真っ暗な画面を鏡代わりにしてみる。確かにそこには表情の冴えない女がいて、死んだ魚みたいな目をしてわたしを見つめ返していた。


(20201220)

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