右手の小指

「御幸一也と一緒にいた女性をご存知ですか」

 朝練と朝メシを終えて授業の準備をしていると沢村が怒りながら部屋に戻って来た。御幸と女性?誰のことだ。新しいマネージャー希望者が来たなんて聞いてねぇし、昨日は女性記者の取材もなかったはずだ。

「は?何のことだよ」
「昨日自主練で投球練習に付き合ってもらおうと思って探してたら見知らぬ女と歩いてたんですよ!」

 俺という後輩がいながら一般人を優先させるとは〜!とかなんとか唸る沢村を横目に昨日の記憶を呼び起こしてみる。あ〜なるほど。そういや御幸、苗字とケータイショップに行くって言ってたな。二人で歩いてるところでも見かけたんだろう。
 別にただのクラスメートだよ、そう伝えようとした瞬間ハッと悪巧みが働いて口を噤む。外堀から埋めてくってのも悪くねぇな。我ながら天才。
 教室でも食堂でもねぇんだから盗み聞きされる心配なんてこれっぽっちもないのに、俺は思わず沢村の肩を引き寄せていた。そして自分の右手小指を立てて見せながら耳打ちする。

「よく聞け、昨日お前が見た苗字は御幸のコレだ」
「は?」
「アイツに気に入られときゃエースの座も夢じゃねぇぞ!」

 なんつってな!ヒャハハ!笑いながら近年稀に見る極上のネタを仕込むと沢村の目がキラキラと輝く。御幸もコイツにイジられる日が来るなんて夢にも思わねぇだろう、あのクソメガネがどんな反応するか見物だな。そんなことを考えてるとそそくさと着替えを済ませた沢村はいつの間にか消えていた。

「よっしゃー!待ってろ御幸一也の子分!」

 意気揚々と部屋を飛び出していった沢村の独り言が耳に残る。あれ?ちょっと待てよ、アイツ小指の意味勘違いしてねぇか?







「御幸一也という男はいらっしゃいますか!」
「あぁ、御幸ならあそこに…」

 見慣れない顔だ、野球部の一年生かな。気合十分、といった雰囲気で教室に乗り込んできた活発な男の子は御幸に用があるらしい。
 もしかして御幸が言ってた元気が有り余る後輩ってこの子のことか。うん、噂通り確かに元気だ。そしてうるさい。
 少々失礼なことを考えていると、そんな彼がわたしをじっと凝視していた。もしかして心を読まれたのだろうか。

「はっ、アンタは……!」
「え」
「御幸一也の子分!」
「はぁ?」

 どこからつっこんでいいか分からないが、とりあえず1番ムカついたことに対して釘を刺しておくことにする。初対面の先輩に向かってアンタ呼ばわりはよくないよ?にっこり笑いながらそう諭すと、ヒィ!ここにもお兄さんの悪魔の笑み!と叫ばれた。お兄さんって誰だ。そして誰が誰の子分だって?聞き捨てならん。
 お目当ての御幸の元へ半泣きの彼を引きずっていくと、なんで沢村が苗字に引きずられてんの?どういう組み合わせ?と呆れている。呆れたいのはわたしの方だ。

「あなたは一体どんな後輩教育をしてるのかしら」

 冷静さを装って聞いたつもりが、目の前の御幸は顔を引き攣らせて萎縮しながら苦笑している。あぁ、わたし今すごい怖い顔で笑ってるんだろうな。そんなやりとりを見て更に怯んだらしい彼、沢村くんが「だって御幸一也のコレだって…」と自身の右手小指を立てながらそう嘆く。

「俺が沢村にそんなこと言うわけねーだろ…どうせ倉持が変なこと吹き込んだんだよ」
「ほぅ、なるほどね…」 

 教室を見渡してみるがどこにも姿は見えない。もうすぐ授業始まるってのに逃げたなこのやろう。
 とりあえず沢村くんが大きな勘違いをしているようなので誤解を解かねば。引きずっていた彼のカッターシャツの首元を離し、咳払いを一つ。わたしは子分じゃないからね。仁王立ちで彼を見据えながらそう告げた。

「だいたいなぁ、この小指ってのは子分じゃなくて女って意味…」

 そこまで言って御幸が固まった。なんならわたしも固まった。補足しようとしたのはいいが、出て来た言葉はとんでもない起爆剤で。わたしがリアクションするより早く、沢村くんは新たな爆弾を投下した。

「ん?アンタ御幸一也の彼女なんすか?」

 いつのまにかしんと静まり返る教室内に沢村くんの声がよく通る。君はとんでもないものを落としてくれたな!

「いや、違、」
「…今はまだ彼女じゃねーけど、いつかそうなる予定だよ」
「おぉ!」
「はぁ!?」

 思わず発した素っ頓狂な感嘆詞が文字通り教室に響いた。一体どうした御幸一也。
 新年度を迎えてからというもの、御幸の態度がどこかおかしいと感じてはいたが、まさかこんな突拍子もないことを言い出すなんて本当にどうかしている。春の風にでもやられたか?それとも一年ピッチャーの攻撃に参っておかしくなった?正捕手二年目なのに大丈夫か?
 そう混乱しているわたしを気にも留めず、男っすね!なんて笑ってる沢村くんよ、空気を読んでくれ。君は本当にバカなのか。

「分かったらさっさと教室戻れ」

 しっしっ、と犬を追い払うような目と仕草で沢村くんを追いやる御幸に負けじと「今日こそクリス先輩と作り上げた俺の球を受けてもらうからな!」と言い残し、沢村くんは自分のクラスへと戻っていった。
 彼が立ち去って何とも言えない気まずい空気が流れる中、嵐のような子だったな、と謎の疲労感に包まれた。

「さっきの、何」
「あいつバカだからああ言っときゃ黙るんだよ」
「はぁ…」

 そうなのか?そういうものなのか?なんだか上手いこと言いくるめられたような気もするが、当の本人が飄々としているのにわたしが取り乱すのは変だと思ったので大人しく受け入れることにする。それに根本的な問題を考えると御幸だって被害者の一人なのだ。

「とりあえずこの件に関しては倉持をシメるしかないと思うので増子先輩にお願いしといてください」
「おう、それに関しては任せとけ」

 倉持マジで覚悟しとけよ。内なる焔を燃やしつつ再び御幸に目をやると、わたしから視線を逸らし気まずそうな顔で口をへの字に曲げていた。
 なんだ、やっぱり気にしてるじゃん。


(20201114)

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