神様の受け皿

 飛行機と電車を乗り継いで地元に帰省し、駅の改札を出た瞬間に胸いっぱいに冬の空気を吸い込んだ。冷たい風がツンと鼻について、思わずくしゃみが出そうになるのを堪える。冬が来たなぁ、って感じるそれすら、わたしは好きだった。

 午前中におばあちゃんの墓参りと親戚への挨拶を済ませ、懐かしい風景を眺めながら道を歩く。数か月前までは青々としていた葉も枯れ落ち、すっかり冬の装いとなっていた。大好きだった金木犀の香りもなく、鼻腔をくすぐるのは冬の匂いだけ。
 午後一時を過ぎて待ち合わせ場所の河原に向かうと見慣れた背中を見つけたから、驚かしてやろうと抜き足差し足忍び足で静かに忍び寄った…つもりだったのに。

「よー。久しぶり」
「チッ、バレたか…」

 彼はわたしのいたずら心なんて知る由もない。相変わらず屈託のない笑顔を向けてくるもんだから、苦笑いして両手を挙げるしかなかった。

「都会の生活は慣れたんか?」
「んー、まぁぼちぼちね」
「その顔だと上手くやっとるみたいじゃの、安心したわ」
「はは、ありがと」

 心地いい風が吹く河原に腰を下ろして空を見上げると、東京で見るそれと変わらない色をしていた。本当なら、彼と同じ制服を着て同じ高校に通い同じ時間を過ごすはずだった。ずっとこうして肩を並べて笑い合ってると思ってたけど、それは叶わない。
 ふと彼に目をやると最後に会った時に比べて背は伸び、肩幅は広くなり、男のくせに頼りないと思っていた掌も逞しく成長していることに気付く。いくら電話やメールで連絡を取っていたとしても、こうして直接顔を合わせることには敵わないと思った。
 たった数ヶ月会わないだけでこうも印象が変わってしまうのは彼が成長期の男児だからからなのか、それとも、彼を取り巻く環境がそうさせているのか。傍にいないわたしには、分からない。もっとも、それは彼にだって言えることかもしれないけれど。

「どしたんや、俺の顔ジロジロ見て」
「やー…しばらく会わんうちにすっかり男子高校生じゃなーと思って」
「それを言うならお前だって都会の女子高生じゃろーが。何、俺ますますイケメンになった?」
「うっざ」
「はっはっは、照れんなや」
「!」

 不意に笑う彼の表情に御幸が重なった。なんで今あの男の顔なんて思い出すんだろう。…ああ、そうだ、御幸もこんな笑い方してたっけ。
 ここには青道の寮もグラウンドもないのに、いつも通り過がりに見てた光景が瞼に浮かぶ。放課後になるや否やユニフォームに着替えてグラウンドに向かい、声を上げて走り回る姿。わたしはいつも、帰宅しながらそれを眺めてたっけ。変なの。ここにいると、東京の生活が遥か昔のことにすら思えてくる。思い出なんかじゃない、それが今のわたしの現実なのに。

 風が吹いて河原の雑草が揺れる。サワサワと音を奏でるそれは、いつだったか御幸とコンビニに向かった時に歩いたポプラの並木道に似ていた。だけどあの時の金木犀の匂いはない。季節はもうすっかり冬になって、ここには並木道なんてなくて、東京の面影なんて一欠片もないのに。
 そんな当たり前のことを頭の隅で考えてると、そう言やぁさ、という彼の声で現実に引き戻された。

「お前が通っとんのって青道だったっけ?西東京の野球強豪校なんよな?」
「うん、向こうの連中もあんたと一緒で朝から晩まで野球馬鹿よ」
「グラウンドとか設備とか凄いんじゃろーな…部員も多いって聞くし、俺らと同じ一年のクセに雑誌に取り上げられた奴もおったよな?」
「あー…そう言えばそんな記事もあったね。グラウンドじゃ真面目に捕手しとるみたいじゃけど、クラスじゃ変人扱いよ」

 生意気で性格が悪い、口を開けば厭味ばかり。そんな御幸の決まり文句が頭に浮かんでふっと笑いが込み上げた。

「…そいつのこと気になるんか?」
「え?なんで」
「そういう顔しとるで」

 何か思うところがあったのか、彼はわたしを見てそう笑った。怒りでも嫉妬でもない、穏やかな表情で。
 それが何を意味しているのか、わたしには分からない。予想外の返答に困惑してると彼は苦笑いしてわたしの頭を叩いた。

「そんなマジになんなや。冗談だって」
「はは、いきなり変なこと言うけぇビックリしたよ」
「…でも、しんどくなったらすぐに言えよ。なまえの重荷になるつもりないけぇ」
「うち、そんなん思ったこと一回もないよ」
「…ホンマか?」
「ホンマよ、何も変わっとらんよ」

 彼はきっとわたしの本音を探ってる。若干の不安を交えながら。だけど無理強いに詮索したり追求したりはしない。この人は昔から、わたしを責めるようなことは何一つ言わない優しい人間なのだ。ただ、その優しさが……今は少し苦しい。

「まぁ安心したわ、方言抜けとらんみたいじゃしの」
「当たり前じゃろ、何年こっちに住んどったと思っとん」

 とは言いつつも、向こうで標準語を喋ることに慣れてしまったことは敢えて言わないでおくことにする。そんな簡単に地元魂を売った安い女だと思われたくなかったから。
ちょっとした罪悪感に胸を痛めつつ再び彼に目をやると、相変わらず穏やかな表情をしていたのでホッと胸を撫で下ろした。

「ま、ちょっとだけならそいつのこと応援するの許しちゃるわ」
「それは浮気の許可ってこと?」
「いや、浮気は許さん」
「冗談です」

 お前なぁ、と苦笑いしながらわたしの頭をくしゃくしゃに掻き回す彼の掌は優しくて温かいのに、何故か胸が苦しい。彼がそいつそいつと連呼するのは、生意気で性格の悪い、いつも自分の本音を見せない御幸のこと。
 もしも彼と御幸が対決するとしたら、それはきっと甲子園の舞台。瞼を閉じて想像する。青い空に映える真っ白な積乱雲に、眩しい太陽の日差し、キラキラ光る汗と、球場をうめつくす歓声。そのときわたしが勝って欲しいと願うのは?

( 何、くだらないこと考えてんだ、わたしは )

 そんなこと、考えたくない。考えたくない理由も自覚したくない。誰にも言えないくらいなら、このままずっと気付きたくない。自分はずるくて卑怯で、臆病者だ。


(20131027)

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