5-1.

 さおりさんと外でランチを済ませたある日、源田法律事務所に戻ると、応接用のソファーには神妙な面持ちで腕を組んでいる源田先生と、この間知り合ったばかりのレザージャケットの背中が向き合うように腰を下ろしていた。

「お昼ありがとうございます、戻りました」

 そう言ってから「八神さん、こんにちは」と小さく会釈しつつ黒い背中に声を掛ける。すると、ソファーに着席していた二人の視線が一気に私へと集中した。
 源田先生は腕を組んだまま怪訝な表情をしているのに、八神さんはそれとは正反対に初対面の時と同じようなにこやかな笑顔で、その温度差に思わず小さく首を傾げてしまう。
 ちょいちょい、と私に向かって手招きをしている八神さんに引き寄せられるように近づきつつ隣を確認すると、ついさっきまで横に立っていたはずのさおりさんはさっさと自席に戻ってしまっていた。

「名前ちゃん、いきなりなんだけどちょっと力を貸してほしい」

 力を貸してほしい。それはつまり、八神さんは私に何かを手伝ってほしいという認識で間違いないだろうか。
 探偵業を営む八神さんが源田法律事務所にやってきて、弁護士でも何でもないただの事務員である私なんかを頼る理由がすぐには思い浮かばなかった。
 とっさに思い付いたのは、八神探偵事務所の案件書類のファイリング整理や掃除である。それならば、確かにうちの弁護士先生たちではなく私が適任だろう。
 先日八神さんの事務所を訪れて初めて中を拝見した時、重要そうに見える書類がかなり雑に棚に挟まり、顔を覗かせていたことを思い出した。

「私に出来ることでしたら……」

 お役に立てることなんてきっと限られてますけど、と付け足すと、八神さんはそんなことないとでも言うように首を振り、私を源田先生の隣に座るように促した。
 失礼します、と言いながら腰を下ろしつつ、横目でちらりと源田先生の様子を伺うと、先生は相も変わらず渋い顔で腕を組んだままだ。

「今回名前ちゃんにお願いしたいのは、カップルの彼女役なんだけど」

 八神さんの言っていることが理解できず「え?」と思わず声を漏らした私の顔にはきっと、源田先生と同じような表情が浮かんでいたに違いない。

「あのすみません、ちょっと話が……」

 八神さんが言うには、この神室町にはつい半年前まで変態三銃士と呼ばれる俄かには信じられないようなネーミングの大迷惑犯罪者が存在していたらしい。
 その時点で私の頭の中はいっぱいいっぱいになってしまってるというのに、目の前にいる八神さんは至極真面目な表情で話を進めていく。表情と話の内容の乖離が激しすぎる上、私のような神室町初心者とってこの話を早々に理解するという事はあまりにも難度が高い。
 そして、その変態三銃士は以前八神さんが依頼を受けた案件で、既に全員を捕まえて警察に引き渡しており、現在は収監されている、というのがこの話の前提というか導入らしい。
 そんな濃すぎる変態が複数名存在していただなんて、さすが神室町としか言い様がない。

「で、今回俺の所に依頼を持ってきたのは神室町ホテル街のオーナー達なんだけど」

 神室町のホテル街というのは、ちょうどこの源田法律事務所があるビルを出て左手に見えるバッティングセンターの坂をのぼったあたりに存在する。
 変態三銃士は捕まえたはずなのに、なぜか最近そのホテル街で盗撮被害が多発しており、その風評で利用者が減ったことによりホテル側が大損害を被っているらしい。
 しかし、以前ホテル街で盗撮を行っていたデバガメ判事と呼ばれていた男は八神さんにより懲らしめられ、既に捕まっている。
 つまり、今回はそれに影響を受けた何者かが模倣犯のように行動を模しているらしい。

「で、前のヤツは部屋の中盗撮して勝手に有罪とか無罪とか判断してネットに上げたりしてたんだけど、今回のヤツも調べてみたらまあアクが強そうでさ」

 神室町を歩いてる仲が良さそうなカップルを付け狙って、ホテルに居るところ盗撮してアップして、最終的に険悪な雰囲気にして別れさせるのが狙いっぽいんだよね。
 そう言葉を続けた八神さんに対して「そうなんですね……」なんて返してみたものの、ここまで飛び抜けて現実離れした話を聞かされ続けている私の理解力は既に著しく低下してしまっている。
 上澄みだけを掬ってなんとか頭をフル回転させながら要約すると、ホテル街に客を戻すために盗撮をした上ネットに流している犯人を捕まえたい、ということで間違いないだろうか。
 そこで急に合点がいった。最初に八神さんが発した「カップルの彼女役」というワード。つまり、それを私にやってほしいということなのではないだろうか?

「捕まえるためにカップルとして歩き回って犯人を釣ろうと思っててね。ってことで最初の話に戻るんだけど、名前ちゃんには囮のカップル役をやってほしいんだ」

 そんな八神さんの言葉を聞きながら、私って意外と冴えてるのかもしれない、なんて思ってしまった。
 八神さんは私の横で座ったまま何も言わない源田先生に体ごと向け、居住まいを正したのち「そんなわけなので、名前ちゃん貸してください!」と懇願するように両手を合わせた。

「その話、俺はさっきも聞いたけどよ、危ねえことには違いないよな? その盗撮魔が凶器みたいなモンを持ってない保証もないわけだし」

 ずっと黙っていた源田先生がようやく口を開く。いつだって心配性な源田先生が眉間に皺を寄せて黙りこくっていた理由がハッキリしてよかったけれど、のうのうと生きてきて碌に護身術なんかも身につけていない平々凡々の極みみたいな私が関わっていい案件なのか、些か不安があるのも確かだ。

「もちろん名前ちゃん達のことは俺がずっと追けていきますし、一緒に歩かせる相手役もボディーガードになるようなヤツ付けるつもりです」

 そこで、私は思わず首を傾げていた。
 聞き間違いでなければ今、八神さんはボディーガードになるようなヤツをつける、と言わなかっただろうか?
 すっかりその相手役とやらは八神さんなのだろうと思い込んでしまっていたが、それはどうやら違うらしい。
 確かに、少し考えてみればカップル役をやりながら背後や周りの様子に気を配って行動するのは探偵といえど難易度が跳ね上がるに違いない。

「あの、八神さんと私が囮役やるわけではないってことですか……?」
「うん、俺は二人の後ろついていきながら監視しつつ指示飛ばすよ。……って言ってなかったっけ?」

 ちなみにその相手役は杉浦に頼むつもりだから、とさらりと言い放った八神さんに、最早「聞いてないです」と些細な反論を挟むことすら出来なかった。
 軽く聞こえた「お手伝い」が、まさか本物の探偵業の手伝いという意味だったなんて。
 立て続けに聞かされた衝撃的な内容にぽかんとしてしまっていたが、八神さんは元々この源田法律事務所が古巣であるし、お互いに持ちつ持たれつな部分もある。少しでもその力になれるのならばもちろん協力したいと思うけれど、果たして私にそんな大役が務まるのだろうか。
 そんな思考を頭の中で巡らせていたら、いつの間にか応接デスクの横にさおりさんが立っていることに気づく。
 さおりさんは源田先生と私に視線を向けてこくんとひとつ頷いたのち、その視線を八神さんに向けた。

「困ります、名前さんだって暇じゃないんです」

 そんなさおりさんを見ながら、八神さんがほんの少しだけ口の端を上げたのを私は見逃さなかった。
 彼は自分の横に置いていた紙袋をさおりさんに向かって掲げると「まあ待ってよ。さおりさん、これなんだかわかる?」と小さく首を傾げながらどこか得意げに問う。
 瞬間、レンズの奥で訝し気に細められていたさおりさんの瞳が大きく見開かれた。

「それはまさか、最近駅の近くに出来た洋菓子店の袋では……!? そして常温で置いてあるということはフルーツパウンドケーキですね……?」

 その早すぎる回答に、私は現れた救世主の砦が脆くも崩れ落ちてゆく音を聞いた気がした。

「さすがだね。これ、さおりさんにって買って来たんだけど……」
「すみません名前さん、頑張ってください」

 差し出された紙袋をひったくるように受け取り、大事そうに抱え込んださおりさんの表情はいつもの如く冷静なものに戻っていたが、その表情の裏には隠しきれない嬉しさが滲んでいた。そう、冷静沈着な城崎さおり先生はとんでもない甘党なのである。
 さすが八神さんとしか言いようがない。動揺している私にさおりさんが助け船を出してくるのを見越して、それをすっぽり買収してしまう用意までしているなんて。
 ひとつだけ分かったことがある。それは、神室町で探偵としてやっていくならばこれぐらい頭の回転の速さと強かな狡猾さを備えていなければならないということだ。

「もちろん名前ちゃんにはバイト代も出すよ。無理言ってんのはわかってる、けどお願いします!」
「……わかりました、私でお役に立てるなら」

 よっしゃ、と小さくガッツポーズをする八神さんを見ながら苦笑していると、源田先生が「うちの働き者を危ねえ目に遭わせたら、もうおまえのとこに仕事回さねえからな」と低い声で言った。

「もちろん、全力で護衛しますよ」

 男二人でね、と八神さんが付け足した。 
 そうだった。先程は流してしまったが、その囮のカップルの相手役をするのはあの杉浦さんらしい。顔見知りで良かったと思う反面、また迷惑を掛けてしまうんじゃないかと一抹の不安を覚える。彼には助けられてばかりなことを思い出しながら、ほんの少しだけ気が重くなった。


***


 呼び出された八神探偵事務所の中、応接用のデスクを挟んで八神さんと向き合っている僕の口から漏れた溜息は思いの外大きかった。

「で、僕はそんな話全く聞いてないのに勝手に進めちゃったんだ?」

 ほんの少し棘のある言い方をしてしまった自覚はある。
 知り合ったばかりとはいえど、彼女が押しに弱かったり断り下手なのは既に知っている。お願いします、と頭を下げられようものならば頷いてしまうに違いない。私でお役に立てるのなら、なんて言っている姿が容易に想像出来る。
 変質者の囮になるという決して油断出来ない内容ではあるけれど、後ろからは八神さんが、そしてすぐ隣を僕が固めていれば大抵のハプニングには対応出来るだろう。
 そして、彼女に話をする前にちゃんと源田先生の承諾も得ているのだという。つまり、僕が今更ああだのこうだのとのたまうのもお門違いである。
 ちなみに、この依頼を請けて八神さん命名「ニセカップルを囮にしてデバガメ模倣犯を釣ろう作戦」を思いついたとき、海藤さんが一番に名乗りを上げたらしい。
 しかし、海藤さんと名前さんじゃ目立ちはしても普通のカップルには見えない、ということで僕にお鉢が回ってきたのだ。

「頭の中で海藤さんと名前ちゃん並べて二人で神室町歩かせてみなよ」
「わかったわかった、お仕事恵んでくださってアリガトウゴザイマス」
「さすが杉浦、話が早くて助かるよ」

 そんなわざとらしいヨイショに苦笑いで返すと、八神さんは「そうだ、さおりさんからおまえに伝言」と何か思い出したように言った。
 小首を傾げて「え、僕に?」とそのあとの言葉を待つと、八神さんはニッと歯を見せてどこか楽しそうに笑う。

「名前さんのことよろしくお願いします、ちゃんと守ってあげてくださいね、だってさ」
「……はいはい、城崎先生に言われちゃったら頑張らないとね」

 源田先生もそうだけど、城崎先生と名前さんは仲良しらしいから八神さんの仕事依頼に何も口を挟まず名前さんを差し出したという想像はし難い。
 きっと、城崎先生のことは彼女が喜ぶような何かで買収したのだろう。先ほど、八神さんは僕に向かって「さすが」なんていう言葉を贈ってきたが、それは寧ろ八神さんにこそ相応しいと思う。

「それで名前ちゃん、夕方以降に打合せがてらここ寄ってくれることになってるんだけど、おまえこの後時間ある?」
「うん、大丈夫だよ。今日はもう特に何も無いから帰るだけだし」
「そっか。じゃあとりあえず、こないだ留守番頼んでた時に二人でランチ行ってた話でも聞かせてもらおうかな」

 そう言われて、思わず咄嗟に「うわあ……」と声を上げてしまった。そんな僕のリアクションを見ながら八神さんはニヤリと口の端を上げる。

「こわすぎでしょ、何で知ってんの?」
「俺の神室町での顔の広さ舐めんなよ」

 今ここに海藤さんが居なくて良かったと心底思う。でも別に後ろめたいことがあるわけでもないし、留守番を任されていた午前中をすべて睡眠時間に充ててしまったことはどうやらバレていなさそうだ。そういえば、なんか最近こんなのばっかりだな。
 八神探偵事務所の扉をノックする音が聞こえてきたのはそんな時だった。
 二人掛けのソファーに座っていた僕が振り返ると、ちょうど扉を開けて「こんばんは、お邪魔します」と中を伺うように顔を覗かせたのは名前さんだった。これ以上ないってぐらいのナイスタイミング、まさしく女神降臨って感じだ。

「あれ、もしかしてお取込み中……だったりしました?」

 もう少し外で時間潰してましょうか、と気を利かせて提案してくれた彼女が今すぐにでも踵を返しそうだったので、慌てて「いやいやなんでもないよ、お仕事お疲れ様」と引き留める。
 僕に向けていた不安そうな視線を八神さんに移した名前さんに対して、八神さんがひとつ頷いてみせたところでようやく彼女は安堵の表情を見せた。
 八神さんはこっそりと僕の耳元で「よかったね、このタイミングで名前ちゃん来てくれて」と小声で耳打ちをしてきたが、その声音にはやっぱりどこか楽しそうなニュアンスが含まれていてほんの少し悔しくなった。

「よし、じゃあ早速お二人さん、並んでみよっか」

 八神さんはソファーに座ったままだった僕を立つように促したのち、背中を押して入口の傍で棒立ちになっていた名前さんの隣へと半ば強引に誘導する。
 少しだけ離れた位置で腕を組みながら、僕と名前さんを交互に見遣る八神さんの表情は紛れもなく真面目モードである。ちらりと右隣に視線をやると、彼女は硬直してしまっており明らかに緊張しているのが見て取れた。

「うーん、いい感じなんだけど……ちょっと距離感じるかな。ごめん名前ちゃん、杉浦と腕組めたりする?」
「えっ!? 腕、ですか……!?」

 どうやら、この打ち合わせというのは実際に並んでみてちゃんとカップルに見えるか、という部分に焦点を置いているらしい。
 八神さんの言葉に動揺を見せた名前さんは、驚いたように声を上げたのち僕の表情を確認する。こちらに向けられたその視線に「大丈夫ですか?」の意が込められているのは明らかだったので「はいどうぞ」と右肘をほんの少し曲げて差し出した。すると、名前さんは恐縮するようにおずおずと手を伸ばし、控えめに僕の腕に自分の腕を絡めてきた。
 自分の肘に掛けられている彼女の白い手をぼんやりと眺めながら、そういえば初めて出会った時咄嗟に掴んだその手は僕の手よりひと回りもふた回りも小さくて柔らかかったことを思い出す。

「あの……杉浦さんは、嫌じゃないですか?」

 僕が組まれた腕をじっと見つめてしまっていたので不安にさせてしまったのかもしれない。そんな名前さんを安心させるべく「うん全然、気にしないで」と返事を返すと、彼女はほっとした様子で表情を和らげた。

「名前ちゃん安心して、コイツいまうれしいですって顔してるから」
「はいそこ、適当言わない」

 そんなこんなでカップルに見えるか否かという謎の時間が終わり、ソファーに腰を掛けて三人で額をくっつけながら行った打ち合わせは思った以上に簡易なものだった。
 実際のカップルのように昼過ぎに劇場前通りで待ち合わせをして、特にルートも決めず気の向くままにデートのフリをするだけ。とにかく神室町の人通りのある場所を歩き回るというシンプルすぎる作戦だ。
 現時点ではまだ何をすればデバガメ模倣犯が釣れるのかということもわからないわけで、とにかくやってみるしかなさそうだ。

「ごめんね、もしかしたら何日かスケジュール空けてもらうことになるかもなんだけど……彼氏とか平気?」

 そんな八神さんの質問に、名前さんがわずかに瞳の奥を動揺で揺らがせた。それは本当に一瞬で、そしてついこの間ミジョーレで会話をしていた時に見せた表情と同じものに違いなかった。
 知らずに触れてしまったとはいえ、彼女の傷のようなものが垣間見えるたびにうっすらと罪悪感のようなものを感じてしまう。

「大丈夫です! そういう相手居ないので」

 こっち出てきたばかりで友達もいないですし、とわざとらしく表情を明るくしてみせた名前さんが笑みを交えながら言う。
 きっと鋭い八神さんのことだから、いまのさり気ない気遣いが名前さんにとってあまり触れてほしくないであろう部分に触れてしまったことには気づいているだろう。
 探るわけでも、明かしたいわけでもないのに、何故か彼女の回答にほんの少しだけほっとしてしまっている自分がいて、それにモヤモヤとした形容しがたい何かを感じる。

「そっか。……じゃ、そういうことで二人とも週末はよろしく」

 そんなこんなで打ち合わせという名目だったそれは早々にお開きとなった。八神さんが「ちゃんと送ってあげなよ」と目配せをしてきたので、勿論そのつもりであるという意を込めて頷く。
 そのまま八神探偵事務所を後にした僕と名前さんは、自然と二人並んで駅までの道を歩き始めていた。
 辺りはもうすっかり日が落ちてしまったけれど、夜が深まれば深まるほど賑やかになり、眩しい光が回り始めるのがこの神室町という場所である。
 仕事終わりなのにごめんね、と声を掛けると、隣で思案に耽るように微かに眉根を寄せていた彼女がぱっとこちらを振り向いて「いえ、必要なことでしたし」とほんの少しの不安をまだその表情に残したまま笑んだ。

「それで、これはちょっとした提案なんだけど」

 そんな僕の言葉にきょとんとした様子の彼女は「はい?」と言ってこちらに顔を向けたまま僕の言葉の続きを待つ。

「あの作戦だけど、名前さんは僕に神室町を案内されてるってことにするのはどうかな」

 案内、と僕の発した単語を鸚鵡返しのように繰り返した彼女に向かってひとつ頷いて見せる。

「デートだとかカップルのフリしなきゃって思うと意識して固くなっちゃうし、それならわざわざ無理に演技するより自然にしてたほうが違和感ないと思うんだよね」
「……もしかして私、どうしようって思ってるの顔に出てました?」
「うん、すっごいわかりやすく」

 名前さんは「すみません」と申し訳無さそうに肩を落として小さいため息をついていたが、僕にとっては彼女の素直で嘘をつけないところが眩しく、そして羨ましく感じられたりもするわけで。
 ふと見上げた先にあった煌々と光る街灯を眺めながら、その周りを飛んでいる羽虫が目に入って微かに自虐的な気持ちになってしまった。

「八神さんにはナイショね。でもさ、そう考えたらちょっとは気が楽になるでしょ?」

 名前さんはまだほんの少しだけ不安そうな表情を残していたが、僕の言葉に肯定を表すように二度ほど小さく頷いた。
 そんな話をしていたら、いつの間にか駅の前まで到着していた。大きなターミナル駅なので、家路を急ぎ吸い込まれるように入っていく人と、駅から出てくる人で辺りはごった返している。普通の駅であれば帰宅時間となると駅へと入っていく人の方が多いはずなのに、出てくる人波も途切れないというところが神室町が夜の町たる所以である。

「それじゃあ週末、よろしくお願いします」

 ご迷惑お掛けしないように善処します、なんてやっぱりどこか畏まったままの名前さんに苦笑いを交えつつ「こちらこそ、精一杯エスコートするよ」と敢えて軽い調子で返して見せる。
 そんな僕の言葉に表情を和らげた名前さんは、こちらに向かって小さくぺこりと頭を下げると背を向けて人混みの中へと消えていく。
 しばらく彼女の向かった改札の方を眺めていたが、途切れない人混みの中でその姿はあっという間に見えなくなってしまう。
 ふう、とひとつ息を吐き出してから、踵を返して雑音の駅構内を歩きはじめた。


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