5-2.

 あの打ち合わせの次の日、八神さんから「当日なんだけど、なるべく可愛い格好してきてくれたら有難い。その方がデートっぽい感じ出ると思うからさ。注文多くなっちゃってごめんね」というメッセージが届いていた。
 積まれていたダンボールを崩し、ようやく荷解きを終えてクローゼットに仕舞ったばかりの衣服をあれやこれやと取り出して目の前に並べながら、腕を組んで眉を顰め首を傾げる。
 彼氏とデート。そんな設定の彼女の心情を考えてみると、とんでもない気合いが入るに決まっている。しかし、私にはもうそんな気持ちを思い出すことなんてほとんど出来なくなってしまっているわけで。
 それでも何とかその気持ちを生み出すか無理やり掘り起こすかしなければ、きっと犯人を釣るというこの作戦は上手くいかない。
 デートっていったらやっぱり、ワンピースを選ぶのが無難だろうか。ひとつだけ分かることがあるとすれば、職場に着て行くようなオフィスカジュアルめなパンツやスカートは外した方が良いということだけだ。
 彼氏役である杉浦さんの顔を思い出しながら再び散らかった服と睨めっこを始めた私の頭の上からは、きっと悩みすぎによる蒸気が上がっているに違いない。
 こんなことならこの間、帰り道で杉浦さんにどんな服装の女の子が好みですかって聞いておくんだったなあ。私にそんな心の余裕が無かった事が敗因である。
 そうだ、それこそメッセージを送って直接聞いちゃえばいいんだ。私ってばナイスアイデアすぎる、と咄嗟に閃いた自分を自分で褒めながら、そこら辺にほっぽっていた携帯を手に取る。
 八神さんから送られてきたメッセージの画面を戻し、杉浦さんとのやりとりの画面を開いた。お疲れ様です、と定型のような挨拶を打ってから、ふと指を止める。

「あの作戦だけど、名前さんは僕に神室町を案内されてるってことにするのはどうかな」

 杉浦さんはとても察しのいい人だから、重圧と不安と緊張でいっぱいいっぱいになってしまっていた私を気遣ってそんな提案をしてくれたのだろう。そして、少しだけ気持ちが軽くなったのはもちろん彼の気遣いのお陰である。
 折角ああ言ってくれたのに、私が相変わらずデートなんだってなっちゃってたら申し訳ないよね。
 服装について相談をするのはやっぱりやめておこう。デートという意識を薄める提案してくれたのに、こんな連絡をしてしまうのは申し訳ない。っていうか、そもそも服装ぐらい自分で決めろって話だよね。
 そんな葛藤の毎日を経て、あっという間に作戦当日がやってきた。
 待ち合わせはお昼の十二時に劇場前通り。なるべく早く寝てコンディションを整えようと試みたものの、なかなか寝付くことができず、ほんの少し寝不足気味で今日という日を迎えてしまった。
 デートだけどデートではない、偽の恋人のフリをして盗撮犯のエサになろう大作戦の決行当日。自分の人生においてこんなトンチキなイベントが起こるだなんて、これっぽっちも考えたことが無かった。
 いつもより少しだけ丁寧にベースメイクをして、ほんのり見える隈を消す。普段より明るい色のチークを頬に置いて、瞼の上を彩るアイシャドウはグラデーションにする。睫毛はしっかりとビューラーで持ち上げてからマスカラを塗って、丁寧にコームでならす。ちょっぴり時間を掛けてゆるく髪を巻いてから、耳には揺れるピアスを付けた。唇を彩るリップは下品にならないよう、血色がよく見えるような色を選んだ。
 玄関に置いた姿見の前で、最終確認のつもりでくるりと回ってみる。散々悩んだ末に決めた軽い素材のロングワンピースが鏡の中でふんわりと揺れた。
 私、ちゃんとデートに行く女の子になれてるかな。まあ実際はデートしてるカップルの真似事なんだけど。
 たくさん歩き回りそうだからと選んだチャンクヒールのパンプスを履いて、足首のストラップを留めながら、小さい声で「よし」と気合いを入れる。
 玄関の扉を開けると、外はこれ以上ないってぐらいの晴天。心地よくそよぐ風を頬に感じたら、デート日和という言葉が頭の中に浮かぶ。私の心の中を占める割合のほとんどは緊張と不安だけれど、その中には少しだけ純粋にワクワクする気持ちが存在している。
 重要な役割貰ったんだから精一杯頑張らなきゃ、と部屋の鍵を閉めると、少しだけ早足で駅へと急いだ。


***


 神室町へ入ると、中道通りを歩いて突き当たりの劇場前通りへと急ぐ。
 休日の神室町は、どことなくその雰囲気が平日とは違うもののように感じる。普段のこの時間帯よりも人出が多く、さらにこの恵まれた天気のお陰か道ゆく人の足取りも軽いようだ。
 待ち合わせの時刻まではまだあと十分ほどある。しかしすっかり浮き足立ち、急いてしまっている心のせいで無意識のうちにその歩調は早くなってしまっていた。
 劇場前通りに出ると、広場の入り口になっているあたりには同じく待ち合わせらしき人の姿が多く確認できる。
 そしてその中で、広場に設置された白い安全柵に軽く腰掛けながら、手に持ったスマートフォンに視線を落としている知った顔を捉えた。彼の色素の薄い髪は、ちょうど真上から降り注ぐ陽の光に照らされて普段よりも心なしか明るく見える。
 私のが早く着けるかもって思ってたのに。
 杉浦さんの姿を見つけて、ほんの少し小走り気味に近づいていく。ようやく歩き慣れてきたと言えるこの街のアスファルトを、おろしたばかりのパンプスのヒールが急く気持ちを表すみたいに速いテンポで鳴らした。

「すみません、お待たせしちゃって……!」

 そう言って駆け寄っていった私に気づいた杉浦さんは、スマートフォンへ落としていた視線を上げてこちらを向いた。
 私の姿をみとめた彼は、いつもの如く柔和な笑みを浮かべながら「全然待ってないよ、なんなら僕も今来たところ」とまるで初デートの定型文みたいなセリフを述べる。

「なんか僕らの今のやりとり、これからデートします感すっごいあったよね」

 どうやら杉浦さんも私と同じ感想を持ったらしい。冗談めかすみたいに言った杉浦さんはどこまでもいつも通りで、その様子に少しだけほっとした。
 そんなやりとりと普段と変わらない彼の様子に、いまだに感じていた緊張が少しだけほぐれた気がする。

「そうだ、八神さんからインカム預かっててさ。つけさせてほしいんだけど、近くに寄ってもいい?」

 これで指示飛ばしたり状況教えてくれたりするみたい、と付け足した杉浦さんに「もちろん問題無いです」の意味を込めて頷くと、彼はにっこりと笑いながら「じゃあちょっと失礼しまーす」と私の耳に触れる。
 杉浦さんは、私の身長に合わせるみたいにほんの少しだけ腰を屈めた。それはいわゆる心を許した者同士の距離感で、私はうっかりドキドキしてしまいそうになるのを必死に堪える。
 初めて神室町を訪れて杉浦さんに助けられたあの時、そういえばほとんどゼロ距離で密着していたのだということをふと思い出す。彼は仮面を着けていたし、追ってくる男たちから逃げることに必死だったからそんなことを意識する余裕なんて微塵も無かったけれど。
 ちらりと見えたそれはイヤホンのように耳の穴に嵌め込むタイプではなく、どうやら骨伝導のもののようだ。その証拠に、イヤーカフのように引っ掛けて電源を入れるだけで装着は完了してしまった。

「これ、バレにくいし耳塞がないしいい感じだよね」

 僕ももう装着済み、と杉浦さんは右耳の後ろに私と同じインカムを付けているのをちらりと見せてくれた。耳の裏ならば髪で隠れるし怪しさも感じない。さすが八神さんだ。

「名前さんいつもシンプルなピアス付けてるけど、そういうのも似合うんだね」

 デートって設定だから、と選んだピアスはどうやら大正解だったらしい。大ぶりではないが、私の動きに合わせてゆらゆらと揺れるそれは光を反射させて控えめに光る。
 それにしても、この人はよくもまあ女子が喜びそうなセリフをこんなにも自然に吐けるものだな、と感心してしまった。

「ありがとうございます。そういう言葉、ぽんっと出てきちゃうんですね」
「あれ? なんか棘のある言い方だなあ。……まあ僕、姉貴がいたからさ」

 一応女心ってやつはそこらへんの男よりわかってるつもり、と付け足した杉浦さんの口調はいつもと変わらないように感じる。しかし、その一連のセリフの中で少しだけ言い淀むような、そんな些細な違和感を感じたのは私の気のせいだっただろうか。
 姉がいたから、と、そう発した彼の言葉が過去形だったことが引っかかる。しかし、なんとなくこの場でその部分を追求する事は差し控えた方が賢明であるという妙な確信があった。

「でも、似合うって言ったのはお世辞じゃなくて本当。ピアスだけじゃなくて、上から下まですっごくいい感じ。名前さんがかわいいカッコしてきてくれたんだし、僕も彼氏役頑張らないとね」

 褒めてるんだから素直に受け取ってよ、と眉尻を下げて困ったように笑う杉浦さん。
 そんな風に賞賛の声を浴びせられて悪い気がする女などいないだろう。ましてやここ一週間悩み続け、普段ならパパッと済ませてしまうメイクだってヘアセットだって今日だけは中々に時間を掛けている。
 更にそれを見てくれのいい男性に褒められたとなれば、浮かれてしまうのだって仕方のないことだ。こんな風に褒めてもらえるのなんて、いつぶりだろう。

『こら杉浦、どこで見たり聞いたりされてるかわかんないんだから彼氏役とか言うなっつの』

 突然聞こえてきた八神さんの声は、先程左耳に装着したインカムから聞こえてきたものだった。
 周りの音もちゃんと聞こえているのに、インカムからの声もハッキリと聞こえる。骨伝導ってこんな感じなんだ。

「あはは、そっか聞こえてるんだった。ごめんごめん、じゃあそろそろ行こっか」

 名前ちゃんもよろしくね、とインカムから聞こえて来た八神さんの声に小さい声で「頑張ります」と返事をする。
 そんな私の様子を見ていた杉浦さんが「はい」と私に向かって腕を差し出してくる。一瞬キョトンとして彼の顔を見上げてしまったが、そこでようやく思い出した。打ち合わせの日、八神さんに促されて腕を組んでみたことを。
 あの時は突飛な提案に躊躇してしまったけれど、今はもうそんなことをしている場合ではないし時間も暇もない。ただ並んで歩くより、少しでも密着しているほうが仲の良いカップル感が出るに決まっている。
 えーい、と半ばやけくそになりながら、精一杯の笑顔を作って彼の方を見上げ、なんとか自然にすることを意識しながらその腕に手を伸ばす。
 私の手が掛けられるのを目で確認していた杉浦さんは、ひとつ頷いてからゆっくりと歩き始めた。

「仰せつかったからにはと思ってさ、ちゃんとデートプランもとい神室町ご案内ツアー考えてきたんだよ」

 えらいでしょ、と空いている方の手で作ったピースをこちらに見せながら子どもみたいに言う杉浦さんはなんだかとってもかわいらしくて、私は思わず小さく笑ってしまう。
 もしかして、今の発言も私の緊張を解いて気持ちを軽くさせるためだったりするのかな。そうだとしたら、やっぱり杉浦さんってすごい人だ。
 顔良し、頭の回転良し、気配りもできて体術の心得があって、更に性格は穏やかって、こんな完璧超人みたいな男の人存在するんだな。
 ふと頭の中に浮かんだ元彼の顔をかき消すように小さく首を振る。

「どうかした? あんまりじっと見つめられてるとさすがに照れるって」

 そんなことを考えていたら、無意識に杉浦さんの顔を凝視してしまっていたらしい。
 形の良い眉をほんの少し下げながら、不思議そうにこちらを覗き込んでくる彼に「すみません」と謝り、その後の言葉を口にするか否か脳内でしばし精査してみる。まあ、伝えてもおかしなことではないだろう。

「私のことすごく気遣ってくださってるのわかるから、杉浦さんはやっぱりいい人なんだなって改めて思ってました」
「いい人? ……僕が?」

 こくんと頷いてみせると、杉浦さんは一瞬だけ驚いたようにその目をぱちくりとさせたが、その眉を困ったように寄せると「そんなんじゃないよ」と苦笑しながら視線を外してしまった。

「僕って捻くれてるし猫被りだし、なんならすっごい嘘つきだし」

 名前さんの前じゃカッコつけて取り繕ってるだけだよ、と続けた杉浦さんは何故だかどこか自嘲気味で、まるで吐き出すようにその言葉を発した。
 杉浦さんと私はまだ知り合ったばかりだし、そこまで仲良くなったわけでもお互いを知っているわけでもない。けれど、私はもう何度も彼に助けられていて、既に彼のことを信頼しきってしまっている自分がいることに薄っすらと気づいていた。今回のこの作戦だって、まあ請け負ってみようかと思えたのは相手役が杉浦さんだったから、というのが大いにある。
 人はそれぞれ大なり小なり何かを抱えているし、こちらからみたら羨ましいほど社交的で完璧なぐらいよく出来た人間に思える杉浦さんが抱えているそれは、私には想像がつかないほど暗くて大きくて重たい何かなのかもしれない。
 それでもいま私の隣を歩いている彼は、自分にとって何も得が無いのに私を助けてくれた。しかも何度もだ。その事実は消えないし、それだけでもう充分なほど私にとっては大恩人で、信頼に値する人物なのだ。

「杉浦さん、さっき私のこと褒めてくれたとき、お世辞じゃないから素直に受け取ってって言いましたよね」

 私に歩調を合わせながら歩いてくれている杉浦さんにそう問いかけると、彼は顔を前に向けたままで微かに視線だけを寄越しながら「うん」と返事をした。

「私だってそうです、たとえ取り繕ってたとしても私はそう思ってるから」

 だから素直に受け取ってください、と続けると、杉浦さんはまるで面食らったように瞠目した。
 それはきっとほんの一瞬程度の沈黙であったと思う。彼は私にその視線を向けたまま「だからさ、照れるからやめてって言ったでしょ」とその目を柔らかく細めた。

「それに名前さん忘れてるかもだけど、この会話全部八神さんが聞いてるからね」
「あ……そうでした」

 そんな会話の後で、骨伝導のインカムに『聞こえてるよ、仲良しさんたち』というどこか楽しそうな八神さんの声が聞こえてくる。
 杉浦さんは「ほらね」と私に向かって口パクをしながら、やれやれとでも言うように小さく空いている方の手を開いて見せた。

「というわけで、そんなに歩いてないけど到着。ここの上って行ったことある?」

 いつの間にか歩みを止めていたことにそこでようやく気がついた。
 ほんの少し歩いただけで到着したその場所、もとい神室シアター。その建物は、神室町のほぼ中央に位置しているミレニアムタワーという高層ビルの真横に位置している。待ち合わせ場所であった劇場前通りがそう名付けられている由来は、もちろんこの建物に由来している。
 しかし神室シアターという名称の通り、その場所は映画館である。なので、杉浦さんの発した「ここの上」というワードにほんの少しの違和感を感じた。

「上……?」
「そうそう、今日は映画で時間潰すわけにはいかないからさ。ここ、屋上になかなか雰囲気のいい庭園があるんだ」

 そりゃあもうカップルなんかうじゃうじゃいる場所だよ、と杉浦さんは言った。
 なるほど、それなら盗撮犯もその辺りを張って獲物を狙っているかもしれない。なんなら私たちが盗撮犯を釣ることが出来なかったとしても、その中で違和感を感じる人物が居たらマークする事が出来る。
 しかし、神室シアターの中にあるカフェに入ったことはあるが、屋上庭園があるということは知らなかった。確かに言われてみればガラス張りのオシャレな感じのエレベーターが設置されていた気がする。
 しかし屋上庭園とは、任務中とはいえどかなり興味を唆られる響きである。

「名前さんてわかりやすく顔に出る人だよね」

 いつの間にか杉浦さんが口元に手を当てて笑っていることに気がついた。

「ごめんなさい、でもすごく気になって」
「ううん、目キラキラさせちゃってかわいいなって」

 照れさせないでよ、なんて言ってきた癖に、自分はさらりとそんなことを言ってのけてしまうのだ。しかも、びっくりするぐらい自然な流れで違和感もない。
 ここでいちいち動揺してしまうのがなんだか悔しく思えてきたので、なんとか反応しないようにぎゅっと口元に力を入れて堪える。
 じゃあ行こっか、と歩き始めた杉浦さんに合わせて、ほんの少し傾斜のある通路を歩く。
 拓けた視界の先、右手にはカフェが、左手には喫煙室と屋上庭園に続くらしいエレベーターがあった。
 迷いなくエレベーターに向かって行った杉浦さんがボタンを押すと、ちょうど一階に待機していたらしく扉はすぐに開く。それに乗り込み、杉浦さんが屋上庭園へ向かう行き先階ボタンを押すと、ゆっくりと扉が閉まった。
 特有の浮遊感を感じつつ、ガラス張りのエレベーターなんて都会的だなあと思っているうちに屋上庭園のある階へと到着していた。
 エレベーターの扉が開く。到着した屋上庭園は天井の隙間から光が差し込み、この場所が神室町であることを忘れさせるような空間が広がっていた。今日は天気に恵まれて本当に良かったと思う。
 ぱたぱたと駆け出して、身を乗り出すようにガラスに手を伸ばす。そこから見下ろすと、ちょうど劇場前通りを歩く人々の姿が見えた。
 先ほど杉浦さんが腰掛けていた安全柵を見つけ「あそこ、落ち合った場所です!」と彼の方を振り返ると、私の後ろに立っていた杉浦さんがまるで小さい子を見るような穏やかな表情で私を見ていたことにようやく気がついた。

「はしゃぎすぎですよね、なんかすみません……」
「それだけ喜んでくれたらルートに入れて正解だったなって思ってさ」

 こんな浮かれっぷりを晒してしまったら、そりゃあ都会慣れしてない田舎者だって思われるに決まってるよね。
 自分の取ってしまった子どもっぽい行動を思いっきり反省しつつ、恥ずかしくてこれ以上杉浦さんの顔を見ていられなくなってしまった。
 さりげなく周りの様子を伺うと、先ほど杉浦さんが言っていたようにカップルらしき男女が多く見受けられる。設置されているベンチには座り込んで新聞や雑誌に目を落としている老人がいたり、この空間にはゆるやかで穏やかな空気が流れている。
 水が流れる場所があったり、芝生が敷かれていたり、まるでこの場所は煩雑とした街から切り離された別空間のようである。平日はどこかでお昼ごはんを買って、流れる水の音なんかを聞きながらここで食べたりするのも良さそうだ。
 名前さん、と名前を呼ばれ、首を傾げながら振り向くと、やっぱりまだ少しだけ口角をあげて楽しそうな表情のままの杉浦さんがいた。
 彼がちょいちょい、と手招きをするので何だろう、と首を傾げると、杉浦さんは私の耳元に口を寄せて「いまが仕事中だってこと、一瞬忘れちゃった」と小さな声で言った。
 その瞬間、私の耳は沸騰して弾け飛んだのでは、と錯覚してしまった。
 きっと今、間違いなく私の顔は真っ赤だろうし、耳まで茹でダコのようになっているに違いない。しかし、動揺しているのを悟られないよう、なんとか必死にこくこくと小刻みに頷いてみせる。

「よかった、僕だけそう思ってたら叱られちゃうし」

 名前さんも同じなら共犯だよね、とどこか満足げに笑う杉浦さんは、もしかして意識してそんな行動をしているのだろうか。
 仲睦まじく腕を組んで、何となく会話をしながら神室シアターの屋上庭園にやって来て。けれど正直、周りから見て私たちがちゃんと恋人同士に見えているのだろうかという懸念はずっとあった。
 しかし、今のやりとりは客観的に見なくてもわかるほどしっかり恋人同士のものだった。まだカッカしている顔の熱を下げるためにさりげなく手のひらで扇ぎつつ、いちいちこんなことで動揺していちゃダメだと自分に言い聞かせる。

「ていうか、僕から気を紛らわせようって提案したのにこれじゃダメだったかな……?」
「すみません……白状すると私、もうデートしてるって気分になってきちゃってました」
「自分から言っといてなんだけど、実は僕もだったりして」

 じゃあもういっか、と言った杉浦さんと少しだけ笑い合う。自分の中で重く存在感を放っていた気負う気持ちは、いつの間にかほとんど無くなっていた。


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