4.


「八神さん、記憶違いでなければ僕まだここの調査員って事にはなってなかったと思うんだけど」
「いや、だっておまえまだ無職じゃん。だったらここで留守番でもして小遣い稼ぎしてけって」

 半ば無理やり手のひらに握らされたそれは八神探偵事務所の鍵である。
 この探偵事務所の所長である八神さんは、朝早くに呼び出してきたかと思えば「今から迷い猫の捜索に出るから事務所の留守番頼めないかな」なんて言ってきた。
 おそらく、僕のことを体のいい予備の調査員かなにかだと思っているのだろう。この間なんか東さんに「とうとう八神ンとこの子分になったのか」と言われてしまった。
 少し前に同じように留守番を命じられ、同じようなセリフを投げられた時は「引き籠もってても今の時代ネット回線さえあればいくらでも稼ぎようがあるんだよ」と反論したことがあった。が、八神さんにとってそんなことはどうでもいいらしい。
 留守番なんて置かなくてもお客さんなんかほとんど来ないじゃん、と思っていても、なんと近頃の八神探偵事務所にはぽろっとお客さんが訪れることが間々あるようだ。
 というわけで、そのあとすぐ調査に移るか否かは別として、せっかく来た依頼ゲットのチャンスを捨てることはしたくないらしい。
 じゃあよろしく、なんて言ってさっさと猫探しに出て行ってしまった八神さんの背中をぼんやり見送ったあと、しばらくその場に立ち尽くしたままどうしたもんかと腕を組んで首を傾げてみる。
 まあ、呼び出されてなんやかんやでちゃんと来てる僕も僕なんだけど。
 いつもと何ひとつ変わらない八神探偵事務所は、思いのほか日当たりが良くてこの時間は少し眩しいくらいだ。なんとなく一人用ソファー側の窓を開けてみたら、吹き込んできた風が心地よい。空気が籠っている感じもするし、しばらくこのまま開けておこう。
 それにしても、突然呼び出されたせいで手元にあるのは携帯と財布だけ。この事務所には暇を潰せそうなレトロゲームが設置されているが、それは以前留守番を命じられた時にやりつくしてしまった。正直もう一度やろうという気は起きない。
 そんなことを考えていたら、こらえきれない程大きな欠伸が自分の口から飛び出してきた。寝ていたところを叩き起こされ、寝ぼけ眼でここまでやってきたのだから当然と言えば当然かもしれない。
 まあいっか、寝ちゃっててもお客さんなんかどうせ来ないでしょ。
 そう思いながらその場でぐーっと伸びをして、三人掛けのカウチソファーに横になる。開け放した窓から聞こえてくるのは鳥の声。朝の神室町は、夜の喧騒が嘘のように穏やかで静かだ。
 不規則な生活を送っているせいで、寝ても寝てもあまり休めた気がしない。だから、まあちょっとぐらい寝こけてしまっても許されると思いたい。帰らずちゃんとここにいるだけで百点満点だ、たぶん。
 脳内でそんな言い訳をしていたら、二度目ましての欠伸が漏れた。正直そこまで寝心地のいいソファーとは言えないけれど、今なら全然眠れる気がする。そういえば八神さんっていつもこのソファーで寝てるみたいだけど、体痛くなったりしないのかな。
 そんなことを考えているうちに自分の瞼が徐々に降りてきて、閉じた後はもうその目を開こうなんて気は一切起きなかった。
 それぐらい、僕はあっという間に寝落ちてしまっていたのだ。


***


 杉浦さん、と名前を呼ばれた気がした。
 夢なのか現実なのかわからないまま閉じた目の周りにぎゅっと力を入れて、まだぼんやりとしたままうっすらと目を開ける。
 ここが八神探偵事務所であるということは、視界に広がっている天井でわかる。
 朝、呼び出された僕がここを訪れると、間髪入れずに命じられたのは留守番だった。そして、寝る気満々ではあったけれど設置されているソファーに横になったらものの数秒で眠ってしまったことを思い出す。

「あ、おはようございます」

 薄らぼんやりとした視界の中にひょっこりと現れたのは、源田法律事務所で働いている秘書兼事務員の名前さんだった。
 たっぷり三秒ほど彼女の顔を凝視する。寝起きのせいか頭が全く働かない。

「……なんで?」

 僕の口から勝手に漏れてしまった主語を伴わない質問に、名前さんは小さく首を傾げたのち、はっとした様子で「あ、おはようっていうよりも時間的にこんにちはですよね」なんて言う始末。
 いや、そういうことじゃなくて、なんで君がここに、っていう意味だったんだけど。名前さんのどこかおっとりした雰囲気についつい流されてしまいそうになる。
 横になっていた体を起こし、ズボンのポケットに入れっぱなしだったスマートフォンを取り出す。パッと明るくなった画面に映し出された時刻は昼の十二時過ぎ。どうやら三時間以上も眠ってしまっていたらしい。

「杉浦さん、さっき猫は僕が捕まえるからーってむにゃむにゃ言ってましたよ」

 夢の中で猫ちゃん追いかけてたんですか? と至極真面目に問うてくる名前さんを見ていたら、急に気恥ずかしくなってきてしまった。ついでに言うと、そんな夢を見ていた記憶はない。眠る直前に八神さんが迷い猫を探しに行くって話をしていたからかもしれない。
 面映ゆくなって、無意識に自分の頬のあたりをなぞりながら小さく咳払いをする。

「そんなことより名前さんはどうしたの? また書類のやりとり?」

 それなら今は八神さん居ないけど僕が預かるよ、と提案すると、彼女はふるふると首を横に振る。どうやら、今日は八神さんに用事があってこの場所を訪れたというわけではないらしい。
 じゃあなぜここに、という疑問が強くなる。

「私、今日は杉浦さんに会いに来たんです」

 彼女の発したその言葉を一瞬で理解する事が出来ず、また数秒ほど思考が停止してしまう。
 怪訝に思いながらようやく「え、僕に?」と声を発すると、彼女はうんうんとそれを肯定するように頷いて見せた。

「助けていただいたお礼にランチでもご馳走したいなって思ったんですけど、杉浦さんにどうやって連絡したらいいのかわからなくて」

 でもここに来れば会えるかなって、と続けた名前さんは、それだけ言うと目を細めて「そうしたら本当に会えました」とうれしそうに笑んだ。
 これぞまさしく屈託のない笑顔。それはとてもかわいらしくて、ついこちらまでつられて口元が緩みそうになってしまったが、とりあえず今はさて置かせてもらうことにしよう。
 どうやら名前さんには僕が八神探偵事務所の関係者であると認知されてしまっているらしい。

「えーと、そうだ、ランチ?」
「そうです! って突然来ちゃったんですけど、お疲れのご様子ですしまた後日とかでも……」

 段々と言葉の語尾を小さくしていく名前さんは「突然すみませんでした」と申し訳なさそうに付け足すと、眉尻を下げてきゅっと口を結んでしまう。
 先ほどまでは花が咲くような笑顔を見せていたというのに、見る見るうちに小さくなってしまった彼女の様子が面白くて思わず噴き出してしまう。
 そんな僕の様子をキョトンとした表情で凝視している彼女に「ごめんごめん」と断ってから言葉を続ける。

「それじゃあ有難くご馳走になろうかな」

 そう返事をすると、今の今まで肩をすくめ縮こまっていた名前さんは瞬く間にほっとした様子で顔を綻ばせ、うれしそうにふにゃりと笑う。
 この人、思ってること全部顔に出ちゃうんだな。わかりやすくて面白い。

「そしたら、どこかご希望とかあります?」

 そう言われて考えてみたけれど、寝て起きたばかりの頭では特に思い浮かぶ店は無い。
 というか、そこそこ長く神室町で生活してはいるが、恥ずかしいことに女の子と二人で入ってお昼を食べられるような店が思いつかなかったのだ。
 大抵バーガーショップや牛丼、立ち食い蕎麦なんかで済ませてしまうけれど、この状況でファストフードやチェーン店を挙げるべきではない事はなんとなくわかる。
 冗談で「じゃあ韓来がいいな」とか言ってみようかとも思ったけれど、名前さんのことだから真に受けて「承知しました、たらふく食べてください!」とか言いかねないので、冗談だとしてもその言葉は発さない方が賢明だろう。
 それに、そもそも女の子にそこそこいい焼肉を奢ってもらうなんていうのは選択肢としてあり得ない。これが八神さんとかなら本気で言っちゃうところだけど。

「ぱっと思い浮かばないから、折角だし名前さんのおすすめに連れてってもらうとかでもいい?」

 すると、彼女は即座に何か閃いたようにぱっと目を見開いてこくんと頷き「任せて下さい」と親指を立てた。


***


 八神探偵事務所のあるビルを出て右に曲がると、昼飯時ともあってそこそこに人通りのある中道通りへと出る。
 横を歩く名前さんへちらりと控えめに視線を向けると、彼女はどこか楽しそうな表情で迷いなく歩を進めている。その様子を見るに、先日言っていた「もうそこそこ神室町を歩ける」という言葉は嘘ではないようだ。
 天辺にある日差しが眩しくて思わず目を細めたら、くあっと漏れ出てきてしまった欠伸を手の甲で抑える。

「やっぱりお疲れなんですね。八神さんのところ、最近忙しいって聞いてましたから……」

 うんまあね、と返事をしてから思った。この名前さんのセリフは、明らかに「八神探偵事務所の調査員である杉浦文也」に対して発されたものだ。
 とりあえず、それは誤認識であることを早々に伝えておかなければ。

「えっと……勘違いしてるかもだけど、僕八神さんとこで働いてるわけじゃないんだ。スポットで手伝いしてる時もあるってだけで」
「え! そうだったんですね、てっきり杉浦さんも探偵さんなのかと思ってました」

 その返事に軽い愛想笑いで返す。
 なんやかんやでヘルプしてもらえるのはうれしいし、お互いに利害が一致しているところもある。けれど一応は諸々が片付いたこの状態で、なあなあな位置にいる自分の立場をハッキリさせておかないとと思う気持ちもあるわけで。
 これからは文也の人生を生きて、か。
 ふとした瞬間に蘇ってくる姉である絵美の言葉は、実際に聞こえてきたものではなかったのかもしれないし、あの場で自分が聞いたような気がしているだけの幻聴だったのかもしれない。
 けれど、その言葉もあの声音も、つい今しがたこの耳で聞いたようにさえ思い出すことが出来る。
 しかし、そうは言ったってどう行動すれば僕は僕の人生を生きたことになるのだろうか。

「杉浦さん?」

 その声にはっとして顔を上げると、いつの間にか立ち止まっていた僕を名前さんが心配そうに覗き込んでいた。

「大丈夫ですか? 具合悪いのに連れ出しちゃったなら……」
「違う違う、ごめんね。まだ寝ぼけてるみたいでぼーっとしちゃってただけだから」

 気にしないで、と続けると、彼女はまだほんの少し気遣わしげではあるが納得した様子で頷く。

「あ、ここの二階です」

 見慣れた牛の置物が置いてある牛遊宴の手前のビルに入り、階段をのぼる名前さんの後に続く。確かこの二階って、と思っているうちに到着したのが喫茶ミジョーレだった。

「私、ここのオムライスすごく好きなんです」
「ふーん、僕食べたことないや」

 名前さんのおすすめなら同じのにしようかな、と言うと、彼女は嬉しそうに「是非!」と言って店のガラス戸を押した。
 店内は昼時ともあり中々席が埋まっていたが、すぐに空いている席に案内され、テーブルの上にメニュー表と水、おしぼりなんかを置かれる。
 そういえば、この喫茶ミジョーレに入った事はあれど数回足らずだし、人待ちや尾行、時間潰しでコーヒーを頼んだことがある程度だ。
 メニュー表を捲ってみると、確かに名前さんのいうオムライスの記載があり、どうやらランチではサラダとスープ、最後にコーヒーもしくは紅茶が付くらしい。

「何か他に気になるメニューありました?」
「ううん、ここのメニューちゃんと見たことなかったから気になっただけ」

 じゃあ頼んじゃいますね、と言った名前さんが片手を上げると、店員がすぐに気づいてこちらにやってくる。名前さんがオムライスを二つ注文すると、食後のコーヒーか紅茶を選ぶように言われたのでコーヒーを頼んだ。

「お伺いしても会えないだろうと思ってたので、今日はいらっしゃってびっくりしました」

 本当はお会いできなくてもミジョーレで一人ランチして帰ろうと思ってたんです、と白状するように言う名前さんの言葉を聞きながら、そういえばまだ自分たちはお互いの連絡先さえ知らないのだな、ということを思い出した。
 初対面で結構濃ゆい出会い方をしていたし、更に八神探偵事務所で鉢会って、この間は再びチンピラに絡まれていたところを助けた。毎回中々印象深いエンカウントを果たしているせいか、ついこの間ようやく名乗りあっただけだということを忘れてしまいそうになる。
 この間は変な縁でもあるのかな、と口にしたけれど、なんやかんやで彼女とはこれからも顔を合わせる機会があるような気がする。

「そうだ、名前さん今スマホ持ってる?」
「え? あっ、はい」
「これ、僕の連絡先。よかったら登録しておいて」

 ポケットから取り出した自分の携帯にメッセージアプリのQRコードを表示させ、名前さんの方へと差し出す。
 また何かあった時にわざわざ探すの大変でしょ、と続けると、彼女は横に置いたショルダーバッグの中から自分の携帯を取り出して「そしたら私、すぐ杉浦さんのこと頼っちゃうかもしれませんよ」と冗談めかして言った。
 僕が差し出した携帯の画面を読み取り、そのあと少しだけ自分の携帯を操作していた名前さんが顔を上げてこちらに笑いかけた数秒後、僕の携帯に通知が入る。
 それを開くと、メッセージアプリに届いていたのは名前さんからのスタンプだった。どこかで見たことのあるような動物を模したキャラクターがよろしくお願いします、とお辞儀をしている。

「このキャラ、なんか名前さんに似てる」
「そうですか?」
「うん、ぽやっとしてて危なっかしい感じとか」
「それを言われてしまうとぐうの音も出ない……」

 本当は向き合った人間を和ませるような雰囲気も似ていると感じたのだが、それを口に出すのはなんだかきまりが悪かったので飲み込んでしまうことにした。
 自分がそんなことを他人に感じている事が不思議だった。ましてや、その相手はたった数回顔を合わせただけの女性である。

「名前さんはどうして神室町に?」

 そんなことを考えていたら、ついそんな質問をしてしまっていた。
 おっとりしていて穏やかで、そんな彼女がどうしてわざわざこの町で働くことを決めたのかずっと疑問に思っていた。そういえば、八神さんや海藤さんも同じようなことを気にしていたような気がする。
 名前さんはそんな僕の質問に目をぱちくりさせると「ええと……」と少しだけ口籠ってから話し始めた。

「私の地元、都会じゃないけど田舎過ぎるわけでもないって感じの微妙なところで、正直都会に出たい理由が明確になければずっと暮らしていけるような場所なんです」

 地元の高校に行って地元の大学に行って地元の会社に就職して、なにも疑問に思わず過ごしてきたんですけど、と続けた名前さんは、そこで言葉を切ってしまった。
 逸らした視線を斜め下に逡巡させている彼女の瞳の奥に、ほんの少しだけ、でも確かに揺らぎのようなものが見えた。
 それはたった一瞬だったけれど、変な男に絡まれていた時に見せた不安そうな表情以外では、初めての彼女が見せた暗い感情を孕んだなにかに違いなかった。

「……ある時、急に思い立って上京しちゃおうかなって思ったんです!」

 そんな表情をぱっと晴らせた名前さんは「だから特に深い理由はないんです、一度ぐらい都会で暮らしてみようかなって思っただけで」と、いつの間にかいつもどおりの朗らかな笑みをその顔に貼り付けていた。
 どうやら、僕は質問のチョイスを間違ってしまったらしい。
 ほんの何度か顔を合わせただけで、それこそついこの間お互いに名乗りあったばかりなのに、なんとなく彼女のことをわかったような気になってしまっていた。
 神室町という町は、何かを抱えている人間が引き寄せられるように集まる場所である。それはもちろん僕自身もそうだし、八神さんや海藤さんだってそうだ。
 その大小に関わらず、胸に秘めたその重い何かは彼女にとってあまり触れられたくないものだったに違いない。

「ごめん、あんまりしたくない話させちゃったみたいだね」
「いえ! でも、私みたいにあからさまな田舎者が神室町歩いてたらチョロそうだって絡まれるのもわかります」
「海藤さんはそんなところが純朴そうでいいって言ってたよ」
「それ、田舎者っていうのをオブラートに包みまくった表現じゃないですか……」

 そんなやりとりをしているうちに、サラダとスープが運ばれてきて、続けてオムライスがテーブルの上に置かれた。
 黄色い楕円型の卵で覆われた丘と、その周りには濃い色のデミグラスソースが掛けられている。

「とろとろ卵のオムライスも好きなんですけど、こういうスタンダードなオムライスをたまらなく食べたくなる時があるんです」

 ここのオムライス、シンプルな見てくれなのにチキンライスの中の鶏肉が大きくてゴロゴロしてるんですよ、と名前さんが言う。
 いただきます、と言ってからスプーンで卵の膜を破ったら、彼女の言った通り大きめに切られた鶏肉の入ったチキンライスが顔を出す。
 それをスプーンで掬って口に運ぶと、甘めのチキンライスとデミグラスソースの程よい苦味が混ざってまさしくこれぞオムライス、という感想を持った。というか、オムライスを食べたのなんて何年ぶりだろう。

「どうですか!?」

 まるで子どものように目をキラキラさせながら問うてくる名前さんに「うん、美味しい」と返事をすると、彼女は心底嬉しそうに目を細めて笑んだ。
 僕の感想を聞いてからようやくひとくちめをパクついた彼女の幸せそうな表情に、思わず自分の口角まで緩んでしまいそうになる。
 でもまあ、なんだかすごくいいものを見たような気がするから仕方ないよね、と思い込むことにした。


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