5.

 九月の末、今期のリーグ戦が開幕した。
 レプリカユニフォームを纏うファン、もといBリーグではブースターと呼ばれている彼らの熱気が試合前から会場であるアリーナを満たしている。
 コート内にてアップを始めた両チームの選手からは気迫が漲り溢れ出て、それを視認出来るかような錯覚さえ覚える。その雰囲気にあてられて、私が思わずごくんと息を飲んでしまったことを隣にいる相田くんには気づかれていないといいのだけど。
 試合の前座に行われたオープニングショーでは、暗転した会場内にレーザーの光が照射される派手な演出がなされ、ホームチームのカラーであるブルーの光が所狭しと走った。チームを鼓舞するチアリーディングチームのパフォーマンスの後、続けてスターティングメンバーの発表、そして噴射されたスモークから選手が入場してくる光景には思わず感嘆の息が漏れた。

「ボク、生で仙道さんが試合に出てるとこ見るの三年以上ぶりなんですわ」

 そう呟いた相田くんの声音はいつもより少しだけ静かだったけれど、ちらりと視線をやると、その横顔はわくわくが止まらない子どもみたいな表情だった。瞳は憧れを目の前にした輝くような色で、そんな彼の感情はこちらにまで伝染してきそうだ。
 仙道さんがスタメンであるということは、会場でのスターティングメンバーが発表される少し前に聞かされていた。
 変わって、私はというとバスケットボールの公式戦を観戦すること事体が初めてだ。思えば二ヶ月前に週刊バスケットボール編集部への異動を命じられて、配属されてまだ一ヶ月と少し。関東圏の各チームへ挨拶に回ったり、練習風景を取材したり、家に帰って試合のビデオを眺めたり、雑誌を読んだり。毎日がドタバタだった。
 それでもいつの間にか今日と言う日が、あっという間に訪れたこの開幕戦の日がとても楽しみになっていた。こんなこと言ったら怒られてしまうかもしれないけれど、仙道さんが日本のプロリーグでデビューするのと同時に、私も公式戦の記者デビューなのだ。
 観客たちの盛り上がりが最高潮になってから、ティップ・オフの瞬間に訪れた一瞬の静寂は呼吸をするのを忘れるほどで、きっと私だけじゃなく、この場にいる誰しもが息を止めてしまったに違いない。

 腰を低くしてもブレないボディバランスの良さ、ノールックで味方の手元へ吸い込まれていくパスの技術、それに伴う視野の広さ、己を律し周りを制する冷静さと統率力。バスケットボールの試合をまともに観戦したことのない私にも、仙道さんの能力の高さはすぐにわかった。
 試合を観て、バスケをする仙道さんを見て、表現する言葉が溢れて止まらなくなっていた。ただただすごいものを見たと、あののほほんとした仙道彰という男がとにかく卓越した選手なのであると、まざまざと思い知らされる事となったのである。
 日本のプロリーグデビューを華々しく飾った仙道さんは、瞬く間にその名を知らしめることになるだろう。そもそも、彼は大学リーグ時代にもかなり名の知れた選手であったらしい。もっと言うならば中学、そして高校時代から。バスケが出来て、身長が高くて、性格も穏やかで優しくて、それでもってあの見た目である。そうなっていなければおかしいぐらいだ。
 一言で言うならば、私はもうすっかり先ほどの試合に魅了されてしまっていた。各選手が見せた恐ろしくテクニカルな動きが頭から離れない。ああ、人はこうしてスポーツ観戦にハマっていくのだな、と身をもって知ってしまった。
 そして、気付けばいつの間にか仙道さんの事を視線で追ってしまっていた。他の選手よりは近しい間柄だからというのもあるけれど、それ以上に彼が今日の試合で大活躍だったからだ。

「仙道さんは学生時代もホンマようモテてたんですわ! バレンタインなんてこーんなでっかい紙袋ふたつみっつ抱えて、それ見て越野さんが」

 あ、越野さんってのは仙道さんと同じ学年だった高校の先輩なんですけど、と続ける相田くんに適当な相槌を打ちながら、私は先ほどの試合の様子を脳内で繰り返し反芻していた。
 アリーナの中の熱気も、ファンの声援も、想像していた以上で圧倒されるばかりだった。それと同時に、日々バスケットボールの知識を蓄えることに躍起になっていてよかったと思った。狭いコートの中で目まぐるしく変わる攻防についていけていたかといったら全然だったし、目で追うことさえ難しかったけれど、全く無知の状態で観るのとは全然違っただろう。
 仕事で来ていた身でそれが及第点だったとはとても言えないし思えないけれど、それでもルールがわからない状態で観戦するよりは遥かに良かったはずだ。……たぶん。そう思いたい。
 それでもまだまだわからないことが多すぎる。わかっている人が書く記事と、無知のド素人が書く記事じゃ臨場感がまるで違う。もっと勉強して、もっと場数を踏んでいかなきゃ。

「……さん! 苗字さんって!」
「え? あ、はい!」
「なんやものっすごいややこしい顔してはりますけど」

 真面目なんやなあ苗字さんは、と続ける相田くんの事を横目で見ながら、意図せずに自分から漏れたのは小さなため息だった。
 私にはまだわからないことだから、なんて言葉で諦めたくない。自分にはできないなんて思いたくなかった。周りからやっぱりダメか、なんて失望されるなんてまっぴらだ。

「相田くん。私ホントはすごくすごく、ものすごーく負けず嫌いなの」
「へ? そうなんですか?」

 練習を見学するようになって、選手と交流するようになって、実際に試合を観て。選手だけじゃない、チームスタッフも、ファンも、カメラマンも、相田くんのような記者たちも、みんながバスケットボールに本気だ。だから私だって負けていられないし、こっちもそれ以上に本気でやらないとダメなんだって改めて思った。
 試合を観て余計に燃えてきた。実際に試合を観ていない人たちにも臨場感を、そして選手らのキラキラ輝くようなスーパープレイを伝えられるようになりたい。

「私もバスケがすごいってこと、選手が素敵だってこと、ちゃんと伝えられるようになりたいなあ」

 だからもっと勉強するし、もっともっとバスケのこと好きになれるように頑張りたい。
 そう声に出してみたのは、自分で自分に気合いを入れる為だった。相田くんはこちらに視線を向けて少しだけ驚いたような表情をしたけれど、すぐに前を向いて「やっぱり僕、苗字さんが来てくれてホンマに良かったって思いますわ」と朗らかな調子で言った。
 その言葉をもらうのはちょっと早いよ、と言いそうになったのをすっと飲み込んで、今はただその彼の言葉をありがたく噛みしめることにした。


***


「あれ、今日って彦一だけ?」

 ボクだけじゃ不満なんですか、と眉根に皺を寄せる元後輩を「いやいや、別にそんなこと言ってねーだろ」とたしなめながら、隣にいるはずの名前さんの姿が見えないことが気になっていた。いつもなら控えめな感じで微笑みながら「こんにちは」って声をかけてくれる名前さんが居ないのはなんだか寂しい。
 開幕戦を終えた次の日である今日、軽く汗を流す程度の練習の後で週バスの取材が入っていて、監督とキャプテンと流川と共に四人で取材を受けることになっていた。

「苗字さん、体調崩して今日は午後休ですわ。午前中は会社におったんですけど、熱出してフラッフラになってて。まあ、あの人のことやからどうせ家で仕事しとるんやろうなあ……」

 苗字さん真面目だし、頑張り屋だから無理してたんだと思いますわ、と眉尻を下げながら彦一が言う。確かに、なんてまだ知り合ったばかりのオレが言える事ではないかもしれないけれど、彦一の言う通り彼女にはそういうところがあると思う。自分を追い詰めすぎるというか、無茶をするというか、根詰めすぎっていうか、自分でブレーキかけたり空気抜いたり出来ないっていうか。
 この間、マンションのエントランスで顔を合わせた時に彼女が持っていた紙袋の中身。あれはおそらく家で仕事をするための物だったのだろうし、そもそも帰宅してからもひたすら雑誌を読んだり試合の映像を見てると言っていた。日中はうちのチームだけじゃなくて、いろんなチームの練習も回っていたに違いない。昨日の試合の前、軽く挨拶を交わした彼女の目の下には隠し切れないクマがあったことを思い出す。

「フラッフラって、そんなんなるまで?」
「今朝なんかデスクでグラグラしながらキーボードポチポチしてて、よく会社来れたなあ思いましたわ。ていうか、そないに気になるなら自分で連絡してみたらええやないですか」

 部屋も上下なんやー言うてたでしょ、と言われてから気付く。
 そうだ、とりあえず「具合どう?」ぐらいの軽い感じで連絡をとってみてもいいかもしれない。ひとり暮らしだろうし、何か欲しいものでもあればオレが買ってくるぐらいの協力はできる。……と、ここまで考えて思い出した。

「そういえばオレ、名前さんの連絡先知らねえんだった」
「あれ? すごい仲良しなんやなあって思てましたけど。よっしゃ、ボクが教えますよ!」
「うーん、ありがたいけどそれはいいや。自分で聞くからさ」

 いきなり男から連絡来て気持ちわりーって思われちまったらとヘコむだろ、と言うと、彦一は「さっすが仙道さんや! モテる人はちゃいますなあ」と感嘆した様子で声を上げた。
 そんなんじゃねえけど、と返しながら思ったのは、相手が名前さんじゃなかったら自分がここまでしようと考えただろうか、ということだった。そもそも、わざわざ連絡をとろうなんて思わなかった気がする。なんとなく、彼女には誠実に接したいと思ってしまうのだ。

 夕方、練習と取材を終えてマンションへ戻ってきたオレの手にはビニール袋が下がっていた。熱冷ましの額に貼るシート、繰り返し使える氷枕、プリンとかゼリーとかアイスとか、そんなものが入っている。
 彼女の部屋の前まで来て、インターホンを押してから気が付いた。眠っている可能性を全く考えていなかった。具合が悪いんだから横になって休んでるはずだし、やっぱり彦一に連絡先だけでも先に聞いておくべきだったかもしれない。
 少し考えればわかることだったのにしくじったな、なんて脳内で反省していた時に「はい」とインターホンの向こうから声が聞こえてきた。寝ていたところを起こしてしまったかもしれない申し訳なさを感じながら「仙道です」と名乗る。

「えっ、仙道さん? どうされました?」
「どうされましたっていうか、名前さんがぶっ倒れたって聞いて」

 見舞いに、と続けると、即座に「そんなお気遣い下さらなくていいのに……!」という焦ったような声の後で、ガチャリとインターホンが切られる音が続いた。
 少ししてから「こんにちは」と出てきた名前さんはおそらく部屋着であろうTシャツにパーカーを羽織り、しっかりとマスクをしていた。おそらく玄関に出てくる前に着けたのだろう。いつもよりぼんやりとした目は発熱のせいか少しだけ潤んでいるし、覗く額はほんのり紅潮しているように見えた。

「スミマセン、具合悪くて休んでるところに。あ、これ、なんかいろいろ必要かなってやつ買ってきてみたんですけど」
「え!? あ、ありがとうございます、助かります。情けない姿をお見せしてお恥ずかしい」
「いいっていいって。そんな事より顔真っ赤だけど、起きてて平気なんですか?」

 なんとか、と言いながらふにゃりとゆるく笑んで見せる名前さんの様子はやっぱりどこかいつもと違う。続けて彼女は「実はこっそり仕事してたので起きてたんです」と彦一の予想通りの言葉を発した。
 持ってきた見舞い品の入った袋を差し出すと、彼女はもう一度「ありがとうございます」と小さく頭を下げ、その袋に手を伸ばす。が、しかし、オレの差し出した袋を受け取った彼女の手から袋はすとんと滑り落ちてしまった。

「あ、やだ、ごめんなさい……!」

 そう言って壁に手を添えながらしゃがみこもうとする彼女を制して、オレが袋を持ち上げる。熱出してフラフラになって会社早退して、手に力が入らないレベルなのにこの人はどうして休もうとしないのか。答えはすぐに出た、止める人がいないからだ。
 となると、もう強行するしかない。そう思った。

「……名前さんのやってた仕事って急ぎのやつ?」
「あ、いえ急ぎじゃないんだけど、何かしてないと落ち着かないっていうか」
「じゃあ切り上げ、もう終わり。これ以降は熱下がるまで仕事のこと考えるのもダメ」

 ぱちくりと瞬きをしたあと、眉根を寄せて「そんなこと言われても」とおそらく反論しようとした名前さんの言葉はそこで遮られた。何故ならば、それが発される前に彼女の体をオレが「よいしょ」と担ぎ上げていたからだ。
 きょとんとした表情で、頭の上に視認出来そうなクエスチョンマークをいくつも浮かべながらオレを凝視していた名前さんに、にっこりと微笑みかけてみる。すると、ようやく状況を理解した様子の彼女は唇をわなわなと震わせはじめた。先程まで力の無かった瞳が驚愕のあまり見開かれ「なっ、な、なんで……!?」と発された声は妙な調子に揺らいでいる。
 驚きすぎているのか、すっかり硬直して全く無抵抗の名前さんを抱き上げたまま「お邪魔します」と靴を脱いで部屋に上がる。突然連絡することなんかより、半ば無理やり部屋に上がり込むことの方がよっぽどヤバイな、と思ったけれど、もう担ぎ上げて部屋に入ってしまった後だったのでどうしようもない。とりあえずこの人を強制的に休ませることのほうが先決だと思ったからだ。

「……えーと、家宅侵入した上に無理やり担ぎ上げといてなんなんですけど」
「は、はい……?」
「今からオレ、寝室に入ろうとしてるんですけどいいですか?」
「え、あ、な、なんにも、大丈夫です、問題ないです」

 名前さんは相変わらず固まって無抵抗のまま「だからもう早く下ろして……」と、それこそ蚊の鳴くようなか細い声で言った。たぶん、寝室にオレが入ることなんかよりも担がれている事の方が恥ずかしいのだろう。
 抵抗する余力もないのか、そもそも羞恥心のほうが強すぎて硬直しているのか、抱えられたままの彼女はマスクをしている上に両手で顔を覆ってしまっているため表情は伺えない。
 寝室に入り、名前さんをベッドの上にゆっくりと下ろす。まだ顔を覆ったままの彼女は指の間から少しだけオレに視線を向けて「ご迷惑をお掛けしてすみません」と小さな声で言った。見たことのない彼女の様子が興味深くて、申し訳ないと思いつつも少しだけ愉快な気持ちになりながら「いえいえ」と短く返事をする。そのままベッドの横にしゃがみこみ、まだ眉間に皺を寄せたままの名前さんと視線を合わせた。

「これは提案なんですけど、名前さんがイヤじゃなきゃオレと連絡先交換しませんか?」

 なんていうかお互いこういうことになったとき助け合えた方がいいでしょ、と続けると、目を丸くした名前さんは二度ほどぱちくりと瞬きをしてから「え……?」と声を漏らした。
 名前さんがぶっ倒れた時だけじゃなくて、オレが具合悪くなった時にも近くにヘルプ頼める相手がいたら安心っていうか、と続けると、彼女は熱に潤んだ目を細め、再び眉を顰めた。

「仙道さんはプロのスポーツ選手なんだからそうならないように頑張ってください……」
「うわー、そうきたか。困ったな、何も言い返せねえや」

 そもそも私の傍にだってあんまり寄らない方がいいんですよ、リーグ戦始まったばかりなのに、とマスクの下でモゴモゴいっている名前さんの言葉は聞こえないフリをした。彼女がオレの対応をするためにわざわざマスクをつけて玄関まで出てきてくれたのだろうという事は最初からわかっていた。
 もちろん、名前さんの言う通りであることはちゃんと理解している。もう学生じゃないし、プロなのだから体調管理も仕事の一部である。
 そうは思っていても、もしまた今後名前さんが体調を崩して上の部屋で伏せってしまうような事があったとして、それを知らずにボケッとしてしまうことがなんだかすごくイヤだった。後から知った、なんて事を想像するだけでやるせない気持ちになる。

「名前さんの性格的に人を頼るのは迷惑をかける事って変換しちゃいそうだけど、オレ的には真上に住んでる知り合いが具合悪いの、知らないでいるほうがキツイよ」

 少しの沈黙の後、名前さんは視線を逡巡させて「そうやって逃げ道塞ぐのズルいです」と鼻まで布団を被りながらモゴモゴ言った。その小さい子みたいな仕草と図星を突かれて動揺する様子を「かわいい」と素直に思った。いつも真面目で、手を抜いたり気を緩めるのがへたくそで、キリッとしてたかと思いきや実はちょっとだけ抜けてて。
 そっか、オレ名前さんのことかわいいって思ってたんだな。なんか弱ってる姿は余計にこう、っていうかなんだこれ。ひとつ年上のお姉さんのことを愛玩動物か何かだと思っているのだろうか。

「仙道さん……?」
「ごめんごめん、なんか弱ってる名前さんかわいいなって」
「え、え……!?」
「あ、言っちゃった」

 名前さんは熱のせいで紅潮している顔を更に赤くしたかと思うと、そのまま布団を頭まですっぽり被ってしまった。なんでこういうことポロっと言っちゃうんだろう、オレの口。
 目の前に現れた布団をすっぽりかぶった生き物もとい、名前さんに向かって「持ってきたヤツ、冷蔵庫に詰めてもいいですか?」と問うと、彼女は「ご自由にどうぞ」と布団を被ったままやっぱりモゴモゴと返事をするのだった。


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