4.

「仙道……さん、ワンオンワンの相手してく……ほしーッス」

 高校の時はオレのこと「仙道」って呼び捨てにしていたのに、いつの間に敬称なんて覚えたのだろう。そんな失礼なことを考えながら、オレは慣れない敬語を何とか操りながら声を掛けてきた流川を見やった。思わず「げー、また?」という声を漏らしてしまったが、流川は全く気に留める様子も無くボールを持って仁王立ちしている。

「えーどうすっかなあ、おまえ、始めたらなかなか終わりにしてくれねーからなあ」
「ちゃんと満足したら終わる」

 そう言われて思い出すのは高校時代の事。いきなり現れた流川とワンオンワンを始めて、気付けば日が暮れていた。
 そういえばあの時って部活に向かう途中だった気がする。あのあと確か監督と越野、それと引退したのに相変わらずちょいちょい顔を出していた魚住さんにめちゃくちゃ怒られたっけ。
 それが今やお互いプロリーグの選手でチームメイトである。不思議な縁もあるものだ。

「それが長えーんだって。しかもオレ、帰ってやんなきゃいけないことあるし」
「なに?」
「まずメシ食うだろ、そんで風呂入んだろ、それから頭乾かして布団入って寝んの」
「先に五本取った方が勝ち、そのあとは考える」
「うわ、ぜんぜん話聞いてねえ」

 この間、オレの上の部屋に住む彼女、もとい名前さんとコンビニで顔を合わせた時にした会話が脳裏に浮かぶ。
 バスケの用語やルールを必死に勉強していると話してくれた彼女は「ワンオンワンってちょうど覚えたばっかりだったんです、だから会話に出てきたのがすごくうれしくて」と恥ずかしそうに目を伏せながら笑っていた。
 ずっとバスケなんか関係ない生活を送ってきて、それこそ全然違うところでそのスキルを活かしていたのに、突然知らない世界にブチこまれてここでがんばれと言われる。それってめちゃくちゃしんどいよな、たぶん。
 オレが「おまえタッパあるから今日からバレーボール選手な」って言われるみたいなものだろうか。それは極論過ぎるか。バスケで言うならば、ずっと五番をやってたのにいきなり一番をあてがわれるとかそんなかんじだろうか。かなりキッツイな、できないこともないけど。
 あの日、スイーツコーナーの前で顎に手を当てて真剣に悩む名前さんの横顔を眺めながら、そっと近づいてみたけれど彼女がこちらに気付く様子はなかった。いったい何をそんなに悩んでいるのだろう、と彼女の視線の先を追ってみたら、どうやらやわらかいプリンかかたいプリンかで悩んでいるようだった。ここで、つい我慢できずに声を掛けてしまったのだ。
 あ、なんか思い出したらプリン食べたくなってきた。卵っぽくてかたいやつ。

「……決めた。よし、じゃあやろうか」
「あざす」
「オレが勝ったら卵っぽくてかたいプリン奢れよな」
「ていうか負けねーし」
「いーや、オレが勝つね」

 なにせプリンが懸かってんだからな、と言うと、流川は訝し気に目を細めたが、すぐに「先攻と後攻、どっちがいい?」と目をギラつかせながら問うてきた。
 いーよどっちでも、と返してオレは腰を低くした。

 で、気付けばまた夜の二十二時過ぎである。
 たぶん、アイツにとっちゃバスケをすることがメシ食うとか布団で寝るとか、そういうのと同レベルなんだろうと思う。まあその感覚をわからないでもないと思ってしまうオレも、もしかしたらバスケバカなのかもしれない。
 あと一回だからな、を何度も繰り返してやっと決した勝負は、辛くもこちらの勝利だった。そんなわけで今、オレの手にはコンビニの袋が下がっている。
 勝ったというか、もう何度も引き分けになったところで「じゃんけんしてオレが勝ったら次がラストな」と無理やりに言いくるめたのだ。じゃんけんに勝って、それで最後の勝負もなんとか勝った。流川はわかりやすくめちゃくちゃ煮えきらない様子でこちらを睨んできたけれど「明日、続きお願いしマス」と低く言うとやっと諦めてくれたみたいだった。
 高校の時は吐くほどシゴかれてたけど、これもそれと同じぐらいしんどい。でも楽しいからなんとなく乗ってしまうのだ。
 帰り道、駅に向かう途中にあったコンビニで約束通りプリンを買ってきた流川は、それを押し付けるようにオレに渡してきた。相変わらずムスッとした様子だったが、ボソリと「おつかれッス」なんて言ってマウンテンバイクに跨り去って行った。
 渡された袋の中を覗くと、入っていたそれには『なめらかプリン』と書かれていた。卵っぽくてかたそうなやつっていったのに。明日も勝って奢らせるしかない。
 春先に日本に帰ってきて気付けば半年。トライアウトを受けて、今のチームに所属することになった。
 引っ越しから一ヶ月が経とうとしているが、まだ開けきれていない一向に減らないダンボール。その事を思い出すと、ほんの少し重たい気分になった。しかし「まあいいや、チマチマやれば」と思うことにしている。そんなに荷物があるわけじゃないのに、どうしてダンボールを開けるのってこんなに面倒なんだろう。詰める方がまだマシだ。
 休みはあるが、散歩したりぼーっとしていたら一日が終わっていたり、ちょっと遠出して釣りに行く方を優先してしまう。まあいっか、オレの部屋だし、誰かが来るわけでもないし。
 練習場所の体育館が入っているアリーナがある駅から家までは三駅、そこからマンションまでは歩いて七、八分といったところだ。道は割と明るいし、通り道にスーパーもコンビニもあるからなかなか気に入っている。
 ちらりと時計に目をやると、もう時間は二十三時を回ろうとしていた。流川にとっ捕まるといつもこんな感じだが、心地よい疲労感は不快ではない。明日は昼に出ればいいので時間には余裕がある。朝が苦手なオレにはありがたい限りだ。
 マンションのオートロックを開けてエントランスに入ると、ちょうどポストの前に立っている人物がいた。女の人で、どうやら仕事かなんかの帰りのように見える。こんな遅くまで大変だな、とぼんやり思ったところで気がついた。

「名前さん?」

 そう声を掛けると、彼女はぴくりと肩を揺らしてこちらを振り向いた。

「え……? あ、仙道さん!? びっくりした……」

 ホッとした様に眉根を下げて笑う彼女が「こんばんは」と言ったので、小さく頭を下げながらオレも「こんばんは」と挨拶をする。それにしても、こんな時間まで仕事をしていたのだろうか。編集者とかライターとか記者って不規則で大変そうなイメージがあるけど、どうやら彼女も例に漏れないらしい。

「あんまり根詰めすぎちゃダメですよ、ってオレが言うのもヘンだけど」

 めちゃくちゃ疲れた顔してるし、と指摘すると、彼女は驚いた様に目を見開いてから視線を下げて「お恥ずかしいです」と小さな声で言った。

「記事書くために週バスの既刊読んでるんですけど、少しずつバスケのことわかってきたから楽しくて。始めると止まらなくなっちゃうんですよね、私」

 それで後から自分が実は結構疲れてるってことに気付くの、と恥ずかしそうに笑う名前さん。頑張り屋というか、猪突猛進というか。少なくともこの人が仕事に並々ならぬプライドを持っていて、自分で言っていたように負けず嫌いで頑固なのだという事はよくわかった。
 オレが心配しても、例えばそれを口にしたとしても大した効果はなさそうだ。こういうタイプの人、止めても意味なさそうだし。そう思っていた時にふと気づいた、自分がいいものを持っているという事に。
 じゃあこれ、と手に持っていたコンビニの袋を彼女の前に差し出す。

「へ……? なんですかこれ、プリン?」

 目を細めて袋の中を覗き込みながら、名前さんはオレとプリンとを交互に見やる。彼女は頭の上にクエスチョンマークを浮かべつつ小さく首を傾げた。

「今日の戦利品。頑張ってる名前さんに」
「あ、ええと、よくわからないけどいいんですか? っていうかわざわざ……?」
「いやいやホントに戦利品。例のバスケバカの相手して勝ったんで」

 紙一重だったけど、と付け足すと、一瞬きょとんとした表情をした名前さんは口元に手を当てて「また賄賂ですか?」と楽しそうに笑った。

「うん、だからオレのこと記事に書く時は良い感じにお願いします」
「ふふ、任せて下さい」

 そんな会話をしながらエレベーターに乗る。彼女が手に持っている大きな紙袋の中身をちらりと覗くと、資料やらなんやらがドッサリ詰め込まれている。このまま部屋に帰ってすぐ眠るような流れではなさそうだ。
 それにしても、この人のことを放っておけないと思ってしまうのは何故だろう。すげえ真面目なくせにどこかうっかりしてるし、しっかりしてる様に見えて迂闊で隙だらけだからかな。たぶん、名前さん自身は全然気づいてなさそうだけど。
 彼女の部屋はオレの上の階なのでオレの方が先にエレベーターを降りることになる。それじゃあ、と声を掛けると「おやすみなさい」と返された。そんなこと言ってどうせまだ寝ないくせに、と思いつつ「おやすみなさい」と返事をして、閉まるエレベーターを見送った。


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