6.

 目が覚めると、頭がぼうっとする感じも力が入らないほどの気怠さも感じなくなっていた。
 部屋を訪問してくれた仙道さんに無理やりベッドに寝かされて、どうやらそのままぐっすりと眠ってしまっていたらしい。むくりと上半身を起こして、いつの間にか額に貼ってもらっていたらしい熱冷ましの冷却シートを剥がす。寝ぼけ眼で自分の寝室をゆっくりと見回す。そういえば仙道さん、どうしたんだろう。
 彼のことを考えた瞬間、カッと顔が熱くなった。たかが「かわいい」なんてそんな言葉ひとつで動揺してしまった自分が恥ずかしい。あれだけカッコいい人だし、相田くんも言っていた通り相当モテていたらしいから、そんな言葉ぐらい恥ずかしげも惜しげもなく発してしまえるのだろう。プリンのときもそうだったし、言い慣れているに違いない。
 ちいさく息を吐き、目を閉じて雑念を振り払うように首を振る。女性にそういう言葉の安売り、しちゃいけないんですよってちゃんと教えてあげないと。
 喉の渇きを感じながら寝室を出る。リビングに入ると、ソファーの上に大きな体を小さく丸めて眠る仙道さんがいた。
 びっくりして声を上げそうになったけれど、咄嗟に両手で口を抑えてから深呼吸をした。自分の額に貼られていた冷却シートがまだほんのり冷たかったので「まだ居るのかも」とは思っていたけれど。おそらく、夜通し私を気にかけてくれていたのだろう。その優しさを素直に嬉しいと思えて、自然と口角が上がってしまった。
 目の前の彼がすやすやと眠っているのをいいことに、遠慮なくそのご尊顔を凝視してみる。整った凛々しい眉毛、柔らかく閉じられた瞼。それを縁取るまつげがとても長くて、女として負けたような気持ちになった。
 いいなあ、まつげ長くて。それになんか肌も綺麗だし。やっぱり運動して汗かくって大事なのかな。それとも、適当そうに見えて実はケアとか頑張ってたりするのかな。
 って、適当そうだなんて勝手なイメージを押し付けてしまった。ごめんなさい仙道さん。誰かが見ているわけでも、心の声を聞かれたわけでもないけれど、小さく頭を下げる。
 それにしてもスポーツ選手に一晩中看病させてしまうなんて、と猛省する。まさか抱き上げられて強制的に寝かされるなんて思っていなかった。動揺してしまった、なんてただの言い訳だけど。本当なら断固として追い返さなくちゃいけなかったのに。
 プロのスポーツ選手って体調管理が半分仕事みたいなものだし、ソファーなんかで寝かしてしまって風邪でも引いてしまったらとか、そもそも私なんかの看病をさせてうつってしまっていたらとか、考えれば考える程みぞおちのあたりが冷えていく感じがする。
 そんな私の心配なんか露知らずといった様子で、目の前の仙道さんは相も変わらず穏やかな表情ですやすやと寝入っている。私がソファーに座っている時に使っているブランケットをおなかに掛けてはいるけれど、長い脚はブランケットにも、そしてソファーにも収まっていない。
 今が冬でなくてよかったと思いながら、急いで自室からタオルケットを引っ張り出してきて、彼を起こさないように静かに掛けた。

「……ん? あれ?」

 ノートパソコンと向き合っていた私は、背後のソファーから聞こえてきた寝ぼけた声のした方を振り返り「おはようございます」と声を掛ける。
 むくりと起き上がった仙道さんは寝ぼけ眼でしばらく私をじーっと見つめ、子どもみたいに手の甲で目をゴシゴシと擦ってから「あー、思い出した」とにへらと笑った。

「名前さん、もう起きてて平気ですか? 仕事しちゃってるっぽいけど」
「大事を取って今日はお休みしました、ご心配をおかけしました」
「よかった、ホントは仕事もしないでまだ休んでてほしいんですけどね」
「仙道さんのおかげで元気になりました。それと、少しでも仕事してないと調子崩してまた具合悪くなりそうなので」

 こんど熱出したらベッドに縛り付ける準備してこねーとなぁ、なんて起き掛け早々に物騒なことを言う仙道さんの言葉は聞かなかったことにする。
 ソファーに座ったままの仙道さんは何か言いたげにこちらをじーっと見つめていたが「ちょいと失礼」と言うと私の額に手のひらを添えてきた。彼はそのまま眉根を寄せて険しい顔をしたが、すぐに「うん下がってる」と頷きながらにっこりと笑んだ。

「……あの、本当にありがとうございました」

 彼の方に体ごと向き直り、深々を頭を下げる。
 まさか朝まで看てくれているだなんて思わなかったし、申し訳ない気持ちでいっぱいなのに、それでも彼が本当に私を心配してくれていること、そして私の眠っている寝室ではなく、リビングで寝落ちてしまっているというところに感心してしまったのだ。飄々としていて掴みどころがない印象の仙道さんだけど、そういうところはちゃんとしているんだなあと思った。そういえば、初対面の時だって気遣いの出来る人だった。
 ただ同じマンションに住んでいるだけの女のために、プロのスポーツ選手が一晩中看病をしてくれていたなんて。自分の身に起きた出来事なのに、まるで少女漫画みたいだ。しかも仙道さんって見ての通りいわゆるイケメンだし、加えて年下ときたものだ。
 大部分を占める申し訳ない気持ちの隅っこで、ちょっぴり顔をのぞかせているこの展開にキュンとしてしまっている自分を「いやいやいや」と心の中で諫める。

「むしろオレが勝手にお節介焼いちゃって、家まで上がりこんじゃってスミマセンでした。しかもうっかりここで寝ちゃったし」
「いいんです! 心配してくれてたってこと、すごく伝わったから」

 物事に取り組み始めると止まらなくて、ブレーキが掛けられなくなっていた。自分が寝不足だってことも、ヘトヘトになっていることだってちゃんと自覚していたはずなのに。いい大人のくせに自分の体調管理もできていなかったことが心底恥ずかしい。
 いま向き合っていたノートパソコンの中には、この間の開幕戦の様子が文字に起こされている。VTRを確認しながら文字を打ち込むたび、私がもうすっかり仙道彰という選手に魅了されてしまっていることに気が付いていた。人はこうしてスポーツ観戦にハマって、スポーツ選手のファンになっていくのだろう。
 ついこの間、あんなに華麗なプレーを見せて、あの場にいた全員を興奮させた選手が、今はこうして私の部屋で寝ぼけた様子なのが面白くて、思わず少しだけ笑ってしまった。
 仙道さんはそんな私の様子を不思議そうに眺めながら「あれ? もしかしてオレ、なんか顔についてます? ヨダレ垂れちゃってたかな」なんて眉尻を下げているけれど、私は口元に手を当てながら「いいえ」と首を横に振った。

「仙道さん、カッコいい上に優しいなんてズルすぎです」

 仙道さんは「え?」と言いながら目をぱちくりさせている。
 見る者全てを虜にしてしまうプロバスケットボール選手の仙道さんと、プライベートモードでちょっとだけ気の抜けた仙道さんのギャップにほんの少しときめいてしまっただなんてことは、口が裂けても言えないのだ。


***


 階段を下りて、自分の部屋に戻る。
 そういえば、昨日はマンションに帰ってきてそのまま名前さんの部屋に向かったので自分の部屋に戻っていなかった。
 鍵を開けて玄関へと入る。その場でスポーツバッグを下ろすと、ドアを背にしてそのまましゃがみ込んだ。自分の意志とは関係なく出てきた大きなため息は、見上げた玄関の天井へと消えていく。
 まだどこか本調子じゃない様子で、困ったような表情で言った彼女の言葉が頭の中をぐるぐると巡り、加えてぐわんぐわんと反響している。
 ひとつ年上で、第一印象はおとなしそうに見えるのに、実はものすごい表情豊かで頑固で、人を頼るのが得意じゃなくて。そんな彼女が見せた屈託のない、心の壁を感じさせないふにゃっとした笑顔と、真っ直ぐなその言葉にオレは否応なく自覚させられてしまったのだ。
 ぼーっとしたままの頭を思い切りぶん殴られたみたいな衝撃。そのせいで寝起きのぽやっとした感覚は即座に吹っ飛ばされてしまった。
 そのまま何事もなかったかのようにノートパソコンに向かい始めた彼女が振り向いて「あ、そうだ! 朝ごはん召し上がりますか?」なんて言っていた気がするけれど、オレは首を小刻みに振って「ダイジョウブです」と間髪入れずに断って、借りていたブランケットと、いつの間にかかけてもらっていたらしいタオルケットを至極丁寧にたたんでから彼女の部屋を後にしたというわけだ。

「いや……困ったな」

 額に手を当てて、今度は意図的に深く息を吐く。堪えきれずに笑いが込み上げてきた。
 そういう感じじゃなかったはずなのに。これってもしかして、なんて思う暇もなかった。あの瞬間、あの笑顔と言葉のコンボはものの見事に決まっていたのだ。


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