3.

 昨日宅配便で届いたのは二年分の週刊バスケットボールのバックナンバー。それらが詰め込まれたダンボールを開いた私は、自然と出そうになったため息を寸でのところで抑えることに成功した。
 いい文章を書くためにも、いいインタビューを行うためにも、やはり必要なものはその物事に関する知識であると思う。知っていれば出来ることが増えるけど、知らなければ広がるどころか狭くなっていってしまう。任された以上、最低限の働きぐらいはしてみせなければいけないし、もっというと私はとても負けず嫌いなので最低限に甘んじるつもりはない。
 カタカナが溢れる記事を読み進めていくが、その意味が読み取れるのは二割ほど。字面でなんとなくこんなルールだろうな、こんな意味だろうな、というのを察することが出来るものもあるが、大抵は全くわからないものばかりである。その意味を逐一パソコンで調べて、買ったばかりの新しいノートに書き記す。とってもアナログな作業を行っているということは自覚しているけれど、私にとっては書きとることが学生時代から変わらない覚えるための一番の近道なのだ。
 トラベリングだとか、アシストだとか、スリーポイントシュートだとか、そういう知っている単語が出てくると「ふふん、これは知ってるもんね」と得意げな気持ちになった。我ながらなんと低レベルなことか。
 そうして気付けば時計は二十三時を回っていた。帰宅したのが二十時過ぎで、ちゃっちゃと夕飯を済ませてから昨日届いたダンボールを開け、この作業をし始めたのが二十一時前。あっという間に二時間が経過してしまっていたようだ。
 しかし、仕事の為といえどこうして新しい知識を蓄えていくのは楽しいし、あまり苦痛に感じない。それに、何もわからないまま試合を観るより、少しでも頭にワードを叩きこんでから観た方がいいに決まっている。緊張や不安はまだあるけれど、いつの間にか早く生で試合を観戦してみたいと強く思うようになっていた。
 この暑い夏が終わればプロリーグ戦が始まる。仕事の方も、きっと目が回るほど忙しくなるだろう。それでも、どうしようもなくワクワクしている自分がいる。
 その場でうーんと伸びをして、倒れるようにソファーに横になる。こうして寝そべって、そのまま寝落ちてしまって風邪を引いたことが何度もある。朝方に目が覚めると体はバキバキになっていて、ついでに鼻までぐすぐすしている始末だった。今このタイミングでそうなるのだけは避けたい。
 集中しすぎていたせいか、脳みそが糖分の補給を求めているのを感じる。冷蔵庫にチョコかなにかあったっけ。
 このままではソファーに触れている部分から根っこが生えてしまう気がしたので、私は気怠い体を無理やりに起こして立ち上がると、もう一度伸びをしながら冷蔵庫を開けた。

「なんにもない……」

 お目当てのものが見当たらずにこぼれた言葉。しかし、もう既に辛抱たまらんという気持ちになってしまっていた私は、部屋着のTシャツの上に薄手のカーディガンを羽織り、小銭入れをポケットに入れて家を飛び出していた。コンビニはマンションを出て200メートルほどの場所にある。
 外へ出ると、湿度の高い空気が頬を撫でてきたので思わず顔をしかめた。空を見上げると、キラキラと輝く星がいくつか見える。建物だらけで人だらけの都会でも、こうして見える星は綺麗だと思う。ぱたぱたと早歩きで歩くと、適当に履いてきたサンダルがリズム良く夜道を鳴らした。
 二十四時間いつでも明かりの灯ったコンビニの中に入ると、冷房の効いた涼しい空気に思わず安堵のため息が出る。
 コンビニを訪れると、職業柄どうしても雑誌のコーナーを流してから目的地に向かうようになってしまっていた。ついこの間まで関わっていた文芸誌の見慣れた表紙。スポーツ誌の並ぶスペースには一番新しい週刊バスケットボール。私が書いた記事が、これからきっと載るようになる雑誌。こうして並んでいるのを見るたび、誇らしい気持ちを持てるようになりたい。
 帰ったらもう少しだけ勉強してから寝よう、と決意を新たにしてから、私は目的であったチョコレートの並ぶお菓子売り場へと歩を進める。
 適当なチョコレートを手に取ってから、アイスって気分じゃないけどプリンでも買って帰ろう、と思い立ち、今度はスイーツの並ぶ辺りへと向かう。とろけると書かれたプリンの上には生クリームが乗っていてものすごく惹かれたけれど、私は卵くささのあるかたいプリンが好きなのでその横にならんだスタンダードな物を手に取ってみる。
 うーん、やっぱりもうひとつの方も気になる。でも、こんな時間にプリンふたつなんて罪深いにも程があるよね。

「オレも卵っぽいかたいプリン、好きですよ」

 唐突に掛けられた声にギョッとして振り向くと、ぴょこっと片手を上げた仙道さんがそこに立っていた。びっくりして口をあんぐりと開けたままフリーズしてしまった私。対して、柔らかく目を細めた仙道さんの人の良さそうな笑顔はなんていうかとんでもなく眩しい。

「あ、こんばんは! 奇遇ですね! ええと、プリンの好み含めて!」

 プリンの好み含めてって、と噴き出すように笑った仙道さんは「面白いなあ、名前さん」と続ける。この人、私のこと下の名前で呼ぶんだ。正直言って少しだけ恥ずかしいけど、ここまで自然にされると意識してしまう自分の方がおかしい気がしてくる。気にしないでおこう。仙道さん、人との距離の詰め方上手いなあ。
 ていうか、いつから見られていたんだろう。プリンを二個とも手に持っていなくてよかったと心底思う。それでも、どっちにしようと悩みまくっていた姿はおそらく目撃されていたに違いない。

「いまお帰りですか?」
「同じチームに一個下のバスケバカがいるんだけど、練習終わって帰ろうと思ったらそいつに捕まっちゃって」

 練習終わったのにワンオンワンしろって無理やり相手させられてたんです、と眉尻を下げながら仙道さんは言った。
 ワンオンワン、その名の通り一対一で勝負すること。読んでいた記事の中で何度も出てきたその単語がちょうど出てきたことがうれしくて、ついニコニコとしてしまっていたらしい。仙道さんが不思議そうな表情でこちらを見つめていたので、はっとしてすみませんニヤニヤしちゃって、と頭を下げる。

「バスケのこと、全然わからないから用語とかルールとか勉強中なんです。ちょうど覚えたワードが出てきたからうれしくなっちゃって」

 いきなりニヤニヤし始めるヘンな女だと思われてしまったかもしれないと必死に取り繕ってみたら、仙道さんは「真面目なんですね」と感心するように呟いた。

「そうですか……?」
「今までピタッとハマるところにいたのに、いきなり全然違う場所で同じパフォーマンスしろっていわれて、それでも文句垂れずに向き合うってすげえ大変なことだと思うからさ」

 名前さんはえらいよ、と改めて感心するように言った仙道さんの声音があまりにも優しかったから、私はついつい唇をぎゅっと結んでしまった。
 なんていうか心の奥がムズムズして、恥ずかしくて、そして気付いた。どうしよう、ものすごくうれしい。こうやってがまんをしていないとゆるゆるニコニコしてしまいそうだ。顔に力を入れてなんとか堪えている状態である。

「出現した壁は絶対に乗り越えたいタイプなんです」
「へえ、めちゃくちゃ体育会系な考え方ですね」
「めちゃくちゃ文化系なんですけどね」
「攻撃は最大の防御って言うもんなあ」
「それでいうなら知識は力って感じです」
「なるほど、すげえ文化系だ」

 楽しそうに笑う仙道さんについつられて笑ってしまった。
 スポーツ選手ってもっとこう、ガツガツしててゴリゴリしてて圧の強いイメージがあったけれど、仙道さんはそれとは真逆な気がする。なんていうか、話してても気を張らなくていいというか、彼自身がおっとりしていて雰囲気が穏やかだからかもしれない。仙道さんと会話をしていると、いつのまにかすっかりそのペースに巻き込まれてしまっているのに何故だかとても落ち着く。
 そろそろ支払いをしようとレジにチョコレートとプリンを置く。すると、ペットボトルの大きいお茶を抱えていた仙道さんが「奢りますよ、頑張ってる名前さんにご褒美」とまとめて支払いを済ませてしまった。

「え、あの、でもそんな、わるいです!」
「どうしても甘いモン食べたくなって夜遅くにわざわざ外出てきちゃった、ってとこかな」

 っていうのがオレの推理なんだけど当たってます? と変わらず穏和な表情の仙道さんが少しだけ腰をかがめてこちらを覗き込んできた。

「そういうとこ、なんかかわいいですね」

 私は「へ……?」と素っ頓狂な声を上げてしまっていた。かわいいって、その言葉はまさか私に対して言ったのだろうか? 夜遅くにコンビニに来て甘いものを買っていく女子がかわいい? ただ自分の欲望が抑えられなかっただけなのに? ていうかこの人のかわいいの定義ってなに? カップ麺とかだったらアウトだったよね? と、脳内はたちまち大混乱である。
 とりあえず「ありがとうございます」と頭を下げる。それにしても、こんなことをサラリと言ってのけてしまうプロバスケットボール選手の仙道彰さん、恐ろしい人だ。シーズンが始まったら女性ファンが爆発的に増えていくような予感がする。予感じゃなく、間違いなくそうなるに違いない。

「これから会う事も多くなるだろうし、改めてよろしくってことで」

 それにしちゃ安い賄賂になっちゃったけど、カラカラ笑う仙道さん。
 確かにこれからは仕事で関わることも多くなるし、会う機会も増えていくだろう。出会い方はちょっと恥ずかしい、個人的にはあまり思い出したくないようなものだったけれど、逆にああいうハプニングが起きたから距離が縮まるのが早かったのかもしれない。そういうことにしておきたい。

「こちらこそ、バスケのこと全然わからない新参者ですが何卒よろしくお願いします」
「おお、なんかそのナニトゾってやつ、武士みたいでカッコイイな。今度オレも使おっと」

 名前さんと話してると頭よくなれそう、と夜空を見上げながら言う仙道さんの横を歩く。さっきは不快に感じた外の空気が、何故だか帰りは幾分かましに感じられた。


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