2.

「へ、異動……ですか?」

 そうそう、と言いながら差し出されたのは弊出版社から毎週発刊されているスポーツ誌である。その名も週刊バスケットボール。その名の通りバスケットボールに関しての雑誌であり、国内の高校バスケから大学リーグ、プロリーグに至るまでを網羅し、海外情報も少なめであるが掲載されている。 ……ということだけは把握しているのだけど。

「いや、私スポーツわからないですし、バスケなんて高校の体育でやったのが最後でしたし、今やってるの文芸誌担当で文学部卒ですけど……」

 私のどこにもバスケ雑誌を作れる要素なんて、と情けない言葉を絞り出しながら、目の前に差し出された雑誌をぺらりとめくってみる。どのページにもオレンジ色のバスケットボール、選手のたくましい肩と二の腕、それにふくらはぎ。首筋を伝う汗がやたら色っぽくて、写真を見ているだけで熱気が伝わってくる。

「でもこれ辞令だし、経験だと思ってやってみてくれないかな。週バスのプロリーグ担当チームのライター、ひとり抜けちゃうからさ」

 苗字の文章なら躍動感溢れるバスケの記事もいけると思うんだけどなあ、と言っているのはこれから私の新しい上司となる週刊バスケットボールの現編集長である。そう言ってもらえるのはうれしいことだ。編集者として、そしてライターとしてこれ以上の喜びは無いと思う。でも、専門分野じゃない場所で自分の力が通用するとはとても思えない。
 それでも、拒否出来ないことなのだとちゃんと理解していた。私はこの出版会社の社員で歯車で、お上の命令には従うしかないのだ。好きで選んだ業界で、やりがいを感じているし、極限に不安であってもレベルアップの機会であることには間違いない。

「……がんばります」
「じゃ、来月からよろしくね! いや、よかったよかった。常々この子はいい文章書くなーって思ってたんだよ」

 そんなこと言われたら素直に喜んでしまう。それがただのヨイショであっても、やる気を出させるためのおべっかだとしても、自分の仕事が認められて評価されているというのはうれしいし、社内の中で必要とされることがどんなにありがたいことなのかは重々理解している。
 この人、私の転がし方を早速わかってる。褒められるとうれしくて頑張っちゃうし、無茶ぶりされても「苗字だから頼んだんだ」とか言われたらどうしたって請け負ってしまう。それで何度しんどい思いをしたことか。
 それでもやれば力になるし、評価につながるし、達成感もあるし。それにこの仕事、好きだし。もうやるっきゃないという少々、いやかなりやけっぱちな感情を抱えつつ、私はふう、と小さく息を吐いた。
 大学を卒業して、新卒でこの会社に就職してから四年間ずっといた文芸雑誌の編集部を去るまでの三週間は流れるように過ぎて行った。
 担当させて頂いていた先生方や外注のライターさんたちへの挨拶、編集部内での引き継ぎと飲み会、それから自分のデスクの整理だ。
 全く触れたことのないジャンルの仕事をするということに対して怯えている自分がいる。それがとんでもなく悔しくて、自席の荷物をダンボールに詰め込みながら「私はやれる、私はやれる、私はやれる」と何度も心の中で念じてみた。
 そしてあっという間に今日は異動日である。ただビルの中でフロアを移動するだけなはずなのに、どうしても緊張してしまっている。
 週刊バスケットボール編集部のあるフロアには、すべてのスポーツ関係の編集部が集まっていた。野球にサッカー、バレーボール、そしてバスケットボール。そのほかにもスペースは小さくともいろんなスポーツ関係の雑誌を刊行しているらしいことがわかる。弊社で刊行されている雑誌をすべて把握している人なんているんだろうか。そもそも、スポーツ系の雑誌だけでもこんなにある。つくづく、自分が今までいたジャンルの事しか知らなかったんだと思い知る。
 ええい、だめよ私。心を強く持たないと。スポーツ系なんてゴリゴリしてそうな部署で小っちゃくなってたら、活躍も成長もできないに決まってる。
 新部署での挨拶を終え、午前中は自席でデスク周りの整理を出来ることになったので、つい昨日詰め込んだばかりのダンボールから資料やらなんやらを出して並べ始める。ここで使わなそうなものはすべて前の部署に置いてきたので少なめだが、きっとこれから必要な資料がどんどん増えていくだろう。

「あー、やっぱり!」

 そんな大きな声が背後で響き、私は思わず大げさに背中を揺らした。人は驚いた時、ほんとうにドックンと大きく心臓が鳴る。驚きのあとで湧いたほんの少しの怒りの感情を抱えつつ振り向くと、そこに立っていたのは見覚えのある後輩の姿だった。

「あ、相田くん……?」
「苗字さんって名前聞いてからもしかしてって思てたんですよ! こりゃ百人力やで!」

 相田彦一。私の二つ下の後輩である。うちの会社は新卒で入ると三か月間いろんな部署で先輩社員に同行することが決まっている。文芸誌の部署にやってきた彼が二週間ほど私に引っ付いて回っていたのは去年の春の事である。
 そんな彼は、入社時より週刊バスケットボール編集部への配属を熱烈に希望していた。全くわからない単語が飛びまくるバスケトークを散々聞かされたことを思い出して、私はすこしだけ苦笑いする。このテンションの高さと声の大きさはどうやら変わっていないらしい。

「今度は私が新人だし、足引っ張っちゃうと思うけどよろしくご指導お願いします」
「いやいやいや頭上げて下さいて!  にしても、ウチの編集長はやり手やなあ、苗字さん引き抜いてくるなんて!」

 体育会系の部署ってこういうノリなのだろうか。言葉で人をその気にさせるスキルが身についている人が多い気がする。そうか、選手たちにインタビューする機会も多いだろうし、そういう言葉をうまく使って盛り立てられるほうがいいに決まってる。そういうの、これからどんどん吸収していかなくちゃ。
 ベテランの女性ライターさんがおったんですけど産休に入られたんですよ、と続ける相田くんの言葉を聞きながら、現状私の立ち位置がどこであり、これからどのように動けばいいのかをなんとなく把握した。
 地方のチームには地方にいるライターが取材に向かっているため、主に私たちが回るのは関東圏をホームとするチームとのことだった。地方への出張が多くなることを覚悟していたけど、そんなに頻繁ではないと聞いてホッとする。普段は大体編集者兼ライターが二人で行動し、インタビューや試合ではカメラマンがついてくるらしい。
 私はしばらく相田くんとツーマンセルで動くようになるらしく、少しだけホッとした。顔見知りの知り合いと行動できるなら気持ちが楽だ。それに、相田くんならわからないことをじゃんじゃん質問しても喜々として答えてくれそうだし。

「じゃあ早速ですけど、午後から練習覗きに行きますからね!」

 隣のデスクに座ってからも楽しそうに話し続けている相田くん曰く、そのチームには高校時代に目標としていたヒーローのような先輩が所属しているのだそうだ。その人は大学リーグで活躍後、卒業してから三年間海外で武者修行をしたのち、帰国してトライアウトを受け、今シーズンからプロチーム入りしたらしい。言うなれば、期待の今期注目選手である。
 うーん、なんていうかとんでもなく創作的な、そしてものすごい設定モリモリな人だなあなどと思ってしまう私は、やはり文芸誌上がりの編集者であるのだと気づかされる。

「ものっすごい人なんですよ! ちょーっと時間に大らか過ぎるのが玉に瑕なんやけど」
「それは時間にルーズと言った方がいいのでは……?」
「それを置いても要チェックですよ!」

 置いちゃうんだ、という私のツッコミを華麗にスルーして、鼻息荒めに話し続けている相田君を眺めながらなんだか微笑ましい気持ちになった。
 人見知りをしなくて、明るくて社交的な性格はスポーツ関係のライターに向いてるし、選手らともきっとすぐに打ち解けてインタビューも円滑に進んでいくに違いない。私も見習っていかなくちゃ、と思う。
 何もわからないからと甘えているわけにはいかない。新入社員の頃の気持ちを思い出して、初心に還って頑張るしかないのである。吸収して、貢献して、やりがいを見つければいい。負けちゃいられない、という気持ちがふつふつと湧いてきて、私は気合いを入れるべく小さく拳を握った。
 相田くんの運転のもと、社用の車で移動した先は都内のアリーナだった。いくつかの体育館やプール、小規模少人数でも使えるような部屋などが入った複合施設である。
 相田くんから手渡されたジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ、通称Bリーグの選手名鑑とにらめっこしている間に車はアリーナに到着していた。
 到着しましたよ、という彼の声ではっとして、選手名鑑を小脇に抱えながらあわてて車から降りる。最初から読み始めてしまったので到着までに取材をするチームの所まで辿り着けなかった。要領が悪い、さっそく反省だ。
 体育館に入る前から、フロアをバスケットシューズが擦る独特の音と、ドリブルの音が耳に届いていた。なんだか懐かしい、少しだけ学生時代を思い出す。中学とか高校の頃は、放課後に体育館の前を通るたび同じ音がしていた気がする。

「こんにちは、週バス相田です! お邪魔しまーす!」

 元気よく挨拶をする相田くんに引っ付いて、ぺこりを頭を下げながら体育館に足を踏み入れる。選手たちの声、監督、そしてコーチらしき人の声と、いろいろな音がまじりあうバスケまみれの空間は熱気に満ち満ちている。
 相田くんに連れられるがまま、トレーナーさんやらマネージャーさんやらに挨拶をして、名刺を渡す。自分のいままでいた世界と違い過ぎて、本筋の業務はほとんど同じでもどうしても委縮してしまう自分がいる。
 こんな肝っ玉の小さい自分に気づきたくなかった。だけど、しっかりしなくちゃ。ああもう、今日だけで何度こうして自分で自分を鼓舞しただろう。
 挨拶に回るのが落ち着いて、どうやら紅白戦をしているらしい選手たちの様子を眺める。中には小柄な選手も見られるが、ほとんどの選手は180センチをゆうに超える高身長である。なんだか物の縮尺が狂って見える。ジャンプしたその手はバスケットゴールに軽く届いてしまっているけれど、私なんかじゃ到底届くはずもないだろう。
 午前中、新しいデスクを整理しながらプロバスケットボールのリーグ戦について少しだけ教えてもらった。九月の半ばにシーズンが始まり、ホームアンドアウェイ方式で五月の半ばまで行われるらしい。つまり、現在は迫ったリーグ戦の開幕に向けた大切な時期、というわけだ。
 ボク、ちょっと席外しますけどここに座って様子眺めとってくださいね、と相田くんに促されるまま、邪魔にならない場所に置かれたパイプ椅子に座らされる。正直、ものすごく心細い。きっと借りてきた猫ってこんな気持ちに違いない。
 私は手に持ったままだった選手名鑑を開き、紅白戦に参加している選手の顔を見ながら、指先で写真を辿って照らし合わせてみる。名前、身長、体重、それに生年月日とポジション。前に所属していたチーム、出身地なんかも記載されている。PGだとかSGだとか、それらがポジションの名前らしいことはわかるけれど、どんなことをするのかとか、そんなことは全くわからない。まずはそういうところから覚えていかなくちゃ。
 うーんと眉間に皺を寄せながら、選手名鑑とにらめっこしていた私は「あれ?」と上から声を掛けられるまで目の前の存在に気が付かなかった。何度かまばたきをしながらその声の主を見上げる。私が座っていて、彼が立ったままだからだろうか。目の前に立っている人物は巨人ではなかろうかと思う程大きく見えた。
 彼は「あ、やっぱりそうだ」とどこか楽しげな声音で言う。立ち上げられた髪型に、人の良さそうな穏和な雰囲気。それにこの声。

「こないだのパンツのお姉さん……えーっと名前、なんだったっけ」

 そう言われてハッとした。前髪を上げているから気付かなかったけれど、目の前に立っている彼は下の部屋に住む仙道さんだったのだ。

「な、ちょっとその呼び方やめてください! 苗字です!」

 弾かれたように立ち上がって、周りに聞かれてやしないかとひやひやしながら辺りを見回す。ブワッと毛穴が開いて変な汗が出てきた。仙道さんは「そうだ苗字さん、スミマセン」と悪びれた様子もなくにこにこしながら困ったように眉尻を下げて笑っている。いや、困った顔したいの私のほうなんですけど。っていうかもうこの間のことは思い出したくないんですけど。
 しかし、そんなことよりも、だ。

「なんであなたがここに……!?」
「仙道さん! 仙道さんやないですか!」

 その声がした方向を見ると、相田くんがこちらに駆け出して来たところだった。「おお彦一、久しぶりだなあ」と朗らかに笑う仙道さんと、目を輝かせて仙道さんを見る相田くんを交互に眺めながら、えーとえーとつまりこれは、と私は必死に脳内を整理する。
 このチームには高校時代に憧れていた先輩が所属しているといっていた相田くん。目の前で流れる汗をタオルでぬぐっている仙道さん。私は選手名鑑を覗き込み、ゆっくりと指で辿る。あ、これオレですよ、という声と共に、にゅっと伸びてきた仙道さんの長い指が写真を示した。
 私は本を持ったまま、それを仙道さん顔の横に並べて見比べてみる。さすがにあんまり凝視されっと恥ずかしいなあ、と言っている仙道さん。真横にいる相田くんに助けを求めて視線を投げたら、相田くんはうんうんと強く頷いた。

「えっ、プロ選手……!?」

 背が高くて穏やかで見てくれのいい仙道さんは、保育士でも介護職でもモデルでも俳優でもなく、プロバスケットボール選手。相田くんの高校時代の先輩で、憧れて尊敬してヒーローみたいに思っていた存在で、大学リーグで大活躍して、そののち三年間海外で武者修行して、帰ってきて今期からプロチーム入りした期待の選手。それがいま、目の前でにこやかに笑う彼なのだ。私のプロファイリング、大外れである。

「あれ? もしかして仙道さんと苗字さん知り合いなんですか?」
「あ、え、ええとマンション同じで、私が仙道さんの上の部屋で」
「オレが苗字さんちの下。こないだ、たまたま苗字さんの」
「あーあー、ストップ! なんでもないの、それだけ!」

 慌てふためく私を訝し気に見つめてくる相田くんの視線に気づかないふりをして、口が軽すぎる仙道さんをキッと睨みつける。この人は緊張感が無いというかユルいというか。悪気がないのはわかるけれど、少しはこっちの気持ちも察してほしい。あんな恥ずかしい出来事が後輩に伝わるなんてことは絶対に避けたい。
 とりあえず、挨拶ぐらいは改めてちゃんとしなくちゃ。私はゴホンと小さく咳払いをして、ポケットの中にある名刺ケースから自分の名刺を一枚取り出し、仙道さんに差し出す。

「この度週刊バスケットボール編集部に配属になりました、苗字名前です」

 改めて今後ともどうぞよろしくお願いします、と頭を下げる。
 仙道さんは渡された名刺をしげしげと眺めながら「へえ、編集者さんだったんだ」とひとりごとみたいに呟いた。さっきの発言からもわかっていた、仙道さんの中にある私は「上の部屋に住んでるパンツを落とした人」なのである。ああ、一刻も早く忘れてほしい。記憶を書き換えてほしい。できるならば抹消してほしい。それで今後一切思い出さないでほしい。

「名前、名前さんっていうんですね。そっか、ぽいぽい。そんな感じ」
「ええと、どうも……?」

 にこにこと笑う仙道さんの雰囲気についつい流されそうになる。「まさかお二人が知り合いだったなんて、珍しいこともあるもんや!」となんだか楽しそうな相田くんになんとなくな相槌をうちながら、やっぱり私と仙道さんが知り合ったきっかけは隠しておかなきゃ、と強く思うのだった。


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