幾重もの波紋の真ん中


一先ずご飯にしよう?
そう言って俺に触れるだけのキスをする陽菜が、おかえり、と確かめるように言うそれに固まっていた心が解れるのを感じながら、ただいま、と返し目を細め笑い掛けた。


「私が知ったのはジャンが教えてくれたから」
「!…アイツが?」
「そう。家に来た」
「はあ!?上げたの!?」
「まさか。家の外で話を聞いた。それぐらいはちゃんと弁えてます」
「あー……そう?」


そうとは思えねェけど。それが例えば沢村や春市、樹であったら簡単に家に上げるでしょ絶対。
じとりと目を細める俺に、冷めるよ、とシレッと言う陽菜は俺が何を言いたいか分かったらしく小さく溜息をついて俺の皿にサラダを取り分けてから自分にも取り分けながら口を開く。あ、美味そう…。トマトとアボカドと…豆類。取り合わせによって効率良く栄養の取れるのだと勉強してくれてんのが毎日の飯に見て取れて、俺はこの時間が好き。ドレッシングも工夫してくれてるし、彩りも食感も飽きないから最近はかなり進んでサラダを食ってる気がする。

いただきます、と手を合わせると陽菜がその瞬間ふわりと笑って、はい、と嬉しそうに頷くのも好き。あ、パプリカ甘い美味い。


「私、後輩には甘い自覚はあるけどわりと鳴に対しても甘いと思うけど」
「!ッ、ゲホッ!ゴホッ!!」
「…違う?」
「ち、違くなっ…ゴホッ!…違くない」
「ね?だからちゃんとどんな時も鳴がどう感じるかは考えてる」
「ん。ありがと」
「どういたしまして」
「……サラダ、美味い」
「良かった」


サラダだけじゃない。皮をパリパリに焼いた鶏もも肉のソテーもきんぴらごぼうもほうれん草のお浸しも美味い。
陽菜のところに帰ってくるまで、腹の底は怒りやどう仕返ししてやろうかと醜い感情でいっぱいだったのに今はそんなの全く無い。ほわりと温かい感情が全身を満たして箸を手に、ほう…、と安堵の息さえつける。
味噌汁もウマ…。

飯を食いながら話すのも嫌だから敢えて話題を外して今日チームであったことを話す。陽菜も笑いながら聞いてくれて嬉しそうにしてくれるから多分これが正解。
で?と俺からやっと話題を戻したのは陽菜が食後にコーヒーを淹れてくれて、それを一口飲んだ後だ。


「あのクソガキ、なんだって?」
「鳴にはカイルがタイミングをみて話すから内密にしてくれって」
「へぇ、生意気。まぁ確かにタイミングを図られた」


今日は練習日だったし明日は登板の予定なし。一丁前に俺を気遣ったのか自責の念かそれとも俺にあわよくばバレたくなかったのかは知らねェけど。

陽菜は眉を下げて小さく笑って、多分、と話し出す。


「意外と負けず嫌いなジャンのことだから、リンに騙されて煮え湯を飲まされたような心地なんじゃないかな」
「ふうん…」
「うん?」
「別に。随分アイツの肩持つなーと思って」
「私はリンが大嫌いだからね」
「!」
「え、なに?」
「珍しいじゃん。同じ球団の人間にそういう風に言うの」
「同じじゃない」


そう言ってコーヒーを飲もうと口に当てていたカップを下ろして目を細める陽菜を隣にソファーに座る俺の背筋にぞわっと走る悪寒。やばい、これ…相当怒ってる。もちろん傷ついたっていうのもあるだろうけど今見せられてるのはそれ以上の怒り。
サァー…と全身の血の気が引いたような気がしてコーヒーを飲んだ。あったか…これで少しはマシに…、


「鳴。運悪く水溜りを踏んで跳ねた泥水ってなかなか落ちないじゃない?リンのことはそういう風に思ってきたけど」


ならない!ちっともならねェ!!思わずごくりと飲み込んじゃって食道を下る熱さに悶絶!
大丈夫?と俺の背中に手を当てて、待ってて、とソファーから立ち上がり戻ってきた陽菜から水の入ったグラスを渡されて飲む。


「今回ばかりは綺麗に落とさないとね」
「ブハッ!…っゲホッ!!」
「もう…さっきから何やってるの?」


怖すぎ!!声調も低く地を這うようでぞわりとする!!
……けど。
この子の悲しさはいつも見えにくい。目に見えないからみんな勘違いするんだ。陽菜は強い。強いから大抵のことには堪えられるだろう。そうやってみんなが陽菜の体調不良に驚いたみたいに陽菜がちょっとやそっとのことじゃ泣くような子じゃないって思ってる。
俺は知ってるけどね。むしろ俺だけが知っていればいい。心が泣いても器用に涙を流せないどうしようもなく不器用で、可愛いこの子のことを。

まだ咳き込む喉を、ん"ん"っ!と整えて、しっかりして、と笑う陽菜が俺の噴き出した水を拭いてくれるタオルを手にするその手を握る。


「陽菜」
「うん?あーぁ、これは着替えないと…」
「陽菜」
「……なに?」
「こっち、向きな」
「…嫌」
「………」
「あんなことに、負けたくない」
「!…うん」
「っ…ムカつく…!引っ叩きたい…!!」
「うん」
「あの指輪は…っ私と鳴の…」


そこまで聞き出して漸く陽菜の手を引き寄せぎゅうっと強く抱き締めた。やっと聞けた本音と震える声、浮かんだ涙を見れて酷いかもしんないけどさ、やっぱホッとした。俺の腕を掴んで嗚咽を堪えて身体を震わせ泣く陽菜の頭を撫でながら踏みにじられた想いの強さと大きさを再確認してそれと同時に怒りがまた込み上げる。

リンにがどんなつもりで俺を引き抜き先の球団への手土産に嫌がらせをしたのかなんて知りたくもねェ。ふざけんな。陽菜はリンの営業能力はよく見習いたいと言ってた。舌打ち付きだけど。同じ球団で働く人間としては正しく評価してた陽菜をこんな最低最悪な形で裏切りやがって許せるわけがない。

つい陽菜の髪の毛を握っちゃったみてェで、いたたっ!と上がった声にハッとしてごめんと手を離してもぞもぞと俺の腕の中から離れながら涙を拭う陽菜の手を掴んで俺がやる。指を濡らす涙にまた心が締め付けられるけど、泣いてしまった気まずさに目線を泳がせて表情を固まらせる陽菜の可愛さに救われて顔が緩む。

自分の心よりも、俺の野球に影響がないように最善を選ぶ陽菜の強さと優しさに甘えてばっかはいらんねェ。なんてったって俺は旦那だし!
陽菜の擦って赤くなった目元に指を当てると、鳴の手の方が冷たい、とふにゃりと笑う陽菜に俺も笑いかけて、さて、と言葉を続ける。


「どうしたい?」
「同じ土俵には立たない」
「それは賛成」
「うん。で、私に良い案があるんだけど」
「へ?なに?」


俺にニィッと勝ち気を笑う陽菜を久し振りに見て少し懐かしい気分だ。
陽菜は大袈裟に得意げに胸を反らして、コホンッ、なんてわざとらしい咳払いなんかしてにんまりとするからブハッ!と噴き出し笑う俺、と一緒に笑う陽菜。そっ、と握った左手の薬指の指輪を指で撫でると陽菜が俺の首元を見て目を丸くする。ん?…あぁ!忘れてた。


「胸糞悪かったから帰ったら洗浄しようと思ってたんだ」


ポケットから取り出したネックレスチェーンと指輪に、そっか、とほっとした顔をする陽菜は俺の手から指輪を取って目を細め、徹底的にやろう、と頷く。


「実は内々に鳴に打診してほしいと前から電話をもらってたんだ。もうカイルには話をしてる」
「電話?誰?」


内々って、球団も通さずに?
目を細める俺に眉を下げて笑う陽菜が、よくあるよ、と肩を竦める。


「それでも今回は明らかにルール違反だし、私が鳴の専属だったと言ってももう球団を辞めた人間なわけだから鳴に関することは担当に話してほしいって言ったけど」
「けど?」
「今回は渡りに船。こうやってケース・バイ・ケースでお互いに貸し借りなしで仕事をするのもいいかなって思う」
「…ふうん。聞くよ」


広報として球界に顔が知れるようになってきた、陽菜はこれからも球団に必要な人間だとまだ1年も経たない数ヶ月前の開幕日に俺が陽菜を辞めさせると告げた時に返ってきたカイルの言葉を思い出す。人との繋がりを大切にしながら毅然と仕事をする陽菜のプライドを持ち続ける強さに惹かれたというよりは最初は憧れの方が強かったかもしれない。選手ファーストだと示し続ける頼もしさも、困難にぶつかった時にそこに踏ん張り続けられる確かな足元も、全部陽菜の生き方の結果だ。そこに陽菜を支える人がたくさんいるのは、ある意味じゃ悔しくもあって羨望でもあって。やっぱ好きだなぁと惚れ直したりもして。

けど仕事はあくまで鳴の担当に対応してもらわないとね。
そう言った陽菜の案を聞いてから数日後。デイゲーム後に設定されたカイルとの打ち合わせへオフィスに足を向ける。お疲れ様ーと広報部のみんなへの差し入れに近くで人気のドーナツ店で買って渡せば、さすが陽菜の旦那!って陽菜の元同僚が言うから笑っちゃったよ。ここでは陽菜ありきの俺なんだから参っちゃうよね。俺、チームのエース!!先発ローテ入りのピッチャーなんだけど!!本当、陽菜が固めた足元…堅固すぎ。


「カイル、来たよ」
「ノックぐらいして入れ」


まったくお前も陽菜もアンディーも…、と呆れたように続けるカイルの横に立つそいつがいるなんて聞いてない。
今更?とカイルにへらりと笑ってからそいつを睨めばカイルは小さく息をついて、座れ、と俺をソファーに促す。

謹慎中のはずの、一応俺の担当広報ジャン。背が高いくせに背中を丸め俯きデカいくせにみっともねェ。少しやつれてる様子のそいつから普段の生意気さが全く無くてソファーに座りながら、くいっ、と顎で同じようにテーブルを挟みソファーに座るカイルを前にジャンを差す。


「アイツもいるなんて聞いてない」
「言ってないからな」
「俺がそういう返事が欲しくて言ったと思うわけ?」
「失敗をやりっ放しで放り投げ逃げたらもう2度とそこには立てない。立つ権利も与えられない。それは身内でやることじゃない」
「………」
「と、陽菜が電話を掛けて言ってきた」
「!…なるほどね」


生意気だ、と言うわりには嬉しそうに笑うじゃん。
目を伏せ手にする書類に目を通すカイルを前に俺の口の端も思わず上がる。陽菜も放っとけばいいのにそう出来ない陽菜だから俺と陽菜は良いコンビになれたし、好きになったわけだけど。


「な、成宮さん!!」
「!……あ?」
「申し訳ありませんでした!」
「………」


すっげェ勢いで頭下げるじゃん。
いつの間にかテーブルの横に立ち直角どころか自分の膝に額がつきそうなほど深く頭を下げるジャンに目を細める。足の横に手が固く握り締められているから言葉を待ってやる。


「成宮さんに、なんで広報になったかって聞かれて俺…ずっと考えてて。子供の頃からずっと色んなスポーツをやってきてそこそこなんでも出来てきたんで…球団広報って仕事もスポーツに関わる仕事ならまぁいいかって考えてました。周りも機械的に仕事をこなして定時になったら上がって休みの日はライブに行ったり飲みに行ったりして、ある程度の仕事をしてプライベートを楽しむような奴らばっかなので…俺もそれでいいって。多分、一生そうやって働いていくのが普通なんだ」


けど、と絞り出すような声で続けるジャンがこうして自分のことを話すのは初めてかもしれない。まぁ俺も聞こうとも思わなかったし。


「陽菜さんが」
「!」
「陽菜さんがホーム球場を飾る成宮さんのポスターを見て誇らしげに笑った横顔を思い出して」
「球場の?あのでっかいやつ?」
「はい。あの時はまだ陽菜さんは成宮さんの専属で、開幕に向けて宣材用のポスターや商品のチェックも含めて仕事も多くて、キャンプ地とオフィスとを行き来する目が回るような忙しさでした」


オイコラ、クソガキ。アンタのせいで、と暗に含めただろ今の目線。

じとりと見てきやがるジャンにイラッとして、あ?と声を低くして反応する俺にやめとけとばかりに書類を投げて寄越すカイルに目を細める。あーあーそうですか!なんだかんだ部下が可愛いわけね!!受け取った書類で顔を隠してベッと舌を出したのに舌打ち返ってきて、こっわ!


「目の下にクマだって出来てたし、僅かな休憩時間も成宮さんのスケジュール確認に費やしてスマホを手にしたまま仮眠することだってあった。あんなに一生懸命、なんでやるんだって俺はずっと思ってました。開発や営業とも冷静だけど喧嘩みたいな話し合いもするし精神の摩耗だって半端ないじゃないですか。所詮は人を輝かせるだけで自分には返って来ない。理解できないってずっと…あの顔を見るまでは」
「………」
「成宮さんが開幕投手に決まって、ずっとそれを想定して準備してきたポスターがやっと球場に飾られて、それを前にして今までの全部このためにやってきたんだろうって思いました。満足そうで、誇らしげで。成宮さんを好きかどうかなんて関係なく、陽菜さんは陽菜さんのために仕事をしていました。球場に集まったチームのファン達がそのポスターを前に記念撮影したりグッズを購入したりする様子が本当に嬉しそうでした」
「気付くのおっそ!」
「っ……はい」
「陽菜が俺の妻なんてこと、陽菜はまったく気にせず仕事してたと思うよ。まぁ本人の心中は違うと思うけど、陽菜は仕事にそれを持ち込みたくないくらい仕事に誇りを持ってた」


だから言ったじゃん。


「俺は女の子としての陽菜を好きになるよりより先に、球界人としての陽菜を尊敬してるって」


ふふんっと笑ってやれば悔しげに顔を歪めたジャンからまた反論が出てくるかと思いきや、はい、としおらしく頷き調子が狂って片眉を上げる。カイルはまた舌打ちすんな!!


「まぁいいや。で?要するになんなわけ?仕事の話し、してェんだけど」
「っ…俺にも協力させてください!!お願いします!!チャンスをくれた陽菜さんに応えたい…っ俺も、あんな風に自分に誇りを持ちたい…!」
「……だって。カイル」
「俺に振るな。担当はお前だろ、成宮。お前が決めればいい」
「そ?」


じゃ、お言葉に甘えて。
立ち上がりジャンの前に立てばまだ背筋を丸めて反省しっぱなしのジャンに目を細める。
カイルに詳しく聞けばコイツは俺にどうして広報になったんだと聞かれて以来、何かを探すように仕事をしていたらしい。そこにリンから話しを持ちかけられて飛びついて、迂闊。馬鹿。世間知らず。けど、それを自分で知ったのは自分を知ろうとしたからだろうって少なからず俺にも似たような経験があるから分かる。世の中にはやり直しがきくことばっかじゃねェし、むしろ大人になったらそういうことの方が少ない。だからこれが最後のチャンスだよ。

ジャンの胸ぐらを掴みグィッと引き寄せ睨む。ハッと息を呑み目を揺らすコイツが俺を真っ直ぐ見据えて逃げねェから、フンッ!と吐き捨てて手を離してやる。


「陽菜のことは諦めろ」
「!」
「あの子は俺の隣だからああなんだからな。お前じゃ無理」
「っ……」
「へーんーじー!!聞こえねェんだけど!!」
「はい!!」
「うるせェ」
「うわっ、と!あのさー!!なんでもかんでも投げるのやめてくんない!?陽菜にも移ってるんだけどそれ!!」
「そうか。教育の賜物だな」
「はあ!?」


カイルが投げつけてきたスマホをキャッチしていいから早く座れと促されて俺もジャンも座り、さて始めよっか。



幾重もの波紋の真ん中
「ところでさ、カイル」
「なんだ?」
「…陽菜、やっぱ大変そうだった?」
「まぁ1人でこなす仕事量じゃなかったな。俺がやるとは言ったが」
「言ったが?」
「自分がやりたいって聞く耳を持たなかった」
「へぇ…ふうん」
「うるせェ」
「うおっ!!あっぶな!!本当、投げすぎ!!うるさくしてねェじゃん!!」
「顔がうるさい」
「はあ!?」

2021/04/21




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