天泣を浴びる


あぁ…いいなぁ。距離にしてみれば18.44m。あそこより鳴に近い場所はきっとない。ホームベースとマウンド、向き合う2人の間で交わされるサインや意思の疎通を経て打者を打ち取った時の高揚感を真正面で受けられる捕手が私はいつだって羨ましい。

開幕まであと3日。
うちの球団は未だ開幕先発投手を発表しておらず、内部の私たちにも知らされていない。監督が熟考に熟考を重ねているのは明白でマスメディアのインタビューに対して、慎重に判断したい、と答えていた。開幕ロースター、つまり今シーズンを戦うメンバーはおおよそ定まりキャンプ地に残る主力選手の中にはもちろん今日の試合で登板し勝利を収めた鳴もいる。
照準がどんどん合ってきてる。ルーキーのジェフとのバッテリーも多少の衝突がありながらも呼吸が合ってきたのが分かるし、何より調子を上げている鳴にチームの士気が引っ張られているのが分かる。心臓が高鳴り収まらないような、早くすべてをぶつけたくて堪らない興奮が熱気になってチーム内に溢れていて空気が薄いけどそれさえも楽しむような独特の雰囲気。


「1、2、3…」


誰もいなくなったグラウンドのマウンドに立って歩数を数えながらホームベースまで歩いてみる夜。明かりは外の球場を照らす照明だけ。鳴はチームのみんなと食事。中嶋さんも一緒だから心配いらないし、むしろ開幕前にチームメイトと過ごすのは大切な時間。
…こんなに遠いんだ、ホームベースまで。
鳴のボールを見ていると手から放たれてキャッチャーミットに収まるまで本当に一瞬だから歩いてみる感覚とはまるで違う。当然私と歩幅も違うから鳴がマウンドに立つまでの距離感ともまた違うんだろうけど。

そんなことを考えながら数えて30歩を越えた時、足音がして息を呑み足元から顔を上げた。ホームベースまではあと半分ぐらい。よく知るシューズで、よく知る声で私を、陽菜、と優しく呼ぶそれに目を見開いた。


「なーにやってんの?こんなところで」
「鳴こそ…ご飯食べに行ったんじゃなかったの?」
「食ったよ、ちゃんと」
「明日は午後入りだから飲んでくるのかと思った」
「陽菜は?食った?」
「ホテルのレストランで」
「陽菜も来れば良かったのに」
「私が行ったら監視されてるみたいでみんな寛げないかなって思って」
「まぁアンディーもロイもかなり馬鹿やってたけどね」
「ふふっ、聞かなかったことにする」


昨シーズンからの主力選手が1人も欠けることなく現時点でこのキャンプ地に残ってることがとても心強くて、きっとうちのチームは昨年よりも上へいけるって確信できる。

クスクスと笑う私に鳴も、動画撮ったから後で見せるよ、と笑いながらズボンのポケットからボールを取り出して、ひょい、と投げてはその手に取るを繰り返す。


「陽菜」
「うん?」
「そっち立って。マウンド」
「え…」
「投げてみなよ」
「は、え!?わ!!」
「ナイスキャッチ」


投げてみなって…いきなり?
ポイッとボールを投げ渡されて辛うじて取れたのは鳴がちゃんと取れるように投げてくれたからだよ。
えぇ…、と不満を零す私に、いいから!と言い募る鳴はこうなったら絶対に引かないから小さく溜息をついてマウンドへ戻る。手にしてみると小さなボール。何回も手にして、磨いてをしてきたけど投げる前提で見るとまったく別物に見えるから不思議…。


「投げ方とか、分からないからね!!」
「えー?俺の毎日見てるのにー?」
「見るとやるは違うでしょ」


えぇっと…鳴、鳴の投球フォーム…って出来るわけないじゃん!!
にんまりと笑う18.44m先の鳴。近いようでボールを投げるには遠い距離。大体始球式とかで素人が投げる時も届かないことが多いこの距離でいきなり投げるだなんて…もう!ちょっとわくわくするし、どうにでもなれ!!

お!と鳴の楽しげな声を聞きながら腕を振り上げてボールを力いっぱい放る。
大きくゆっくりと空に弧を描いて、真っ直ぐと鳴が上げた両手にキャッチされたボールに息を呑んでから、わ…と声が漏れる。


「届いた!!」
「やるじゃん」
「わ…びっくり!私、体育のボール投げも全然投げられなくて馬鹿にされたのに…!」
「野球部のマネなのに、って?」
「そう!!御幸とか倉持とか麻生とか…!でも…ちゃんと、鳴に届いた」
「!……うん」


高校を卒業してもう何年経ってんだって感じだし、こんなに興奮して子供っぽいかもしれないけど鳴が嬉しそうに笑ってくれるから私も嬉しくて顔がふにゃりと緩む。


「陽菜ー!!」
「え!?な、なに!?」


顔が緩み過ぎでは…と両頬に手を当てていれば鳴に大きく呼ばれてビクッと身体が跳ねちゃった。ニカッと笑う鳴はズボンの両ポケットに手を入れて少し勿体ぶるように大きく息を吸い込んだ。


「俺、開幕先発投手だよ!!」
「!」


え……今、なんて…。
鳴の言葉を何度も何度も頭で繰り返して、息が止まる。鳴が、ブイッ!とピースサインを作って私に向けてニッと嬉しそうに笑うのを見てようやく呼吸が出来て、その一呼吸目で足を踏み出した。

早く、早く…!やっぱり18.44mなんて距離羨ましくなんてない!鳴の隣にいられなきゃ意味がない!鳴の真正面18.44mのこの場所は一生誰かのものだけど、鳴の隣と飛び込んだ私を抱き留めてくれる腕だけは私だけのもの。誰にもあげない、一生!


「うわっ、とー!っ…ブハッ!ははっ!すげェ勢い!!」
「め、っ…鳴…!」
「んー?」
「いっ…いつ!?いつ聞いたの!?」
「今!監督に呼び出された」
「も…!なんでそれを先に…っ。もう!!」


溢れてくる涙で声が言葉らしい言葉にならなくても鳴は聞き取ってくれて笑いながら返してくれる。ぎゅうっと苦しいぐらいに力強く抱き締めてくれる鳴は私の頭を髪の毛を指で梳きながら撫でてくれるからその優しさにますます涙が止まらない。
開幕先発…!鳴がチームの顔であると認められたその証。オフの間、伸ばして伸ばしてやっとその手に掴んだ鳴の…鳴だけの強さの証明。


「ふっ、く…めい…っ鳴…!」
「うん……陽菜」
「っ……」
「こっち向いて」
「やだ」
「ハイ、向かせる」
「いたっ!首!!グギッていった!」
「素直に向かないのが悪いんじゃん」


涙でぐずぐずだから嫌なのに、顔を両手で包まれて鳴に無理やり向かされた首が痛い…!

シレッと当たり前のように言う鳴をキッと睨むけど、向き合ってみれば鳴の方が泣きそうな顔。っ……胸が、苦しい。鳴の苦しさや悔しさを世界中の人に分かってほしい。ここに至るまでにどれほどの想いをしたのかを私の中にある言葉の限りを尽くして語りたい。じわりと目にまた涙が溢れて目頭が熱くて唇を噛み締めると鳴が指を当ててやんわりとそれを解いてくれる。
そのまま鳴の指が私の唇の輪郭をなぞって、自分も痛そうな顔をしてから私にキスをしてくれる。触れて、離れて。鳴の腕に縋り少しだけ背伸びする私を支えるように腰から抱き締めてくれる鳴の温かさにやっぱり涙が溢れて頬を伝った。

お互いの吐息が唇に触れて分かるほどの距離で鳴が私を真っ直ぐ見つめるその瞳に、綺麗、と言う前にその言葉ごと食べるみたいなキスを繰り返して、苦しさに逃げようとしても鳴が離してくれなくて私の舌を吸い軽く噛む鳴に次第に足が立てなくなって腕に縋る手に力が入る。


「ゃ、…鳴…もう無理…」
「俺が無理」
「っ…ん…!ふあ…」
「……可愛い」


も…っ、だから…!


「め、めい…っ」
「ん?」
「ここじゃなく、て…部屋でしよ…」
「!…煽った?」
「違う!!誰かに見られたら恥ずかしい!!」
「見せてやりゃいいよ」
「やだ!!っ…声、出ちゃうし…」
「やっぱ煽ってんじゃん」
「真顔」


違うから…!もう、と鳴の胸を押し返してなんとか離してもらったけど、部屋でね、と言われてカァッと顔だけじゃなくて全身が熱くなる。こんな風に鳴に触れられるのが久し振りだから気持ちが追い付く前に身体が鳴を求めるのが分かる。それを気取られたくなくて俯く私だけど、


「真っ赤!」
「っ……言わないで!」


今は髪の毛が耳を隠してくれるほど長くないから鳴が嬉しそうに言うそれが丸見えで隠しようがない…!ふうん、と言う鳴に耳を捏ねられて絶対に今にんまりしてる鳴!!
頑として顔を上げない私にますます可笑しそうに笑う鳴に悔しい!
グィッと下から鳴の首元を引いて自分からキスをする。真っ赤な顔で鳴を見上げる私に目を丸くした鳴が私と見つめ合って3秒ほど。やっぱり鳴の瞳は綺麗、と改めて伝えるとハッと我に返った鳴が、コノヤロ、と掠れた声で続ける。


「っ……あとでどうなっても知らねェからな」


なんて真っ赤な顔で怒ったらいいのか笑いかけたらいいのかと決め兼ねる表情で言うから思わず笑ってしまう。
鳴が…鳴が先発…!
心の中がふわふわして高揚して叫び出したい気分!嬉しいのに涙が勝手にポロポロ落ちてくるし抑えきれない感情が溢れそうで鳴の胸元に寄りかかり口を手で覆っていれば、んん"!!とわざとらしい咳払いに顔を上げると同時に、はい!と差し出された1枚のよく見覚えのある紙。
そうだこれ…デザインが少し前にメールで回ってた。開幕投手がなかなか決まらないから無難に主力に残っている選手たちを載せるんだって…そう把握した開幕当日のチケット…。


「え…これ…開幕日のチケット?」
「そ!この席で当日、俺のこと観てて!」
「でもベンチに入る予定だったけど…」
「だーめ!ここがよく見えるし、ベンチにはカイルがいる。陽菜には俺のことを妻としてここで観ててほしい」
「…分かった」


でも…なんで?
チケットを見つめ首を傾げる私の頭には疑問符がいっぱい浮かぶ。出来ればベンチで鳴の状態を把握したかったし、試合後にすぐに鳴と合流出来るからその方が都合が良いんだけど。

鳴を見つめても満足そうに笑うだけで真意を教えてくれそうもない。それに妻としてと言ってもらえると少なからずやっぱり嬉しくてチケットに改めて目を落として口元が緩むのが自分で分かった。
それに…このシチュエーションには覚えがある。鳴が私を倉持のチームの日本シリーズ優勝決定戦を現地で応援できるように日本へ渡してくれた時、航空券をくれた時ととても似てる。流れた時間と、その時間の中で鳴と私が重ねた想いと…それから乗り越えたものを思うと……っ。


「っ…どう、しよ…鳴」
「うん?」
「嬉しくて…涙、止まらない」
「!」
「気が緩むと出てきちゃう…」
「……一緒に泣いてあげようか?」
「それ、前に私が言っ…!」


言いながら顔を上げるとポタと私の頬に落ちた鳴の涙。っ……苦しかったよね。私が軽々しく言葉になんかできないけどずっと見てきたから分かる、絶対に誰よりも。鳴の綺麗な青い瞳に涙が浮かぶとビー玉みたいに煌めいて目が離せない。グッと奥歯を噛み締めて鳴を飛びつくようにして抱き締める。


「お願いします」
「!……ん」


もっと…もっと強く抱き締めて。
覆い被さるように強く私を抱き締める鳴を私もできる限りの強い力で抱き締め返す。溢れる感情のすべてが漏れなく私に流れ込むように。

この日は本当に久し振りに鳴にきつく抱きしめられながら眠った。ただそれだけだけど、心が満たされて眠っている鳴の腕の中で鳴の寝顔を何度も見つめて確かめてそのたびに浮かぶ涙をもぞもぞと動きながら拭うを繰り返して、私はゆっくりと微睡みながら思う。鳴との関係が少しずつ、自然な形で変わってきている…。ずっとずっと選手とマネージャーで在れると思っていたけれど私と鳴が互いを大切に想うほどそれは難しい。
変わるのは…怖い。けれどきっとすぐに…ううん、本当はもうとっくに決断しなきゃならない時。忙しさや使命感で覆い隠して気付かないふりをしてきただけ。鳴の腕の中でその温かさと心地の良い拘束感に包まれながら心の深淵に向き合うように眠りに落ちた。




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -