この傷はあなたにしか見えない


すぅ…と小さな寝息に気付けば涙が流れて枕が濡れた。
鳴。苦しいよね。ごめんね…、もういいよ、なんて優しく言ってあげられない私でごめん。

鳴と一緒に帰ってきて、鳴の部屋で手を繋ぎ眠りふと目が覚めたらまだ午前2時。込み上げる嗚咽を堪えて目を瞑り無理やり自分を眠りに落とす。閉じているはずなのに目からは絶えず涙が流れていく。メンタル、やられちゃってる…どうにかしなきゃと思うたびに正解なんてどこにもないことを知る。それはとても苦しい答え合わせで、悲鳴を上げたそうな鳴の背中がそれでも強く前を見続けるから私も叫びたくなる。鳴はこんなに野球を愛していて、すべてを捧げているのにどうして野球の神様はちゃんとすべてを鳴に返してくれないんだろう。意地悪…大嫌い。けど…鳴を愛してくれて…ありがとう。


「陽菜」
「……鳴。おはよう」
「おはよ」


寝起きの優しく掠れた鳴の声に心が穏やかになる。鳴も優しい表情をしてるから…同じだといいな。
おもむろに鳴の指が私の目を擦ってそのまま手で柔らかく頬を包んでくれる。温かい、とふふっと笑い混じりに言えばくたりと笑う鳴は手をすぐに離してゆっくりと身体を起こす。


「今日もおにぎり作ってきてくれる?」
「お安い御用!」
「ん。よろしく」


私も起きなきゃ…。枕元に置いていたスマホで時間を確認すればあまり余裕もない時間。少し気怠い身体をベッドから起こして支度をする鳴の背中を少し眺めて、また球場で、と鳴の部屋を出た。私の部屋は隣だから支度するなら戻らなきゃ。
…ちゃんと笑えてたかな。
声、震えてなかったよね?平然としてた…はず。
ドアにもたれて、はあぁー…、と溜息をついて顔を両手で覆って俯き数秒。手に持っているスマホの画面を見つめて小さく、よし、と呟いてようやく自分の部屋に戻った。鳴が空港でプロポーズしてくれた時にくれたバラの花束で作ったドライフラワーが待受けだから、ついつい見ちゃうことが多くて。私の心の支え。いつだって真っ直ぐで誠実な鳴の言葉は私の中で全部宝物だから、その言葉と共に在ったバラは尚の事特別。

それから毎日、鳴におにぎりを作り一緒に朝を迎える日を繰り返して数日後、鳴がマウンドに立つ球場は3点の失点を重ねた辺りからスタンドで観戦していたファンからブーイングが上がり不穏な空気に包まれた。終始ピッチングのリズムを作れないまま、それでも最終回まで投げきった鳴の肩を試合終了でベンチに戻りしな叩いたアンディーが私を見つけて首を横に振った。鳴…。キャップを目深に被りマウンドの土を蹴る鳴に駆け寄るキャッチャーと何か会話をしているようで少しだけ安心する。…けど、胸が苦しい。鳴の苦しさや悔しさややりきれなさを鳴の代わりに声に出して叫びたい。ギュッと唇を噛み締め手も握り締め、今私ができる事は纏めたデータを中嶋さんに渡し鳴を託すことだけ。


「…あんま気負うなよ」
「…何言ってるの、アンディー。気にぐらい負わせてよ」
「!」


ポンと肩を叩いてくれたアンディーの心配に自嘲的な笑みを零しながら答えて、お疲れ様、とベンチを後にする。気持ちに負うぐらいなんだっていうの。私にはそれしか出来ない。ううん、許されない。こんな痛みや苦しさなんてへのかっぱだよ!


「鳴の不調はアンタのせいじゃない?」


そう、へのかっぱ。
球場を出た私にぶん投げられた言葉が深く胸を抉りさらに痛ませたって、笑ってやる。

通り過ぎたファンの女性を振り返り嫌悪や蔑視の混じる目線ににこりと笑う。


「いつも成宮を応援してくださりありがとうございます」


私のせい?鳴を見くびらないでよ。あなた鳴のファンなんだよね?…いっそ、そうであったなら簡単で私にも救いがあるのに。
私の言葉に不満げに眉を吊り上げた女性に背を向けたと同時に背中に感じる衝撃と破裂音。は…?と呆然として固まっていればポタポタと髪の毛の先を伝って落ちる冷たい雫。追い掛け地面を見れば色鮮やかな緑が跡を作ってる。まさか私の血が緑ってわけでもあるまいし、濡れた髪の毛に指を梳き通してぬるりとした触感を知る。
あぁ…絵の具。…で、足元に落ちてるビニール片を見るにどうやら絵の具入りの水風船を投げつけられたようで絶句数秒。ハッ!と気付き手にする鳴の投球データを纏めたノートを確認すれば無事で何より。これだから早くデジタル化しなきゃと思うけど高校の時にマネージャーとしてスコアをつけていたこともあって紙の方がしっくりくるんだよね。ほう…と安堵の息をつくも周りでこの現状を見ていたファンたちのざわめきになんとかしなきゃだったと振り返る。

私をおかしそうに見ていた女性は私の反応が思いもよらなかったようで、目を見開き固まりなんなら自分が始めたくせに周りの騒ぎに萎縮すらしてる様子。なによ、と苛立ちはするけどあなたを責めたいわけじゃないよ。


「鳴は必ず開幕で先発に入ります」
「え……」
「だから、信じてあげて」


日本とはまた違う、スポーツ観戦に傾ける情熱は時々怖いけれど頼もしくもある。ある意味じゃ何よりも分かりやすい信頼であって、時に薄情なほど残酷。応援してくれるファンが裏切られたような心地になってしまうそのやり場のない気持ちを鳴が調子を崩した頃に付き合いだした私に対してぶつけたい衝動も共感はしないけど理解はできる。

ぽた、と髪の毛から落ちる雫が鬱陶しくてヘアゴムで髪を結い女性に頭を下げる。使いな、とファンのおじさんから渡されたタオルは鳴のファングッズで、ありがとう、と笑いかけて受け取った。


「陽菜さん!」
「あぁ、ジャン。ちょうど良かった。あそこの片付けよろしく」
「え、ちょ…!えぇ…」


あなたおかしい、と女性の声が追いかけてきたような気がしたけど気のせいということにして慌てるジャンを置いてタオルを被ってその場をあとにしようとしたけれど。


「うっわ…」
「こらこら。人の顔見て失礼な奴だな」
「今、1番会いたくなかった」


御幸。こんなところで何してるの?と問かければを休息日だと隣に泣きそうな顔の莉子さんと御幸。これはどうやら今の一幕をバッチリ見られちゃったみたいで、大丈夫!と莉子さんに笑いかけても莉子さんは御幸と組む腕にギュッと力を込めてからブンブンと首を横に振る。うーん、可愛い。


「何か良いデータは取れた?」
「なんともだな。あんなのは鳴じゃねェしな」
「!…さすがによく分かってる。じゃあね、良い休日を」


…良かった、引き止められなくて。
手をひらりと振って御幸たちとすれ違い中嶋さんのいるトレーニング施設へと改めて足を向ける。今何か気遣われ気持ちに添われるようことを言われたら泣いてしまうから。きっと御幸も分かってる。…ありがとう、御幸。

……けど、


「言い訳は?」
「あ、ありません…っ」
「なんだ?泣けば済むと思ってるのか?一体この仕事をして何年目だ。お前は球団の人間としてその立場をしっかり弁えているのか?それから部下を雑用係にするな」


こんな容赦のないお説教も望んでないんだけど!!別の意味で泣ける!!

中嶋さんのところで鳴の話をしていれば間もなくカイルがジャンを後ろに従えやってきてこの有様。中嶋さんに、助けて!の意を込めた目線を送っても頑張れとばかりに拳を握って見せられてどうやら味方不在。私が撮ってきた試合のビデオを観る中嶋さんを横に低く唸るような声でカイルが私を責める理由はただ1つ。


「成宮が先発だと誰が決めた?先発ローテを狙う選手たちのモチベーションを下げるようなことを言うな。その選手たちのファンの心情も少しは慮れ」
「す…すみませ…」
「それから、」
「まだあるの!?」
「オイ…ちゃんと聞いてるのか…?」


実は右から左だけど。とはまさか言えず鋭く私を睨むカイルににこりと笑い、もちろん、と答えれば投げられた!!スマホ!!しかもジャンのやつ!!ガシャンッ!と私が避けた先で音を立てたそれに、ぎゃあー!!と断末魔のようなジャンの声。お気の毒に…。


「それから、怒るべきところはちゃんと怒れ」
「!」
「今後のためにもならん」
「…はい。申し訳ありませんでした」
「早くその汚れを落とせ」


あぁ…そっか。そのままだった。思い出して触れた髪の毛は絵の具のせいでパリパリに固まって嫌な感じ。はぁ、と溜息を思わずついた私に鬱陶しいってカイル…酷い。知ってたけど。


「あぁー!!」
「!う、うるさ…なに?ジャン」


スマホ壊れちゃった?部屋に轟く大絶叫で私と中嶋さんとカイルは揃ってジャンを見て眉根を寄せる。それを受けても慌てて私のところに走り寄ってくるジャン…度胸あるよ。


「これ…!」
「触るな!!」 
「いたっ!そ、そうじゃなくて!!これ…」
「…なに?」
「油性じゃないですか?」
「!」
「乾き方が…」


深刻そうなジャンの声に勝手に髪の毛を触られてその頭を叩いた手を下ろしながら自分の髪の毛に触れる。わ…パッリパリ…。ハッとして椅子から立ち上がりスーツのジャケットを脱いで背中を確認すればこちらも酷い有様で指で擦るもすでに固まり落ちそうもない。っ…ひっぱたけば良かったあの女!!
首にしていた鳴がくれたネックレスは幸いすぐに髪の毛を結ったからか無事で外してよく確認してからホッと一息。


「ジャン、これ落ちる?」
「……落とすためには専用の溶解剤が必要ですし、何よりも髪の毛がかなり傷むと思います」
「スーツは?」
「これだけ時間が経ってるとクリーニングしてもさすがに元通りには…」
「ていうか詳しいね」
「学生の頃、バイトしてたんで。塗装の」
「あぁ…なるほど」


そう…そっか。どっちも難しいのね。
叩いてごめんね、とジャンに謝り私よりも深刻そうなカイルと中嶋さんを前に肩を竦めて立ち上がる。


「切ってくる。鳴には言わないでね、自分で話すから」


幸いキャンプ地としているここ周辺には美容院が近くにあるしスーツも買えるお店だってある。選手や駆けつけたファンをターゲットにしたお店がまさかこんな形で役に立つだなんて…苦笑いが零れる。

結った髪の毛に指を通そうとしても塗料が固まってそれは難しい…。鳴にこうしてもらうの好きだったけど…しょうがない。髪の毛は伸びるしいつか元通りになる。
地肌は平気ですか?と経験がある観点で心配してくれるジャンに頷きお礼を言ってタオルをまた頭に被って部屋を出た。
なんだか…麻痺しちゃってる?それとも強くなった?こんなことをされても不思議と悲しくはなくてぼんやりと道を歩きながら見上げた空が清々しいほどの青空でも恨めしく感じることもない。鳴が苦しい方がずっと苦しい……。


「鳴…悲しむかな…」


髪の毛切っちゃったら、なんて言うかな?
そんなことばかりを考えながら着いた美容院では美容師のお姉さんがあんぐりと口を開けて驚きながらも、ちゃんと綺麗にしてあげる、と力強く言ってくれた。

はらはらと、切るしかない髪の毛が落ちて切り揃えるために切った髪の毛がその上に積もっていく。綺麗なのに、と残念そうにしてくれるお姉さんにお礼を言って美容院を出た頃にはもう夕暮れで行きとは違う空をまた見上げ歩き風の通る首元を撫でた。美容師のお姉さんが苦慮して切り揃えてくれた髪の毛は肩にもつくかつかないがぎりぎりの長さになってしまい、こんなに短くしたのはいつ以来かと思案してもすぐに思い出すのも難しい。
鳴…中嶋さんと今日の試合内容を反復してトレーニングかな。おにぎり作って持って行こうかな。
施設のキッチンを借りておにぎりやおかずを作ろうと準備を整えた私はいつものように髪の毛を結おうとしてするりとすぐに掴めなくなった髪の毛に息を呑む。やだな…分かってたようで、分かってなかったことを実感した…。心に広がる虚しさに首を振り奥歯を噛み締め片隅に押しやって調理を再開。
まだ何も失くしちゃいない。私の大切なものはまだちゃんと在る。


今日はブルペンでキャッチャーと球の状態を確認しながら違和感などの微調整をしていると中嶋さんからメッセージが入っていて、作ったおにぎりやお弁当を手に足を向ければすでに鳴は1人。昨季までキャッチャーとして入っていたルイスが引退して空いた席はまだ争われているその最中で、新生バッテリーとしての調整も必要になってくる今季は球団としても防御率を落としたくなくて躍起になってる空気を感じる。だからこそ、投手たちに掛かるプレッシャーは相当のはず。


「鳴」
「!……んー?」
「お疲れ様!」
「ん。…ほんっと疲れた!!」


ググッと両手を伸ばしてそう言う鳴の背中は座ったまま振り返らず、私も鳴と背中合わせで座ってみる。背中に感じる小さく揺れた感覚と温かさに鳴を感じてホッとする。寒くない?と聞けば、平気、と鳴。暖かい気候の場所とはいえ投げた後で冷やし続けるのはよくないはず。あと少しだけ、と頭の片隅に置いて鳴がグッと寄りかかってくれる背中を愛おしく思う。


「全然駄目じゃん俺!!球走らねェし、曲がらねェし暴投するし!!」
「本当だね」
「キャッチャーのさ…あ、今日俺の球とった奴」
「ジェフ?ルーキーの」
「そうそう!そいつマジ生意気!!どっかの誰かさんを思い出す!!」
「えぇっと…まさか御幸?」
「そう!!ズケズケ言いやがって!!」


鳴らしい怒り方。くすくす笑う私に、笑い事じゃねーの!とやっぱりギャンギャン怒る鳴。

存在感必要だからね。ここにいる限りふるいに掛けられ続けるから。昨日も1人、マイナーのキャンプに送られた。それは鳴だって例外じゃないから…だからみんな必死。


「でもさー…やっと足がついた気分」
「…そっか」


だから吹っ切れてるんだね。良かった…。落ちるところまで落ちたらあとは上がるだけ。どこまで落ちるのかという不安もなくなったみたいで…良かった。

明るい鳴の声に深く息をついて私も鳴の背中に寄りかかる。すると鳴の手が前から私の頭を撫でて、陽菜、と呼んでくれる。


「聞いた」
「え?なに?」
「カイルとあのクソガキと」
「ふふっ、ジャン?」
「中嶋さんとその辺にいたファンと一也とアンディーと…」
「!」


まさか。
鳴が次々と口にしていく名前と"聞いた"の言葉にぎくりとして息を呑む。まさか、もしかして…。


「やりやがった女から聞いた」
「鳴、まさか…!」
「先に言っとくけど俺が探し出して問い詰めに行ったわけじゃねェ。女の方からでっかい声で呼ばれて泣きながら、やり過ぎたって謝られた」
「そ、そう…なら良かった…」
「……陽菜」


私を優しい声で呼んだ鳴はお互いの重さを預けていた背中をゆっくり離して改めて私と向き合って座った。
鳴の顔を見る前に視界いっぱいに鳴の手を広げられて私の髪の毛をするりとその手が掴んでやっと鳴の顔が見えた。
苦しそうで辛そう。顔を歪めて悔しげに奥歯を噛み締める鳴の手からは短くなった私の髪の毛はすぐに滑り落ちる。


「ん!」
「え……」
「抱き締めさせて」
「!っ…私…別に大丈夫だよ…」
「違う。俺がそうしたい」
「なに、それ…狡いよ鳴…っ」


両腕を広げる鳴の姿がいつの間にか溢れた涙で滲んで見えなくて、ギュッと目を瞑った瞬間に乱暴なほど力強く引き寄せられて強く抱き締められた。土と汗と鳴の匂いに包まれてポロポロと止まらない涙に嗚咽が漏れて、聞かれたくない私が必死に堪えていればそれを守ってくれるように鳴の腕の力が増した。


2020/02/05




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