片翼のはためき


指先で触れて、手の甲を頬に滑らせた。


「……青い顔」


目の下に指を押し当てると涙が指に乗って温かさを感じる前に滑り落ちた。陽菜のことを久し振りにちゃんと見た気がして目頭が熱くなりグッと息を呑む。
ごめんね、と小さく聞こえた。確かに陽菜の声だった。その瞬間呼吸が止まりそうになって手が震えボールがすっぽ抜けそうになったけどなんとか堪えた。

ベンチに座って後ろの壁に寄りかかり眠る陽菜の隣に腰を下ろして陽菜の頭を自分の肩に乗せてやる。規則正しい寝息だけどその顔は青白いし穏やかさとは掛け離れた辛そうな寝顔と何度も噛み締められて痛々しく傷の残る唇に目を細め眉根を寄せた。でもさ、こんな姿さえ陽菜は綺麗に見える。強くて、時々眩しくなってしまう。俺が言うんだから折り紙付きだよ。その眩しさに嫉妬して苛立ち八つ当たりしたその次の日、陽菜は部屋から出てこなかった。中嶋さんやカイルとはリモートでやり取りをしていたらしく、体調悪いの?と聞いた俺の頭にカイルがゲンコツを落した。なにあれ…鉄球かよ。めちゃくちゃ痛かった。…けど、陽菜の心の方がずっとずっと痛かったんだ。
毎日掛けてくれる声に返せる余裕もなく、それでも陽菜は俺の近くに居た。
俺の後ろじゃなくて隣に、と陽菜が言ったそれは思えば俺を食事に誘った時に精一杯が現れてたんだよな…。なんで気付いてやれねェんだろ、俺。いつも傷付けてから気付く。
で、極めつけは少し前に一也の奥さんと話してたそれ。あんな風に考えてただなんて思いもしなかった。今日はまだ俺のとこに来てないって気付いて、探しに行ってみればあんなことを話してて…今度こそ呼吸が止まったよ。仕事を辞められない理由が陽菜のプライドの他に俺を家で待つ勇気がないからだなんて、おくびにも出したことがねェじゃん…。

どうすりゃいいんだ、俺。
くるくるとボールを手で回しながら、ふうー…
と長く息をついて天井を仰ぐ。右肩の陽菜の重さと温かさが心地良くて目を閉じるとすぐに眠りに落ちそうだ。
待っててよ。俺がなんとかする。怖くて寂しくて本当は弱虫の陽菜が存分に泣いて甘えられるようにするから。
だからあと少しだけ、俺と苦しんで。


「おーい…まったく…」


やっぱり陽菜が隣にいないと俺はよく眠れない。いつの間にか眠りに落ちて互いに寄りかかり眠る俺たちを中嶋さんが見つけて起こしてくれるまですげェ深い眠りに落ちた。


「莉子が世話になったな」
「はあ?俺?」
「んなわけねェだろ。陽菜だ、陽菜」
「へぇー。なんか世話したんだ?」


なんて。多分あの時に陽菜が言ってあげてたことなんだろうけど。

数日後、1日ずっとメンバーを替えて試合が組まれた今日は一也も出場するらしくグラウンドで登板未定の俺が走っていれば一也が並走してきてそんなことを言う。…くっそ相変わらずイケメン。スポサンもこっちじゃますますサマになって見えるし。ふうん、と目を細める俺がぐるりとスタンドを見回すと…あぁ、いたいた一也の奥さん。


「情けねェ話、こっちに来てから自分のことでいっぱいいっぱいだったからな。陽菜に言われて迷いが消えたって言ってたぜ」
「なんのことか分かんないけど良かったじゃん」


あ、カメラ向けられてる。多分一也のとこの広報。
目敏く気付き一也にカメラを指差してシャッターチャンスを作るサービス。ひくりと口の端を引き攣らせる一也にニッと笑う。このぐらい出来ねェとこっちでやってけねェよ。


「で、陽菜は?SNSでひでェ言われ様じゃねェか」
「あぁなんだ。そっちが本題?」
「…なんとかしてやれよ、鳴。お前なら出来んだろ?」
「一也がまさかそんな風に言うとはね。あ、そういえば陽菜が一也のことお兄ちゃんみたいだって言ってたことあった!ププッ!確かに!お兄ちゃんって呼ぼうか?」
「おい。冗談で言ってんじゃ…」
「俺だって冗談でこんなことやってねェよ」
「!」


足を止めて眉間に皺を寄せる一也と向かい合い目を細める。


「陽菜は俺と生きるし、俺と死ぬんだよ一也」
「は…お前、」
「別に理解できなくていい。ただ俺は陽菜しかいらない。どんなに苦しくても泣いても俺は陽菜を連れて行く」


愕然と俺を見つめ言葉を失くす一也を置いて俺はランニングを続ける。ベンチでは陽菜がカイルと他のマネージャーたちと何か話していて、内に何を秘めていようが迷いや弱さなんて微塵も感じない。ジッとしばらく見ていればふと陽菜がきょろりと辺りを見回してから俺を見つけひらひらと手を振った。陽菜がどんな時でも俺をよく気にかけてるって、青道野球部OB会の時に沢村が言ってたっけ…。

ひらりと手を振り返していれば、のし!と肩に伸しかかってきたのはコイツしかいない!
ぴゅう!と高い口笛吹きやがって!


「おーもーい!やめろアンディー!!」
「一時期はどうなることやらと思ったが、なんとかなりそうじゃねェか」
「!…はあ?なんのこ、」
「陽菜だよ。ここのところ唇噛み締めっぱなしだったから痛々しくて見てらんなかったぜ」
「…アンディー、陽菜のことよく見てるよな」
「ま、可愛い妹分だ。あんま泣かすなよ」


…妹分を語る目じゃねェじゃん、それ。
スッと細められた目で投げられた一瞥が明らかにそういうもんを超えてる。
ぞくりと背中に恐怖が走るほどの冷たさと真剣さと怒りと僅かな牽制が含まれたそれに睨み返す俺から暢気に鼻歌歌いながら離れていくアンディー。単に陽菜を元担当広報として可愛がってるだけだと思ってたけど、…どうやら違うみてェで焦燥が腹の底からジリジリと込み上げる。


「ムッカつく…」


陽菜の前じゃ絶対あんな顔しねェじゃん、アンディー。
かと思えば俺を振り返りからかうようにひらひらと手を振りやがるからイラッとして追い掛け追い抜いて同じようににやりと笑ってやる。そこからはいつの間にか鬼ごっこみてェになって、それを見ていたファン達からは俺たちの好感度が上がったとかなんとか。

ピッチングの方はすぐにどうにかなるもんでもないと分かっていても毎日のように調整の試合が行われ結果を出すライバル達の成果を見聞きすれば焦らないのは難しい。ただメンタルトレーニングにはもってこいだと中嶋さんが言うように何においてもプラスに変換するのも1個の課題だ。
けど、焦るもんは焦る。進んでいるはずなのに進めている実感は打者を打ち取り勝つことでしか得られねェから日々フラストレーションが溜まるのが自分でも分かる。踏み出した足が底なし沼に嵌り沈み込むような、心の中にもそうして少しずつ澱が溜まる。

ふうー…と息をつくのに上手く吸えねェ。くそ…。


「お疲れ様、鳴」
「!…ん。座りなよ」
「ありがとう。…あれ?中嶋さんは?」
「なんかミーティングだってさ」
「え、そうだった?…あー…確認忘れ…。じゃあ作りすぎちゃったかな」


ベンチに座る俺の右隣に座りスマホでスケジュール確認をしてを眉を下げ残念そうにする陽菜に首を傾げて思案すると良い匂い気付き、ひょい、と陽菜の持つトートバッグの中を見る。くすりと笑う陽菜にさっきまで張り詰めていた緊張が緩んでホッと深い息がつける。あぁ…こんな感じ、久し振りだ。スッと俺を取り巻いてた色んなもんがはらわれて身体が軽くなる。


「おにぎり作ったんだけど」
「マジで!?」
「間食ぐらいにはなるかなと思って。鳴、食べる?」
「食う!!」
「あと卵焼きと…あ、鳴は甘い卵焼き平気?」
「好き!」
「なら良かった。あと唐揚げとバナナと…」 
「美味そー…」
「なんか気付いたら部活の合宿の時みたいなラインナップになっちゃった」
「あぁ、青道で作ってたんだ?」
「うん。中身は鮭と昆布と梅干しぐらいしか用意できなかったんだけどね」
「全然良いし!陽菜も食おうよ」
「!…うん!」


すげェ嬉しそうに笑う…。
パァッと表情を明るくして口をパカッと大きく開けて子供みたいに笑う陽菜にグッと込み上げる愛しさに突き動かされるまま陽菜の肩に顔を伏せる。鳴?と優しく問いかけられる声がすぐ近くで聞こえる。


「陽菜は馬鹿だね」
「いきなりなに?」
「俺みてェな男に捕まっちゃってさ」
「!」


その瞬間に、ひゅっ!と息を詰めた陽菜の両手が俺の顔を包んで視線を引き上げる。眉根を寄せて目を細める陽菜が、怒るよ?ってすでに怒ってんじゃん。もう、と俺の眉尻を上げるように指を当てて上へと引き上げる陽菜が自分だって眉を下げて切なそうに言葉を続ける。


「しっかりしなよ、鳴。鳴は、俺と結婚できたなんて幸せでしょ!って豪語するような人でしょ?」
「っ……」
「大丈夫。絶対に大丈夫だよ鳴。鳴の手からは何も零れ落ちたりなんてしてない」
「…陽菜も?」
「当たり前。2度と聞かないで。次聞いたら今度こそ殴る」
「はあ!?怖すぎじゃん!!」
「今殴られなかっただけマシ。御幸なんて何回も殴られてるよ」
「うわ…」
「痛いのは鳴だけじゃない」
「!」
「そうなったら…私も一緒に泣いてあげる」


グッと唇を噛み締めた陽菜のそれに指を当てて優しく解いてやる。もう痛いじゃん、陽菜。俺が焦り苦しむ姿を側で見てるしか出来ない自分を戒めるみたいに自分を傷つける強さと優しさが傷を作る唇に見て取れる。
顔を寄せて陽菜が目を閉じるのを見てから痛そうな唇の傷を舐める。ぴくりと震えた身体を抱き締め今度はキスをして頭を撫でてやる。指で梳いた髪の毛は長くて柔らかい。心地良くて何度も繰り返していれば、鳴、と陽菜が俺を遠慮がちに呼びながら腕の力を強めた。


「うん?」
「もう少しだけ、こうしてていい?」
「!……いいよ」


むしろ俺は離すつもりがなかったけど、背中に回った腕が俺を抱き締め返して身体をぴたりと寄せてくる陽菜のいじらさが可愛らしくて堪らないから何も言わなかった。

陽菜が神妙な顔でそれを切り出したのは、しばらくそうしてから俺の腹が鳴ったのを合図に陽菜が作ってくれたおにぎりや唐揚げを食い出してからだ。


「鳴。登板が決まったよ」
「!…いつ?」
「5日後。中嶋さんもミーティングならそこから話を持って帰ってくると思う。…リリーフで5回から」
「リリーフ…」
「だけど、」
「やる事は別に変わんねェ」
「!……うん」


キャンプでは新人や育成段階の選手も参加して試合に出るから、開幕メンバーに登録出来るかどうかその枠を勝ち取るために死に物狂いだ。チャンスが多かろうが少なかろうが、そこで発揮出来ねェ奴から落ちていく。厳しく残酷。だからといって誰に譲るつもりもねェ。

おにぎり最後の一口を口に放り込んで、はい、と陽菜が渡してくれる水筒に入っていた温かいほうじ茶を飲み、よし、と立ち上がる。


「陽菜」
「なに?」
「ごちそうさま!」
「!」
「すっげェ美味かった!……今日はずっとそこで見てて。他の仕事より俺優先!!…で、一緒に帰ろ」
「うん…」


背中から聞こえる微かに震える声が、うん、と繰り返す。ここで振り返ってごめんと謝って抱き締めてあげるのは簡単。出来る事ならそうしてあげたいよ俺が多分1番、ていうか絶対。
けど、僅かに振り返る俺を見つめてふわりと綺麗に笑う陽菜がいる限り振り返ってばっかはいらんない。
いるよ。そう何を言わなくても背中を押されるような感覚に口角が上がりネックレスを握り締めた。




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