■ ■ ■

 華さんには少し年上の恋人がいる。

「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「じゃあ、コーヒーで」

 穏やかで柔らかい印象の、少し丸みを帯びた眼鏡をかけている男だ。細い狐のような目元は、だからと言って厳しさや狡猾さとは無縁だし、全体的にシャープな輪郭をしている。だから、眼鏡の丸みがよりいっそう強調される。
 コートを脱いだ男が着ているのは、深いワイン色のセーターと、それに合わせたグレーのシャツ。あと、綿素材の黒いズボン。覗く靴下がださい。細身の彼は、コーヒーも紅茶も、どちらも愛している。
 華さんが、トレイにコーヒーの入ったふたつのカップと、僕のためのミルクが入った浅い皿を乗せてリビングに入ってくる。それを、テレビの前に設置されたローテーブルの上に置いて、床に皿を置く。それくらいの時間は待てる、僕はいい猫である。
 華さんと男は楽しげに何か話している。内容にあまり興味がないのでほとんど聞いちゃいない。僕はミルクを飲んだあとの毛づくろいで忙しい。そして、腹を満たしたら今度は眠たくなってくるのが「自然の摂理」というやつ。
 あたたかい部屋の、日の当たるさらにあたたかい窓辺に寝そべると、ぶしつけにもそれを阻止する手があった。

「トラ」

 男は空気が読めない。僕が昼寝をしたがっているのなんて誰がどう斜めに見ても一目瞭然であるのに、僕を抱き上げるのだ。
 抵抗しようと腕を上げたところを捕まえられ(どうやら眠たくて動きが鈍っているらしい)、完全に捕獲されてしまう。眠たいし、男に何か攻撃したところで引き下がってくれるはずもないことは、今までの経験で知っているので、僕は抵抗を諦めてだらんとなる。

「はは、眠そうだ」

 分かっているなら離してくれないか。
 猫の額にも皺は寄る。僕は精一杯眉間と額に力を込めて不機嫌を表現する。
 この、華さんの恋人が、僕はあまり好きではない。猫はヒトの数倍鼻が利くとよく言われるからそのせいかもしれないけれど、男の漂わせる匂いが駄目なのだ。
 煙草臭いわけでもない、香水がきついわけでもない、別に、たぶんほかのヒトと大差ない匂いがするとは思うんだけど。

「大野さん、眠たいの邪魔したら駄目だよ」
「じゃあ、この状態で写真を撮って」

 そうしたら僕を解放する。男は愉快げにそう言う。華さんも笑いながら携帯電話を構える。
 カシャッ。間抜けな音とともに、間抜けなのであろう僕の姿が記録される。
 宣言通り、男は僕を陽だまりに下ろしてまどろみを与え、僕はそれを享受する。豊かな眠りは豊かな生活につながるのである。
 今寝ておかないと、夜に動けなくなってしまう。
 この男がいる夜は嫌いなのだ。だから僕は必ず外出して、夜明けどころか朝になるまで帰らないようにしている。男が帰ったあとの華さんはなんとなく気だるげで、重たい何かを引きずるような足取りで僕の食事の準備をする。
 重たい何か。それを僕はこう呼んでいる。「おもかげ」。
 僕は華さんの恋人であるこの男が嫌いだ。きれいな華さんのその横顔をくちゃりと歪めるから。
 猫の集会でたまに話題に出る華さんの私生活。猫の間では彼女は有名なのだった。なぜなら彼女は猫好きで、野良を見かけると必ず何かをくれるから。華さんの住むこのアパートの大家も、ペットに寛容で、だから華さんが野良に餌付けすることをいびったりしない。
 僕も最初は、この家の猫なんかじゃなかった。ずっと野良だった。ちょっと事情があって遠くから来たため、華さんのことは知らなかったけれど。
 近所の猫たちは、みんな知っている、そして僕も。華さんに昔、「トラ」と呼ばれていた恋人がいたことを。


20150816
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