■ ■ ■

 うっすらと街が宵闇の色に染まる。まだ、夜は明けない。

 ひたひたと道を歩いていく。誰とも会いやしない、明けきらない早朝。こんな時間に出歩くのは不審者くらいだな。そう思って僕はかすかに笑う。僕は不審者じゃないけれど。
 冷えたアスファルトから寒さがまとわりつくように、身体を包み込む。ぶるりと震えてアパートの一室の窓の前に立ちすくむ。
 こんなにも凍てつくような寒さであるのに、その部屋の窓はほんのわずかに開いていた。ほんとう、不用心だよ。
 誰のために不用心になっているんだか知らないわけじゃないが、僕はあいにくそれに対する感謝の心は持ち合わせていない。ほんのわずかに網戸を開けて、その隙間から滑るように侵入した。
 部屋の隅のベッドで、すうすうと規則正しい寝息が途切れずにヒトの存在を知らせている。そちらに近づいて、そっと顔を覗き込む。横向きに眠る彼女は、少し疲れたような顔をしている。
 横顔をじっと眺めていたけれど、しばらく経って少しおなかがすいていることを思い出す。とは言え何か食べるものもない。
 どうしようもないので、彼女を起こすことにする。頬に手を置くと、眉が寄った。何度かその軽く叩くような動作を繰り返しているうちに、うっすらと線が裂けるように目蓋が開いた。

「……トラ」

 こうして夢うつつの表情で名前を呼ばれるといつも少しだけ苦しい。その理由を、僕はちゃんと知っている。

「帰ってきてたの? ご飯食べる?」

 神妙に頷くと、彼女はもそりと起き上がり、んん、と伸びをした。パジャマ代わりにしている、部屋着を兼ねた綿のワンピース。無地の、淡い若葉みたいな緑色。
 それを爪先で引っ掻くと、苦笑して僕の頭を撫でた。
 寝床を抜け出して、部屋を出る。それを追いかけながら僕はちらりとベッドを振り返る。彼女の脱け殻のようなかたちの掛布団は、ちょっと滑稽だった。
 彼女が僕の食事として買い置きしているのは、だいたいがドライのタイプなんだが、僕としてはウェットが捨てがたい。もちろん僕はそのことを彼女に伝えるすべを持たない(食事のストライキという手段はいよいよのときと決めている)ので、しょうがなく食べてあげている。

「わたし、もう一回寝るね」

 皿にあけられたフードにしずしずと口をつける僕を尻目に、彼女は涙まじりのあくびをし、寝室に戻って行こうとする。もう、食事を与えられた今の状況では彼女が何をしようが僕の知ったことではない。
 寝起きにもかかわらずしゃんとした後ろ姿は、さながらその辺に咲いている椿のようだと思う。椿は真っ赤で大きくて、でも繊細で上品でいいよな、と思うのだ。
 まだ目覚めない街の一角で、彼女もまた再びの眠りにつく。それはまるで、世界がいったん終わってまた始まるかのようだった。事実、いったん闇を区切りにして世界は終わるのかもしれなかった。
 太陽が実はずっと地球の上で照っていて、それがリレーのバトンが回されるように徐々に照らす場所を移すことを知ったのは、いつだっただろうか。
 少なくともここにいるようになってからではない、と考える。でも、昔のことなど僕にはどうでもよいことなのだ。昔を懐かしむことはできても、取り戻すことなんてできやしないのだから。だからそういうのは、忘れてしまうのが一番に限る。
 第一僕は、今この場所が不幸せだなんて思わないし、昔のほうが幸せだったわけでもないので、懐かしむ必要すらないのだ。
 食事を終えて身づくろいをする。しっかりと毛を撫でつけながら、ほんのわずか、世界とはなんぞやと考える。
 太陽がずっと地球を照らしていてどこかが必ず夜でどこかが必ず昼ならば、世界は終わりやしないのかもしれない。先ほどの持論を覆しそうになって、いいややはり、と思い直す。
 僕と彼女のいる世界はおそらくたいへんちっぽけで。
 だから終わって始まる、それは間違いではないのだった。
 世界は、終わりから始まる。


20150814
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