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 けっこう歩いて、がんばって歩いて、こんなに歩いたのはあの夏の炎天下以来かもしれない、そう思うくらい歩いて、匂いを辿って「トラ」の元に着いた。

「……トラ」

 華さんの家だった場所から少し遠く、そして華さんの実家からも少し遠い、いわゆる都会に彼はいた。
 都会っていうのは匂いがごちゃごちゃしていて辿りづらいものなんだが、なぜだか彼の匂いはすぐに分かったし、辿るのも案外楽だった。
 二日くらいかけて来てやった僕に彼がお見舞いしたのは、盛大なくしゃみだった。
 ギターケースを背中にしょっていた彼に、鉤尻尾をゆらりとゆらめかせ、背を見せる。そして数歩先を行き、振り返った。「トラ」は、きょとんとして僕を見ている。
 もう一度そばまで行って、鉤尻尾ゆらり、数歩先を行き振り返る。それでようやく、トラは僕の思うところを察したようだった。
 コミュニケーションって面倒くさいな。

「トラ」

 華さんの実家まで、僕の足では二日もかかるし、こいつを連れてだときっと余計に時間がかかる。どうするか……と考えたとき、「トラ」が呟いた。

「もしかして、華さんのところに連れて行ってくれるの?」

 頷いてみせる。これが伝わるのだろうか、そんなことを思いながら鷹揚に。
 「トラ」が、ぱっと顔を輝かせてくしゃみも鼻水も涙も厭わず僕を抱き上げた。

「くしょん、待って、すぐ、バイク出す……っくしゃん!」

 バイクを出してくれるのはけっこう。僕の意思を汲み取ったのも上等。
 でも、そのくしゃみを続けてると、そのうち死ぬぞ。
 アレルギーって、要は身体の拒否反応なわけだし、僕とずっと密着していたらそのうちこいつは過呼吸とかいうやつで死ぬ。
 どうしようか思案して、でも僕を抱き上げた「トラ」に乱暴するわけにもいかないなと思いながら困っていると、どうやら彼の家まで着いたようだ。ほんとうに鳴物入りでデビューしたのか、と思うくらいにふつうのアパートに住んでいる。華さんの前住んでいた家のほうが立派だったような……。

「……はっくしゅん、はっ、は、……華さん」

 思い詰めたような顔をした華さんが、アパートの部屋の前に立っていた。

「……トラがいなくなったから、もしかしてここかと思って」

 僕は確実に言い訳だ。
 そして失礼極まりないことに、「トラ」は華さんの姿を認めたと同時、僕をぼとっと落とした。慌てて着地を成功させて、ぎろりと睨みつける。大怪我一歩手前じゃないか、危ない。
 なんだか、「トラ」はこちらに帰ってきてから華さんに、いろんな液体でぐちゃぐちゃの顔しか見せていない気がするのだが、これは僕の気のせいではない。
 よく見れば、華さんの頬は少し赤く腫れている。まるで誰かに張り手されたような。その赤い痕にそっと、彼の手が触れて、撫でた。

「あのさ」

 今にも、僕のせいとはまた別口で泣き出しそうになっている「トラ」が、言葉を紡ごうと必死に舌をもつれさせている。何か話そうとしたその瞬間、華さんが持っていたバッグを彼に投げた。
 それでよろけた彼の細い胸に、華さんが飛び込んだ。すぐに背中に回される腕を見て、僕はなんだかひどく安心した。
 半年とちょっと待っていた彼女の時間は、決して無駄にはならなかったのだ。


20161006
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