■ ■ ■
「はじめまして、トラ」
大野さんとまったく同じ挨拶をした男は、まるで僕が華さんのこどもであるかのように緊張した様子だ。気に入られたい、そんな気持ちが透けていると猫はいやな気持ちになる。天邪鬼なのだ。
なので僕は男の頬を自慢の鉤尻尾でなぶったあとで、思い切り引っ掻いてやった。猫の爪は、しまったり出したりできるから、お手もできるけどな。
「いたっ……!」
「トラ」
言っておくけれども、猫は地面に前足をつけて闊歩しているので、雑菌だらけだぞ。ちゃんと消毒しないと、それはそれは腫れるぞ。
血の滲んだ頬を押さえた男が、恨めし気に華さんを睨みつけた。
「僕は猫は苦手なんです……」
「でもこの子は……」
華さんは戸惑いがちに目を伏せて、困ったような顔をした。それを見て男が慌てたように言い繕う。
「いや、もちろん、アレルギーとかではないですし」
「アレルギー……」
あっ。禁句。
華さんの表情がみるみる翳って、「おもかげ」を連れてくる。
彼女は結局あのあと、縋りつくように土下座している「トラ」の姿を迎えに来た父親に見つけられ、逃げるようにその場を去った。僕を連れて。
もう何の液体か分からないほどに顔面をぐしゃぐしゃにした「トラ」は、それでも華さんの名前を呼んだ、必死で。
一肌脱ぐなんて格好いいこと言ったけれど、猫の僕にできることなんて限られているのだ。
たとえばそう、この目の前の花婿候補らしい男にめちゃくちゃに嫌われるとか、そういうこどものようなことくらいしか。
でも案外これが効果覿面であることにすぐに気づく。
華さんはひどく不安そうにまなじりを震わせて、僕の背中を撫でる。
「……トラ……」
大野さんのときも、僕は面倒くさそうに振る舞いこそすれこんな反抗的な態度はとらなかった。だから華さんはきっと驚いているのだ。
その後も、華さんのこどものような僕の反抗はけっこう効いた。男はすっかり意気消沈して、華さんの実家から退散していった。
夜、ベランダで、華さんは携帯をいじりながら僕にともなく誰にともなく話しだす。
「虎がね、メジャーデビューするんだってさ……なんか、びっくりするよね、急に遠い世界に行ったみたい」
めじゃーでびゅー、とはなんだ。
「ニューヨークで先にヒットして、逆輸入J-POPなんだってさ……変なの……」
じぇーぽっぷ、って音楽の種類だな。「トラ」って、音楽家だったのか。
僕は、一応話は聞いているけれど真剣に聞いているわけではなかったので、縁側で捕まえたカナブンをいたぶりつつ斜めに耳を傾けていた。
華さんの言葉はぽつりぽつりと脈絡がなくて、この話をしたと思ったらあの話をして、あの話が終わってないのにその話を始めたりして、よく分からない。
きっと華さんにもよく分かっていないのだ。結婚しそうな自分と、急に現れた「トラ」に混乱して、よく分かっていないのだ。
ヒトって難儀なんだなあ、思うがままに生きられないって、不便だなあ。
猫は自由だってよくヒトには言われているけれど、それって一理ある。僕たち猫が自由なのではなく、ヒトが不自由すぎるのだ。
20160925
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