■ ■ ■
「トラ」
のろのろと顔を上げる。それと同時に、盛大なくしゃみが僕に降りそそいだ。
何していたんだよ、今まで、華さんをほうって。そんな文句が口をついて出そうになるも、どうせ彼には一ミリも伝わらないのだ。なので、黙って睨みつけてそばに寄る。
自分の名前を、忌まわしきアレルゲンに命名された男が、目の前で呆然と立ち尽くしている。表札に華さんの苗字がないのだ。
今更迎えに来たとか言うなら、遅い。華さんはもうこの家を出て行く。それが何を意味するのか、猫の僕にも分かる。
僕が足元に擦り寄ってくるせいで、くしゃみが止まらないようであるこの男は、髪の毛を短く切って、それから小ざっぱりした印象の清潔なシャツを着ていた。背中に、大きなリュックをしょっている。
華さんは逃げた。もうこれ以上きっと、思い出の詰まったこの家にいられなかったんだ。きっと、今まで居座っていたのは、帰ってくることを待っていたから。けれどそれも、もう終わったんだ。終わったんだよ、「トラ」。
いつまでも華さんがここにいるはずないことくらい分かっていたはずだろ。
辛口で甘くなくて、でも川の底に長くいたように角が取れてまろやかな匂いのこの男は、くしゃみで鼻をぐすぐす言わせながら僕に手を伸ばしてきた。
「トラ、だよな」
にゃあとしか言えないこの口は、誰に味方したいのだろう。
華さんは結婚に向いていない。だからお見合い結婚なんて絶対失敗する。でも、だからって、「トラ」が見つかったよって、伝えるすべなんか持っていない。
猫はいつだってヒトに干渉しない。それは、したくてもできないからだ。
「俺は遅かったかな」
そうだ、お前は遅かった。
精一杯の抵抗で毛を逆立てると、びくりとその骨太な腕が離れていく。僕の背後で華さんの家だった部屋のドアが開く。華さんが顔を出す。
「……虎……?」
もう、あと十秒この男が来るのが遅ければ。チッ、と、僕がヒトなら舌打ちしていたところだ。こんな男は完膚なきまでに打ちのめすべきだった。
と思っていると、「トラ」の黒い頭がすぐそばに落ちてきた。
「ごめん!」
これがテレビでよく芸人がやっている「土下座」ってやつだと理解したとき、彼は僕のせいで顔を真っ赤にして鼻水をだらだらこぼしていた。
でも、僕は彼の顔のそばをどかない。
「華さん、待たせてごめん! でも、俺帰ってきた……約束を果たしに……」
「……」
華さんは黙っている。突然のことに、瞳を揺らして、唖然として「トラ」を見ている。
華さんと「トラ」が交わしたのだろう、小さな、ひそかな、約束。僕はそれを知らないけれど、でも華さんはちゃんときっと覚えている。やくそく、と呆然と呟いた。
目がむずむずして涙も出るらしい。僕はわざと鉤尻尾をゆらりと振ってやった。
「……ちょっと過ぎちゃったけど……もう遅いかもしれないけど……でも俺……、っくしょん!」
我慢できなかったようだ。告白の途中で彼は大きなくしゃみをした。
約束。って。破ったんじゃないか。ちょっと過ぎちゃったんじゃないか。何の約束か知らないけれど。
僕は、誰の敵でもないけれど。少なくともこの男の味方では、決してない。
猫はいつでも自由で気高く、誇りを持って大きなことを成し遂げる。たとえば夜と朝の架け橋になるとか。
「華さん、俺、俺……」
僕はこの男の味方ではないけれど、もしかしたら華さんの味方ですらないかもしれないけれど、でも、もし華さんがおまえと一緒にいることを望んでいるんなら。
なんだったら一肌脱いでやってもいいんだぜ。
20160925
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