■ ■ ■

 平和であれば、何気なく日々というものは過ぎてゆくものだ。冬将軍に、結局僕は会うことができないまま、今度は春一番がやってくるらしい。
 街を行くヒトの顔や服装がほの明るくなり始めた世界は、相変わらず煮干しを齧るように退屈だ。
 猫にとって春というやつは危険な季節ではあるものの、華さんと憎き獣医の手によって肉体改造されてしまった僕にとっては、まったくもって関係のない話だった。

「ううん、むずむずする」

 あおちゃんが呻く。それを、僕は芽生えだした若葉をいじめながら聞いていた。
 あおちゃんは、捨てられた猫だ。猫はあまり自分の出自を語りたがる奴はいないけれど、あおちゃんは、住んでいた家で少しだけよくしてもらったらしくて、そのことをふと話すときがある。あおちゃんは、自分を捨てた飼い主を恨んでいるわけではなかった。

「まあ、仕方がないよなあ。一気に何匹も産んじゃうんだもん、猫って」
「ほかの兄弟は?」
「みんな貰い手がついたんだ」

 あおちゃんだけは貰われなかった。そして飼い主は飼い主であおちゃんを育てることができなかったそうで、遠いこの地に捨てに来た。それは僕が生まれるより、ずっと前のこと。
 あおちゃんは、僕よりずっと長いこと猫をやっていて、所詮僕が生まれたのなど、一年前くらいなのだ。まだまだ若輩者である。お恥ずかしい。

「捨てられたのに、なんであおちゃんは飼い主さんを憎まないの?」
「……俺を捨てたのはその家のひとり息子で。まだあのとき小学生だったのかなあ。泣きながら何度も何度も、置き去りにした俺を振り返って……」

 最近覚えた言葉で表すなら、絆された、ってやつだな。と僕は密かに思った。
 ヒトの勝手な都合で、殺されたり生かされたりするような僕らではない。死ぬのも、生きるのも、すべて自分たちで決めることができる。逃げることもできるし戦うことだってできる。
 そう思って誇りを持っていたいけれど。

「結局僕たちは無力だなあ」
「なんだよ、急に」

 逃げることはできた。戦うことはできなかった。
 生きることはできた。でも、死ぬことまではコントロールできない。
 そして何より僕のこのちいさい手は、華さんの頬を拭うことすらできないのだ。

「華さん、最近元気ないよ」
「お前は話に脈絡がない」
「大野さんも来なくなってから、華さんはひとりぼっちだ」
「……」

 大野さんは来なくなったのに、「おもかげ」を引きずる日が増えたような気がして。僕がこっそり家に戻ると、泣き腫らした顔をして眠っている日も多くて。
 あおちゃんは、少し目を伏せ気味にして何か考え事をしているようだった。
 サボテンの棘がちくりと肉球に刺さったあの痛み。華さんの心臓を、もしかしてあんなふうに小さな針で誰かが優しくつついているんじゃないだろうか。だから華さん、あんなふうにつらそうな顔をするんじゃないだろうか。
 こんなとき「トラ」なら、どうやって華さんを慰めるだろう。そう考えて、思いつかないけれど仮に思いついたとしてもだ、僕には実行できないのだから仕方がない。

「今日、華の家に行こうよ」

 あおちゃんが、やがて顔を上げてそう言った。

「みんなで、華の家に行って、飯をたかろうぜ。そしたらさびしくない」

 所詮俺たち猫にできることは、そんくらいだ。
 そう言って、あおちゃんは決めた決めたとひとりで騒いで、ほかの猫たちに声をかけに行ってしまった。
 その日の明け方、窓の外でにゃんにゃん鳴きわめく僕らを出迎えた華さんは、驚いた顔をしながらも、ちゃんと全員に煮干しをひとつずつくれた。

「たしかに、元気ないな……」

 猫はヒトの心の機微に敏い。
 あおちゃんは、心配そうに、華さんの細い揺れる背中を見つめて一言、そう言った。


20160807
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